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かおりちゃんは こう言うの

新しいワンピース かならず最初は学校よ
いっぱい人が いるんだもの

考えるのよ
まっさきに 誰がほめてくれるのかしら
向かいのゆきちゃん
後ろのふみちゃん
隣のクラスのまことくん

考えるのよ
まっさきに 何をほめてくれるのかしら
襟のリボン
ピンクのボタン
裾のふんわり白レース

みんな見てるわ 私のことを
ちょうちょのような 私のことを

みんながほめてくれるから
かならず最初は学校なのよ


そこでわたしは こう言うの

新しいワンピース かならず最初はお家なの
だあれも人が いないんだもの

訊いてみるのよ
パパとママ わたしにこれがにあうのかしら
おおきくない目
まんまるなかお
すらっとしてない手と足に

訊いてみるのよ
パパとママ おかしいところはないかしら
リボンのほつれ
ボタンのはずれ
白いレースのしみなんか

みんな見るのよ 私のことを
あひるのような 私のことを

かわいいよって言われたら
それからやっとお外に出るの


部内対談企画です。今回は一年生の堤葉月と二年生の藤田そらです。


(藤)はい、では今回の対談は「恋の句」ということで、えーと…メンバーがメンバーですね…!(意味深)(編者注:堤、藤田は互いにドロドロした恋愛観を持ち合わせています)
(堤)そうですねw どんな対談になるか…暴走(意味深)しないように気をつけていきたいと思います!
(藤)それでは、まず私の鑑賞したい句から入らせていただいてよろしいですかな…?
(堤)はい、大丈夫です!

(藤)逢ふことも過失のひとつ薄暑光 大高翔(『キリトリセン』より)
(堤)?!(どうしよう、被ったっ…!)
(藤)あらら、すごい偶然
(堤)こんなこと、あるんですね……(震え)
(藤)ではさっき言ってた他の候補から出すかな~(編者注:同じ句を選んでしまう可能性を考慮して2句選んでおこうという話をしていました)
(堤)お、お願いします……

(藤)恋ふたつレモンはうまく切れません 松本恭子(『檸檬の街で』より)
(編者注:後に判明したのですが、堤はこの句も対談候補に入れていたそうです。句集を指定していなかったのにも関わらず2句ともかぶってしまうという偶然……)
どういう景というか、うん、どんな句だと思いました?

(堤)初恋の相手と両片想いだったのを数年越しに知って、でも今はお互い違う相手がいて、なんだか悔しいようなやるせないような……っていう景なのかなって思いました。
(藤)なるほど。自分は、(初恋は普通ひとつだけれども)同時にふたりに初恋をしてしまって、どっちも好きだし初恋だし割り切れない…みたいな景を想像しました。なんていうか概念多めだから読む人によって結構異なりますよね…。ただ(言葉同士が近いとしても)レモンと恋→初恋は想像してしまいますよね
(堤)そうですね。よく「初恋はレモンの味」とも言いますしね~
(藤)そして「春は恋の季節」とか言うのにレモンは秋の季語という
(堤)そう、レモンは秋の季語なんですよね。初恋で酸っぱくて秋って、なんというかそれだけでこの恋は叶わなかったのかなって思ってしまったんですが、先輩はこの恋、どうなったと思いますか?
(藤)一兎を追うものは二兎を得ず……嗚呼…手に入れたかった訳ではないのにね……、と言っても恋は常にどこかで求めているものだけれども。レモンが染みる……
(堤)彼女(でいいのかな)は本当にどっちも好きだったんでしょうね……凄くつらみを感じます……そう考えるとレモンの酸っぱさ、痛そうですね
(藤)また堤さんの考えた景だと、自分と相手で(ひとつになれるはずだったけれども)ふたつの恋で終わってしまった…という後悔というか甘酸っぱい思い出というか…みたいな感じですかね…それもそれで痛い…
(堤)どのみち痛い……レモンもう少し酸っぱさ抑えてあげてっ…!
(藤)なんとなく思ったことは、今恋をしているのか昔の恋の回想なのか、レモンは実際にあるのか比喩なのか(取り合わせだとは思うのだけれど一応)、それと、レモンを切った後なのか切ろうとしている時なのか(「レモンってうまく切れないものなんだよね」と切る前に思っているのか、ということ)。レモンは実物があるのかな~と思っているのだけれど
(堤)私の解釈だと、昔の恋の回想で、レモンは実際目の前にあって切ろうとしている、ですかね……
(藤)なるほど。自分は、現在の恋でレモンを切る前だと思いました。今ふたりを好きだけれども、レモンはうまく(半分に)切れないもので…みたいな
(堤)レモンってうまく切れないんですかね……(レモンを切らないからわからない)私はレモンは切りやすい部類だと思っているので、過去の恋でレモンは進行形で切っているのだと思いました。両片想いだったって知らなければすっぱり忘れられたのに変に知っちゃったからうぐぅ……あの時勇気を出していれば……とか後悔しちゃって、いつもならうまく切れるレモンも今はうまく切れない、みたいな。人間欲深い生き物ですから、一度知ってしまったらどんなに切りたくても切れないもの、沢山ありそうじゃないですか
(藤)深いですね…。……時間も時間だし次の句いきますか…?(ぶった切り)さっきの薄暑光の句で……

(堤)そうですね、じゃあ改めて
逢ふことも過失のひとつ薄暑光 大高翔(『キリトリセン』より)
ど、どちらからいきますか……?

(藤)うーんと、では私から。まず季語の「薄暑」は、初夏の少し暑さを覚えるくらいになった気候、だから「薄暑光」は若葉が青葉に変わるときくらいの木漏れ日の強さくらいの日差しかなあ、と。なんだか希望に満ちてくる。君に逢って恋煩いなんかしてるのもひとつの間違いだったのかもしれないけれども、嫌いじゃないよこの気持ち。みたいな感じですかね…。痛々しいポエムのようになってしまった…
(堤)あっ、明るい感じだ!!! 「薄暑光」、私は「薄暑」からじりじりと確実に焼いてくる感じの日差しかな、と。そこから「浮気かな……」って思いました
(藤)なるほど、生活上過失浮気罪(適当)
(堤)生活上過失浮気罪、ありそう。初夏っていうこれから夏に向かっていくっていう明るさと浮気っていう後ろめたい恋の対比で、隠しきれていると思いたいけれど、心のどこかでもうバレ始めていることに気が付いていて、その上薄暑光がサーチライト的な感じで暴きにかかってくる、みたいな……お天道様はなんでもお見通しなんだよって、怖いですね……
(藤)「逢ふ」は「出逢う」に近い意味でどっちも解釈していますね。それが単なる恋なのか浮気なのか、つまり既に相手がいるかいないかが異なるということで…
(堤)そうですね。「逢ふ」はやはりそのイメージが強いと思います。あと私はこの字だと運命って言葉も後ろにちょこちょこついてくる感じがあります……何故……
(藤)ほんとにそれ。運命感じますよねその字。「出逢ったことも過失のひとつであり運命のひとつなんだ」って感じがしますよね。なぜか「出逢う」ではなく「出逢った」と過去形にしたくなるのもきっと「逢」の漢字の運命感のせい…
(堤)この運命感が上五中七を「逢うことさえも間違っているってわかっているけれど、それでも逢わずにはいられない」というふうに捉えさせるのかなあ……
(藤)何となくだけれども、この句の主人公は逢う相手に一目惚れしてそう。なにかの間違いで出逢ってしまった…みたいな。出逢ってはいけないふたりが出逢ってしまった…って話はよくありますね
(堤)もう少しタイミングが早ければ幸せになれたかもしれなかったふたりだったのに、もう遅い……みたいな。出逢ってはいけなかったのは何故なのか、ってところに想像が膨らみますねっ…!
(藤)前世で心中したからかもしれない。神様か仏様か誰かの「悪戯」なのか「過失」なのかでも異なってきますよね
(堤)前世で心中したんだとしたら「悪戯」かもしれない
(藤)前世で殺しあった相手と兄弟になるとか言うから、前世で心中した相手、特に「来世で一緒になろうね」なんて言っていた相手とは出逢ってはいけなさそう
(堤)でも結局何かの手違いで出逢ってしまってまた同じことを繰り返す、なんていう無限ループの可能性を考えてみる
(藤)無限ループ、大好き。そもそも「過失」をプラスと取るかマイナスと取るかで大分句の雰囲気が変わってきますし
(堤)「来世では一緒になろうね」は呪いっぽいところありません? 私の中での「過失」はプラスマイナスの間を揺れているイメージですね。葛藤、みたいな
(藤)「嬉しい偶然」を嫌味っぽくというか僻んで「過失」なんて言ってしまった、という何となく可愛い人なのかもしれないし
(堤)素直に嬉しいって言えない、ツンデレ……? まさかのwwwww
(藤)うー、収拾つかなくなってきました! そろそろお開きにしましょうか!(ぶった切り)
(堤)そうですね、これ以上やるともっと収拾がつかなくなりそう
(藤)この2句は想像が広がる分、読み手によって景が様々になってくるから…えっと、小説にでもしましょう!
(堤)小説にしてしまう! その発想はなかった!!!!
(藤)それなら思う存分アワーワールズを表現できるのでは!(何となく)
(堤)名案っ…!!!!! どちらの句で書いても普通に一つの作品できますね!(どれだけ書く気)
(藤)……ということで、今日は楽しかったです! ありがとうございました!!(流れを読むのが下手)
(堤)私も楽しかったです!! ありがとうございました!!(流れとか読めない)


以上で終了となります。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。

対談企画、「『海藻標本』『君に目があり見開かれ』(佐藤文香) を読む」です。柳元佑太 (旭川東) × 吉川創揮 (広島) の第二弾!拙い鑑賞ですが、どうぞご高覧ください。


柳) 今回のテーマは『海藻標本』『君に目があり見開かれ』を読むってことで、よしことお話できることをとっても楽しみにしてました。よろしくお願いします。
では早速話していきたいのだけれど、まずは『海藻標本』の句から話していってもよいかな?

○少女みな紺の水着を絞りけり

○スケートの靴熱きまま仕舞はるる

○青に触れ紫に触れ日記買ふ

俺はこのあたりの句がひとつの『海藻標本』らしい句なのかな、と思いました。隙のない、日常のトリビアルなところを新鮮な感覚で捉えている感じで。少女みなは有名な句だけど、やっぱりこれ、すごいよね。入り込む余地が無くて、圧倒されてしまう。日記の句も、日記を手に取るというありふれた動作のはずなのに、それ以上の絵画みたいな美しさがある。
よしこはどんな風に思う?


(吉)こちらこそ、楽しみにしてました!よろしくお願いします。
四つとも好きな句です。
『海藻標本』の一句目を飾る「少女みな」の句はうっとりさせられる句。個人的には、景がすごく
鮮やかでキメ細やかなモノクロで浮かびます。言葉が美しい佇まいで一句に収まっている感じがあるな、と。
「日記買ふ」の句は、色んな日記を手に取ってどれを買おうか迷っている、
これから日記を書く楽しみがある、すごく心も体も動的な風景を、すごく静的に切り取っているのが印象的だな。
感情が少し切り離されたような感じが絵画的な雰囲気を感じさせるのかも。
 『海藻標本』 らしさのひとつとしてトリビアル、と言ってくれたけど、自分はトリビアルという程の細やかさはあまり感じなかったなー。確かに繊細な部分を切り取っているんだけど、なんとなく言葉にゆとり、広がりというか、伸びやかさがあるからなのかも。
「日記買ふ」の句も、〈青に触れ紫に触れ〉が、色で捉えるという大まかな把握だと自分は思うし。
 新鮮な感覚とも言ってくれたけど、それは強く感じたところではあります。


(柳) そうだね、トリビアルは言い過ぎたかもしれない。言ってくれた通り、題材は日常だと思うのだけど、それを文字に起こして「はい、トリビアルな句だよ」で満足してる感じじゃないよね。このあたりとか。

○ガラス器に鬼灯ひとつひとつ哉

○行く春の聞くは醤油のありどころ

それがよしこの言ってくれた言葉のゆとり、広がりや伸びやかさというところなのかも。詩的な広がりがあって、単語がそれ自体の意味として終わっていない感じが、トリビアルと言ったときの違和の正体なのかな?
「日記買ふ」を静的に切り取っているというのはなるほど、と思った。俺はこの句、わくわくじゃなくて、なんか艶かしいくらいな感じがするんだよね。子供じゃなくて、大人の女性が白い手が選んでいる感じがして。それがなんでかわからなかったのだけど、なんとなく腑に落ちた。
それと、「新鮮」は読んでいく上でなんとなくキーワードな感じがする。類想のなさをすごく意識されている感じがするし、そこが次の『君に目があり見開かれ』に出てくる「私」という書き方に繋がるのかな、と思った。客観的な視点で物事を読む上では類想の避け方って、大きく分けて題材の選び方とその書き方の二つだと思うんだ。けど、主観的な書き方をするなら、私を句に落とし込むことで類想を回避できるのかなぁと。


(吉) そう。トリビアルの本意ではないのは承知してるけど、自分はトリビアルと聞くと、物がそのまま物としてあるようなイメージがあるから、ちょっと引っかかったんだと思う。
「日記買ふ」の句、青や紫という色のチョイスからだけじゃなくて、サラッとした詠みぶりが、また大人の女性像をイメージさせるよね。

類想の回避か、なるほど。『海藻標本』において、

〇待たされて美しくなる春の馬

は、題材の選び方によるもの。

〇緋目高の目のひとつある左側

は、書き方による類想の回避となるのかな?
その、類想の回避の方法が変化した結果が『君に目があり見開かれ』っていうの、面白い。確かに「私」は誰とも全く異なる唯一の存在だから、句に「私」を取り入れれば確かに、句は完全に類想を回避できる。オリジナリティを出しやすくなるわけか。
まぁ、佐藤文香さん自身が『君に目があり見開かれ』の後書きで
『ときに、わたしの心までが、わたしから出てきて見えるというのも、ふしぎで、ダサくて、素敵だ。』
って言ってるから、順序的には逆で、句を詠んでいく中で「私」が徐々に表れてきた結果、の類想の回避なのかもしれないけど。
佐藤文香さんは、十七音の中でも独りよがりにならない上手い塩梅で、「私」を句に落とし込んでいるなぁと思います。
世界の外側に傍観者としていた『海藻標本』から、私の外側を見る(または外側を通して私を見る)『君に目があり見開かれ』への変化はおもしろい。
いろいろ、言ったけどやなぎーの、類想の回避という観点から見るのアリだと思う。


(柳) そうだね、順序は確かに逆だ。(笑) 類想の回避を求めた結果ではないだろうし、色々な要素があって『君に目があり見開かれ』的な書き方になり、その結果類想がなくなったって言うのが正しい捉え方だと思う。
海藻標本の

○忘るるにつかふ一日を蔦茂る

なんかはどちらかと言うと『君に目があり見開かれ』っぽい感じだと思うし、端正な「少女みな」のような句とこういう句が並存してるのが面白いよね。色々試してるというか、どうやったら俳句形式を自分が (この世代に生まれた自分が) フルで使えるのかみたいな感じにも見えて。
佐藤文香さんの独りよがりにならないような「私」での読み方の感覚っていうのはすごく不思議なバランスだよね。「私はこうだったの、追体験してー!!!」みたいな感覚はまったくなくて、よむにつれて佐藤文香さんが分かっていくような (作中主体と作者が同一と捉えるとして) 感じがする。
世界の外側に傍観者としていた『海藻標本』から、私の外側を見る(または外側を通して私を見る)ことが『君に目があり見開かれ』への変化である、というのはまさにそう思います。うまく言葉にできないけど、豊かになった感じがする。


(吉) あぁ、その『君に目があり見開かれ』な感じ分かる。がっつり「私」の句だね。
私は

〇人を離れて手花火を闇に消す

なんか「君に目があり見開かれ」な雰囲気を感じる。どことなく寂しそうだし、詠み方自体は端正だけど、「私」と「私の外側」が見える。
『海藻標本』は客観的で低エネルギーな感情が薄い句集と捉えられがち(と勝手に思ってる)だけど、確かに色んなタイプの句が並存してる。

〇海に着くまで西瓜の中の音聴きぬ

〇国破れて三階で見る大花火

一句目の、俳句では歓迎されないであろう「聴く」を使うところとか、二句目の漢詩の「春望」の本歌取りとか、本当にさまざま。意外にチャレンジャブルな句集
だと思う。
佐藤文香さんは、俳句に本当に向き合ってる人だよね。(失礼で個人的な見方だけど)俳句を詠むことで、たましひを削ってそう。
バランス感覚は本当に優れてる。『君に目があり見開かれ』は本当に、一句にとどまらず、句集を通して佐藤文香さんの描く世界全体に没頭しちゃう。
後書きからも、その変化はけっこう表れてて、『海藻標本』の後書きでは、言葉に対する話だったのに対して、『君に目があり見開かれ』では、
自分と、その周りの話になってるんだよね。
『海藻標本』について、他に思ったことあるかな?
今までの話と少しかぶるけど、句集全体を通して、温度がないというか、確かな、手で掴めるようなそういう存在感(景色や人の)があまりないなぁと思いましたね。
感覚的な話だけど、ね。


(柳) あ、俺もその花火の句好き。
なるほど。たしかに変化を読み取れる気がする。「私」の存在の濃さがわかるね。
それと、「句集全体を通して、温度がないというか、確かな、手で掴めるようなそういう存在感(景色や人の)があまりない」ってところは少しだけ肯うことができないというか、少しだけ字足らずな感じがするかも。
むしろ、詠みこまれているものの安定した存在感は海藻標本の方があると俺は感じたんだー。ただし、これはなんていうのかな、向こうの世界というか。綻びがなくて入っていけない、というところがよしこのいう、「温度の無さ」とか「手で掴めなさ」なのかなー、と思ったよ。(あくまで『君に目があり見開かれ』での書き方と比べて、の話だけど)
そして『君に目があり見開かれ』の方が、物が詠まれるときにそれを感じている作者を一枚通すから、それにより逆説的に、もの自体がリアルに、より確かになる…ってことなのかな。僕らが普段ものを感じている深いところの温度と同じ温度で書かれているから。主観を除く写生とは逆の手法ながら、リアルさの追求という点では方向性が同じなのかも、と少し思いました。この方向性も、人が不変と考えれば、普遍性や耐久性もあるんじゃないかとも思えるし。(普段使わない難しい言葉を連発しているので、いま俺はぜーぜー言ってる)

(吉)まぁ、あとがきを根拠に話をするのは句を語る上では良くはないと思うから、あくまでも参考にだけどね。
私がなんとなくで言った事を真剣に考えてくれてありがとう。すまんね。考えて喋る癖をつけねばなぁ……。そして、指摘された通り言葉足らずです。
ただ、上手く言葉を補えないので、一旦、保留。
『海藻標本』の方が『君に目があり見開かれ』より確実に存在感、手ごたえはある、のは分かる。自分があげた「緋目高」の句とかを読めばそれは明らか。それ故に、句の景色が完成されているが故に、「手で掴めなさ」を感じると、やなぎーは解釈したのか。それは一理あるかも。句に対して、読者の私が入り込む余地がないから、温度も手ごたえも感じれずに、ただ見てるだけなのかも。(この話は引き続き、私の中の問題として考えときます。解釈ありがとう)
『君に目があり見開かれ』へのやなぎーの意見はめちゃくちゃおもしろい。句に人間の心が通っているから、読み手の人間と共鳴しやすい、ってことか。
こう見ると、『海藻標本』も『君に目があり見開かれ』もリアリティーある作品だなぁ。やなぎーが言ってることで十分なので、コメントすることない(笑)
無理させてごめんよ!!


(柳) いやいや、俺もあんまり句に基づいて話せていなくて、机上の印象論ぽくなってしまって、申し訳ないー。『海藻標本』には完成した感じの句以外にも、読む余地のある楽しい句もあるから一概には言えないと思うのだけれど。
それに、どちらの作り方もそれぞれの良さ、楽しさがあると思うし、佐藤文香さんの場合はさ、あんなに端正な瑞々しい句を作れるのに、私を主体とした句になっていくのが、俺には本当に興味深いし、本当に尊敬しちゃうよね。

ここからは『君に目があり見開かれ』の話になってしまうと思うけれど、この、「なにが書かれているかわからないけれど、でもなんだか好き」の豊かさみたいなのがあると思うなー。
『君に目があり見開かれ』の

○これもあげるわしやぼん玉吹く道具

○星がある 見てきた景色とは別に

このあたりはさ、一見何の意図で書いていて、何が書かれているか取りづらいじゃない。考えてみるとおぼろげながら分かった気になるけど、手応えはなくて。でも確実に面白いなぁ、って分かる。(分かるというか、思う)
よしこは『君に目があり見開かれ』のどんな句が気になった?

(吉)毎回、話のフリがなくて申し訳ない。
『海藻標本』も一言でくくれるような単純な句集じゃないものね。全体を通して、論を語れないのはしかたないことだと思う。

〇祭まで駆けて祭を駆けぬけて

なんて元気の塊みたいな句も紛れてる。
佐藤文香さん、まず第一句集に俳句甲子園最優秀賞の句を載せないっていうのが凄いし、そこから『海藻標本』の完成度から離れて、角川俳句賞とかでも勝負してるのが本当にかっこいい。
そう、分からないって魅力の要素だよね(笑)俳句はそこがおもしろい。『君に目があり見開かれ』はそんな魅力にあふれてる。(勿論、これも一概には言えなくて意味が分かる故におもしろい句もあるけど)
この二句、好きだな。特に「これもあげるわ」の句、好き。ただ、しゃぼん玉を吹く道具をあげてるだけ、で余白の広がりがいい。あげる物が特別なにか利益が生まれる物じゃないのが意味深で、深読みするけど、結局その意味がはっきりしなくても好き、だと思えてくる。咀嚼しようとしてもできないのに、どんどん好きになる句が『君に目があり見開かれ』には多い気がする。
全然、句の意図が見えない句の中で好きなのは、
 
〇土手のぼくらの背景にある煙
〇雲流す仕掛に蝶が来てゐるよ


意味が分からないながらに、寂しくなる。なんとなく寂しげな気配を全体的に感じるのも、自分には魅力的。どうだろうか??

(柳) ○夕立の一粒源氏物語 (俳句甲子園最優秀句)
これを捨てたのはすごいよな。今ちょうど古典が源氏物語なんだけど、学べば学ぶほどこの二物衝撃が響き合う感じがして興奮してる。(笑) 祭りの句も、めっちゃ良いよな。音のリズムや母音、句またがりなどもあってどんどん加速してくもの。
そしてね、あーーーーめっちゃ分かるよ、すごく共感できる、わからないの魅力。しゃぼん玉吹く道具の句はさ、それ以前に同様に何かが受け渡されていたことがわかるけど、じゃあそれは何なのだろうと気になっちゃってさ。考えた結果、俺は「名前のないもの」を受け渡しているんじゃないかなぁって思った。(笑) 「しゃぼん玉吹く道具」ってさ、それ自体に価値があるわけじゃなくて、「しゃぼん玉」に価値があるから価値がでてくるものでさ、「しゃぼん玉」があるから「しゃぼん玉吹く道具」って呼ぶことができるわけで。こういうものを集めてるのかなぁ、「私」、なんて思ってさ。白くて、さみしい感じがする。
俺は、

○星がある 見てきた景色とは別に

も好きだな。海藻標本に、

○春日傘閉ぢてはじめの空あかるし

という句があるけど、佐藤文香さんはこういう見方ができるんだなぁってすごく感動しちゃう。ずっとあるものに順番をつけたり、別々にしたり。
うんうん、その二句は完全に意味を離れちゃってるような感じがする。

○土手のぼくらの背景にある煙

普通さ、助詞の「の」ってこんな風に使わないよね。大きい名詞からそれに所属してる小さい名詞に繋ぐときに「の」を使うと分かりがよいと思うのだけど、「土手」の「ぼくら」の「背景」って言われると (おそらく「土手」の「ぼくらの背景」だと思われるが) どこがどこにかかっているのかわからなくて、単純にそのフレーズの持つイメージをぐるぐるさせた感じのまま、煙に収束しちゃう。するとなんだか不思議な理解があるんだよな。(笑)
意味が分かりづらい句の系統の他にも、いろんな句があるよね。たとえばこの『君に目があり見開かれ』、恋愛句集と銘打たれているけれど、そのあたりはどうかな?


(吉)なんか、突然テンション上がってない?(笑)私も、今回堅苦しくしすぎたから、少し力を抜こう。
「名前のない物」を渡してる、か。なるほど。しゃぼん玉を吹く道具は、シャボン玉っていうすぐ壊れてしまう、「無」を生む道具で普通、子供にしか価値がないものな気がする。
だから、大人になりかけの私が近所の子供に渡して、去っていく……。みたいな、自身の子供時代との別れみたいなものも感じたのね。
だから、他にはビー玉とかあげてる気がする。やっぱり、しゃぼん玉とかビー玉とか綺麗だから純粋だった頃を思わせるというか……。
言葉足らずなんだけど、これ以上上手く言えない。
と、ここまで書いて、こんな解釈するのは心がボロボロでカピカピの雑巾の私だけだな、と思った(苦笑)
白くて、さみしい感じがするってのは分かる。物を渡したこの人はこの白さの中に溶け込んでいくんだろうな、とも思う。
「土手のぼくらの」の句、といい、かかっていく先が分からなくなっていく句は、確かにある。
この句の魅力、すごく柔らかい言葉で写生してることだと、思うけど。
レンアイ句集、と銘打たれてるのはすごく興味深いポイントだよね。
私の中ではレンアイ句集がただの恋愛だけを指すものではないと思うけど、それはさておき、とりあえず恋愛句っぽいものを
あげると……

〇また嘘を君が笑って蛾が痛む
〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよ

とか、どちらかというと恋を詠んだ句は、満たされていない、完全に幸せではない句が多い気がする。ただ単純に、俳句という枠で、甘い、幸せな恋を
詠むのが難しいだけかもしれないけど。
一句目は、下五でかなり飛躍して蛾にいくことで、複雑な感情を表現できてるし、二句目はもう、一句が一つのすごく切実なフレーズになってる。
あえてカタカナのレンアイなのは、恋とか好きだとか、そう一言でくくれない、切実な感情を句に詠んだからなのかな、と思ったりするけど
上手く言えないし、漠然とした感想であって根拠は上手く言えないや。
恋愛句ではないけれど、

〇風はもう冷たくない乾いてもいない
〇ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふ

なんかは、人相手の時とはまた違った切実な感情を感じる。
これは人相手ではなく、自分の外側に対するレンアイなのかな?と
これまた漠然と思ったりする。
(本日二回目の、ぼんやり発言ごめん)
まぁ、後は、「私」と「私の周り」を詠んだ句集だから、『海藻標本』の時、一歩離れて傍観していた時とは違って
「私」と「私の周り」の感情のやりとりがあるので、そのことをレンアイと呼んだのかな?
まぁ、一度も恋を経験したことがない(片想いすらない)私にはレンアイを語るのは少し酷です(言い訳)
私、よりもレンアイ経験が豊富であろう、やなぎーどうでしょう??


(柳) いや俺レンアイ経験豊富じゃないからー! やめてくれー(笑) テンションは上がってるけど。
うんうん、レンアイについて、外に対する興味のようなものも含まれるというのは、俺もそう思うな。俺はこの句集、それぞれの句の幸せに関する距離や捉え方みたいなものが、書いているその時々の書き手のテンションがそのまま出てるというか感じられる気がするなー。その浮き沈みの感じが、俺はすごく恋愛だな、と思って納得できたよ。主体がいる以上、当然といっちゃ当然なのだけれども。

○花に夕焼スパゲティを巻いてなほ
○雨の日の水澄むことのほんたうに
○歩く鳥世界には喜びがある

この辺りは、世界は幸せなんだって疑いもないような、そんなピュアな感じがする。「花に夕焼」の句は、すごく満ち足りている感じがする。
それに対して、

○焼林檎ゆつくりと落ち込んでゆく
○やはやはの毛布を干せばかなしみの
○Tシャツをまた着て幸せな一日

この辺りはすごく辛そうな、悲しい感じがする。でもなんていうのかな、幸せが存在するからこその不安だったり、悲しみであることをわかっている雰囲気がある。いつかくる幸せのことをわかっているというか。

○冬木立しんじれば日のやはらかさ
○干草や笑つておけば愉快な日

この二つの「ば」は、自分が頑張れ「ば」だよね。この辺りが幸せな感じの句と辛い感じの句の中間の気がする。作者のモットーというか、作者はこうやって生きてきたのかな、なんて思うと、他の句の読みも自ずと変わってくる。

○セーターをたたんで頬をさはられて

○さしあたりぬくし押し倒されやすし

○Tシャツをまた着て幸せな一日

この辺りも興味深い。すごく際どいラインを詠んでる。受け身な、弱さや脆さみたいなものを感じる。三句目は読みに自信がないからここに入れてよいのかわからないけど、一日に何度も、好きな人と行為をしている日曜日みたいな感じがするし。そう読むと「幸せな一日」のフレーズが、自分に言い聞かせるような感じにもとれる。

○月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふ

これも恋だろうなぁ。どの句も、読めば読むほど、困惑してしまうほど恋愛な感じがしてくるのだけれど、これは俺だけなのかもしれないな。(笑)


(吉)それは失礼いたしました(笑)
自分が、満たされていない云々言ったけれど、勿論、感情には波があって、幸せな時も落ち込んでる時もいろいろありますね。
ただ、今、もう一度読み返しても、全編を通して満ち足りていない感覚は感じるのね。それは句の意味が要因ではなくて、
形式にとどまらない不安定で壊れそうな句の形と文体によるものだと思うけれど。
「歩く鳥」の句なんか、しあわせがある。とまで言い切ってるしね。確かに、幸せの只中の句。この句は本当に好きな句です。
「花に夕焼」の句は一句の中に「私」と「世界」がはっきりと並列に存在にしてるところからも満ち足りてる感じしますね。
ここらへんの句は「私」が「世界」に対する違和感を持ってなくて、素直に受容してる印象を受けます。
ただ自分は

〇雨の日の水澄むことのほんたうに

は幸せではないと感じてしまう。ピュアというか、真直ぐに世界を見つめる視線は感じるけどね。最後に「ほんたうに」と言ってしまうあたりから、触れると切れそうな痛々しさのようなものを感じる。なんとなく「ほんたうに」が怖いんだよね、自分。
まぁ、これは私の感覚の問題だ。
逆に悲しい句として挙げられた句を、やなぎーは幸せと隣り合わせの悲しみと捉えた、と。同意。
また、文体の話するけど、『君に目があり見開かれ』の文体の不安定さは、切実さも、説得力の低さもどちらもある生むと思うんだよね。
やなぎーが例にあげた

〇やはやはの毛布を干せばかなしみの

「ば」の接続の流れを無視したように出てくる下五の「かなしみの」の唐突さ、最後に持ってくることによって生まれる言葉の重みが、なにか言いたくて伝えたくてしかたがない、そんな衝動、切実さを生んでる、と思う。
と、同時にその唐突さ、文体の不安定さで読者の中で完全に意味が通らないことによって、「かなしみの」がズバッと心に切り込んできても、一句全体は心の中で完全に着地できない。
だから、読者の感覚に句は響くんだけど、説得はできないから、悲しみのどん底にいるような、もう絶望しかないようなそんな深刻さを読者は印象として持たないのかな。
思考じゃなく、感覚が句にと共鳴するというか。
まぁ、後季語が「毛布」だったり、「焼林檎」だったり、日常の幸せの中にあってもおかしくない季語が取り合わされてるからっていうのもあるかな。
これは全編通して思うことでもあって、「私」は日常の中の悲しみも幸せも、全部自分で消化しきれてないうちに、言葉にしてるような印象を受ける。だから生の感情の強さと、意味が頭で結ばない傾向があるのだろう。
文体の不安定さ、壊れやすさから、思うことね。(ただ、これは佐藤文香さんの計算の中なんだろう)

○冬木立しんじれば日のやはらかさ

○干草や笑つておけば愉快な日

この二句はかなり好きな句なんだけど、自分が頑張れ「ば」、っていう共通点があったのか。なるほど。
ありのままの自分では、幸せを手に入れられないっていうのが、本当に切ない。
この二句は、「私」と「世界」のズレ、違和感を確かに感じているんだね。
世界との「ズレ」は

〇風はもう冷たくない乾いてもいない

〇ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふ

からも感じること。自分が立ち止まっていると、「冬」も、「千鳥」も過ぎ去ってしまう。
この二句はやなぎーが挙げた句ほど、感情があらわになってはいないけど、切ない。
(この一言でくくるのはよくないけど)

たしかにここらはきわどい句群。弱さ、脆さは確かに感じる。すごく受け身だね。
「歩く鳥」のような幸せを受容してる時とはまた違う受け身の姿勢。
ただ、自分はTシャツの句は、そういう風に解釈しなかったかな。平凡な日常の連続を詠んでるのだと思った。
ここらは人とのレンアイだし、男女の関係なのだろうけど、恋愛とは書き表したくない
独特の雰囲気を感じるな。恋愛と書けるほど、俗ではないカンジ……?いや、安っぽくないカンジ……?

〇月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふ

もまた、好きな句。これもまた、俗じゃない感じがする切実な感情が見える。
むしろ、読者の私が触れるのはいけない気もする、二人だけの世界を感じる。

たしかに、レンアイ句集と言われると、なんでもレンアイの句に見えてしまうよね(笑)
『海藻標本』と違って、『君に目があり見開かれ』は句集を通して一つの作品っていう意識が高い気がする。
その演出のひとつとして、レンアイ句集と銘打ったのかな、と思うけど、
まさにその術中にはまってますな、自分もやなぎーも。
今日、読み直して最後の白紙のページ数枚をぼーっと見て、ここまで独特な空気感を持った句集はないなぁと思った。
メランコリックというか、なんというか。


(柳) うむ、「やはやはの毛布」などの句のよしこの読みに感心してしまった。(笑)
文体の不安定さっていうのは、俳句形式と馴染みにくいように思われる「口語」と「意味が一般的な感覚では機能しにくい言葉の順序、組み合わせ」、「句またがり、破調」ってところだろうか。
「生の感情」「全部自分で消化しきれてないうちに、言葉にしてるような印象を受ける」ってところ、すごく共感できる。おそらく、佐藤文香さんのいうところの「超口語」っていうのは、〈口に出して使う言葉〉を〈もっともっとプリミティブな言葉〉(つまり、言葉として口に出てくるか出てこないかのギリギリの部分の、言葉をなす前の感情の固まりみたいなもの) に近いのかもしれない、と言ったら言い過ぎな気がしたけれど。
おそらくそれが、意味を為しているように思いにくい、説得力はあまり思えないが深く何かを感じるところの正体であるのかも。
作風の変化があったということは、少なくともこのような超口語を意図して使って、句集としてまとめているのだろうけれど、このような句はどうすれば作れるのかすごく不思議。作る道筋が見えないというか。(見えたらそれは超口語ではないのだから当たり前だけど)
よしこの言うとおり、『君に目があり見開かれ』は全体に統一性があるよね。そこによしこはメランコリックさを感じとったのか。なるほどなぁ。
俺はもちろん、その側面もすごく感じるのだけど、句集としてはやっぱり幸せさを感じるんだよなぁ。悲しみや哀しみ、切なさのなかの幸せというか。まあこれは、感覚の問題だね、好きなように読めばよいよね。
他に『君に目があり見開かれ』で感じたところはあるかな?

(吉)うん、自分の思う文体の不安定さは、そういったものかな。定義づけありがとう。
佐藤文香さん、「超口語」なんて話をしてたの??勉強不足です。知らないなぁ。自分は(つまり、言葉として口に出てくるか出てこないかのギリギリの部分の、
言葉をなす前の感情の固まりみたいなもの) っていうのは
言い過ぎとまでは思わないよ。部員と『君に目があり見開かれ』の句を部員と話した時、辞書に載ってる言葉では表現できない句が多いね、
って話した事あるし。すごく納得がいく。俳句で感情を表現するのは難しいってよく言われるのは、事実だけど、感情は言葉にすればするほど本質、
「生の感情」から離れていくから、十七音という短さで余白に任せる俳句だからこそ、表現できる感情もあるのだなぁ、とも思った。
いや、この句集、本当にすごいよね。本当にどういう思考回路にすればこんな句が、言葉が出てくるのかまるで分からない。
更にすごいのがその難しさのようなものを、読者に感じさせないことだよね。口語だからってのもあるだろうけど、本当にスルリと簡単に
言葉になったような印象を受けてしまう。
メランコリックって言ったのは忘れて(笑)意味もあんまり知らないくせに使っちゃった。「憂鬱」とかが意味なのね。そういう意図ではなくて
もっとパステルカラーで、夢を見てるような感覚っていうのを言いたかったの。ちょうど、『君に目があり見開かれ』の紙の薄いピンク色を
思う。見る角度、見る人の気分によっては喜びにも幸せにも切なくも悲しくも映る、そんなパステルピンク。
あと、読者の日常の地続きにあるような句集だと思う。
他に気になったところを挙げると、やっぱり、目についたのは無季句。

〇ひかりからくさりかいしてぼくのきず
〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよ

のように、感情が無季句では更に強く押し出されてる印象がありました。
あと、有季の句でもどこか無季っぽさがあるな、という印象も

〇やはやはの毛布を干せばかなしみの
○歩く鳥世界には喜びがある
○Tシャツをまた着て幸せな一日

こういった句から受けました。ただ単に、季語が年中生活になじんでいて季感が薄い季語を取り合わせているから
といった理由だけでは、この無季感はなんとなく片付けられない気がする。
やなぎーはこの無季句、無季っぽい句、どう思います??


(柳) そうだね、句の色がパステルカラーっていうのはとてもわかるぞ。黄色、ピンク、オレンジ、そのあたりだよね。「見る角度、見る人の気分によっては喜びにも幸せにも切なくも悲しくも映る」っていうのにも共感。ゆるく書かれていてぼくらに読みが制限されない分、すとんと落ちてくるのかも。
無季の句、実をいうと俺は一回通して読んだときに無季であることに気づかなかったんだよね。(笑) それは有季の句の季節感が薄く感じられて、だから無季の句でもその中に紛れ込めたからなのかな、と思った。
まず、季感の薄い有季の句で言えるのは、季語の持つ情緒とか、そういうものを感じさせないように書いているからかな、と思う。(やはやはの毛布、Tシャツ、とか) 季語をただ単に物として、そこにあるものとして書いているからかな、と。
もちろんそうでない、季語を季節感を感じさせる語として使っている句もたくさんあるけれどね。季語も、季語じゃない言葉も、同じように物として読む。だから無季も生まれるんじゃないかな。それに、季語を入れるよりも優先すべき書くことがあるんだろうし、季語が無い句の特徴として感情が更に強く押し出されているといってくれたけど、それはある種当然の結果なのかもしれないね。
この方向性をより強く進めた句 (感情だとか、自分を強く読むとき) には、季語が必要ないのかも。かえって邪魔というか。

(吉)あぁ、分かるかも。自分もあんまり季節を感じながら読まなかったし、無季句が多いな、って思ったのも読後だし。
感情を俳句っていう器で表現するっていうことをしたいから、季語を入れるっていう枠にはとらわれていないんだろうな。
さっきあげた無季句の中で一番好きなのは

〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよ

かな。一度、気持ちが落ち着いたかと思ったら、また何故か泣きだしてしまう、っていうその心情、シチュエーションはすごく
分かるし、この人は独りぼっちで泣いてるんじゃなくて、傍に頼りたい、寄り添ってほしい人がいるっていうのが素敵だなと。
そして、もっと素敵だと思うのが、この人が自分の弱くて、醜くて仕方がない泣いている姿を他人に見せれる人だ、って事。
自分とは正反対なその姿がいいな、って思った。(すごく個人的な事情だけどね)

そして、無季っぽい句も好きだけど、有季感ある句もすごい好きなんだよね。
ただ、同じ有季でも『海藻標本』とは異なる雰囲気をまとった句が多い。
『君に目があり見開かれ』が、ただ感情や、「私」を押し出しただけではなく、世界を見つめるまなざしのもある句集だと
いうのが、ここらへんの句群から分かる気がする。
そして、『君に目があり見開かれ』がただポエティックな俳句ではなくて、ちゃんと俳句だな、と自分が思えるのも
ここらへんの句群がさりげなく入ってるからだろうな。

〇春深しみどりの池に木は倒れ
〇木ずらつとそこが朧で夜を呼べる

目についたのをザッと挙げてみたけど、意外と雰囲気が違う句が並んだなぁ。
一句目には、永遠のような時間の流れを、二句目には、主観の鋭さ、
それぞれ『海藻標本』にはない感覚を感じた。
やなぎーはどうだろうか??
やなぎーの好きな有季の句は他にある?


(柳) うんうん好きな句、あるある。海藻標本からみても、本当にバリエーション豊かな書き方のできる人だなぁって思う。あっちからみたりこっちからみたり、主体を変えてみたり、幼く書いてみたり。
無季の句ではないけれど、

○吸入器君が寝言に我が名あれ

これめっちゃめっちゃ良い。『君に目があり見開かれ』のなかでもとっても推したい、お気に入りの句。喘息持ちなんだろうな、私が。夜中にぴゅーぴゅー呼吸が苦しくなったりしてさ。そんなときにさえも、君には私のことを思っていてほしいっていうすごく人間的な欲求というか。純粋で、きゅんとしてしまった。いやー、これはほんとに良い。

○春深しみどりの池に木は倒れ

俺もこれ好きだなー! 全ての言葉が少しずつ意味の重なり合う繋がり方をしていて、メルヘンチックなしりとりをしている感覚になる。

○冬の日や浅瀬の鳩のうむ水輪

○谷に日のあたる時間や春の鳥

ここらも、平明な、なんてことの無い句だけれど、安心する句だよね。二句目なんて、こんなに「時間」を堂々と置けるものだよなぁ。その緩い感じに「春の鳥」を付けると、もっと緩くなりそうな感じがするけれど、ああ、確かだなぁって感じる。

○夏蜜柑のぼりきれば坂せんぶ見える

最高に爽やか。夏蜜柑の季語がすごく効いているよね。
俺もこんな風にいくつかあげてみたけど、どの句ものびのびとしていて、開放感があるよね。鬱屈なことを書いている句もすごく素直に、開けっぴろげに書いているし、幼く書いている感じがする。『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』の違いは、すごく感覚的に言うとさ、海藻標本はボールペンなどの鋭利な筆記用具で、精密に細部まで書き込まれているけれど、『君に目があり見開かれ』はクレヨンとか、水彩画で太く、大きく大胆に書かれている感じ。そう考えるとさ、『君に目があり見開かれ』は、もちろん良い意味で子供が書いた絵みたいな側面もあるのかもしれない。(こんなことをいったら怒られるてしまうだろうけれど)


(吉)いや、ほんとに何がすごいって、『海藻標本』のような句が詠めなくなったわけではなくて、詠まないってことだよね。俳句の色んな
可能性にチャレンジしてて、かっこいいい。

○吸入器君が寝言に我が名あれ

は私も好きな句。ただ、最近まで「吸入器」が季語ってことを知らなくて、無季の句だと思ってたけど(笑)
人間らしい、句だよね。自分の事を思っていて欲しいと願う、その気持ちは素敵。だけど、その願いは自分からの一方的な思いで、
愛の重さの天秤が完全に「私」に傾いているように思えて、切ない。
こういう時に穿った見方をしてしまう、自分があまり好きではないけれど、一応寝ているから状態は落ち着いているんだろうけど、
さっきまで苦しんでいた「君」に思う事が、私の名前を呼んでほしいっていう願いなのは、醜さといったら言い過ぎだけど人間の弱さ
も表れてるとも思っちゃう。全部含めて、胸は確かにきゅんとした。
こういう場面、漫画とかでもありそうな雰囲気だけど、そういうフィクションさがなくて、切実な感情が伝わってくるのが好き。

○冬の日や浅瀬の鳩のうむ水輪

なんかは『海藻標本』に入っていてもおかしくない、と思ったりもしたけど、でも『海藻標本』に入るなら季語は「冬の日」では
ないだろうな、と思ったり。悶々としております。

○谷に日のあたる時間や春の鳥

そう、「時間」ね。自分も感心しながら読んだ。「時間」と「春の鳥」の持つ広がりが、「谷」っていう閉塞感のある場所の空気を明るく
のびのびと広げてて気持ち良い。

○夏蜜柑のぼりきれば坂せんぶ見える

なんかは、季語の上手さも相まって、広島県民としては瀬戸内海だと思ってしまう。見下ろせば、坂の道が一筋、瀬戸内海に向かってるなんて
本当に気持ち良い。

 確かにのびのびとしてるなぁ。鬱屈とした句も。言葉の一つ一つが確かにこちらに向かってきてる感覚は『君に目があり見開かれ』にある。
『海藻標本』は言葉がそれぞれにつながって一つのパズルの絵をなしている感じだろうか。
 その絵の例え、分からんでもない、というか感覚的にしっくりくる。怒られるっていうか、佐藤文香さん困っちゃう気がするけど。
でも、今の私達に子供の頃のような絵って絶対書けないじゃない。あんな風に気が向くままに、自分の思いをしっかりと乗せて描くこともできないし、
何より、一見見苦しいから、描こうと思わない。家庭科で習ったあの「頭足人」とか(笑)
だから、きっちりとした絵が描けるようになった上で、子供のような絵を描けるってのはすっごい事だと思うよ。あの子供の絵独特の大胆な構図とか色使いとかやろうと思って、できるもんじゃないからね。
あと、周りからの理解が得られにくくなる方向にチャレンジするところもすごい。

と、より佐藤文香さんに失礼な方向に話を持っていってしまった。


(柳)そうか、吸入器の句は、「わたし」が使っていたと思ったのだけど、よしこは「君」が使っていたと思ったのか。うーん、そっちの読みの方が自然で良いなぁ、俺もその読みに宗旨替えしちゃおう。

夏蜜柑の句が瀬戸内海ってのは俺も思ったよ。瀬戸内海見たことがないけれど。(と書いて、松山に行ったときに飛行機から少し見たことを思い出す) 気持ち良いよねぇ。登りきれば海全部見える、じゃなくて自分が歩いてきた坂が全部見える、というところなのもめっちゃ良いよねぇ。

絵の話、フォローしてくれてありがとう。(笑) そうなのさ、大人になってしまうと、戻れないんだよね。成長するにつれて周りとの差異を埋めるように平均的、常識的な絵になると思うのだけれど、子供が描く絵は、純粋に自分の世界を投影していて、すごく大雑把に捉えているけれど、ものごとの根底をなす部分はちゃんと掬えていると思うんだよね。頭足人も然りで。
さとあやさんはそれと似たようなことを意識的にやってるのかな、と思った (ほんとにどんどん失礼な方にいってしまう)

さて、15000字ほどになったことをよしこが先ほど教えてくれたので、そろそろお開きにしましょうか。 あまり新しい観点からの話は出来なかったかもしれないけど、たくさん好きかって話せて楽しかったー!
またよろしくお願いします!

(吉)いやいや、私の穿った見方はしないでね(笑)
そっか旭川東は遠すぎるから、もう飛行機でくるのね。私達、船だから、瀬戸内海をちょうど渡ったよ。
勿論、坂なのがいいんだよね。自分が歩いてきた道のりが全部視界におさまる、気持ちよさ。

絵の話は、もはやフォローしてないというか、乗っかってしまった(笑)申し訳ない。
佐藤文香さんには、更に申し訳ない。でも、おもしろい例えだと思う。こんな事を
『君に目があり見開かれ』を読んで思ったのは、やなぎーしかいないでしょ。多分。

自分も楽しかったー!!この企画は、私が、ちょっとハードル高すぎないか?っとビビってた企画なんですけど、やってよかった。
当たって砕けた感はすごいあるけど(笑)実際に言葉に出してみたり、やなぎーと話を交わしたりすることで、自分の至らなさに改めて気づけるから、勉強になりました。
ただ、佐藤文香論を語ることは、一人でもできるけど、こうやって二人で話すからこその発見も私にとってはあったし。
ありがとうございました!!

そして、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
もし、その中で『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』を読んだことがない方がいれば、
是非、お買い上げいただければと思います。(旭川東のHPでこんなことやっていいのかな笑)
私の拙い鑑賞なんてすっぱり忘れて、是非お読みください。どちらも、言葉では表現しきれない程、良い句集ですので。

最後に、『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』から一句ずつ、一番好きな句(気分によって変わるけど)を紹介して
終わりにしてもよいかな?

〇待たされて美しくなる春の馬  『海藻標本』

〇風はもう冷たくない乾いてもいない  『君に目があり見開かれ』


(柳) そうだね (笑) なかなかハードル高そうだったし高かったけど、同じ年代の人とこうやって句について話せるのは本当に楽しいし貴重だし、嬉しかったー! これからもよろしくお願いします。
そう、そう、どちらも本当に素敵な句集なのでぜひぜひ皆さん、お買い求めください。旭川東のホームページはこういうことして良い場だと思う、大丈夫。
僕の好きな句は

○ヨットより出でゆく水を夜といふ 『海藻標本』

○吸入器君が寝言に我が名あれ
『君に目があり見開かれ』

かなぁ。気分により変わるというのはすごく同意できるな。



これにて対談は終了となります。ここまで読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございました!

部内対談企画です。今回は一年生の萩原海と二年生の柳元佑太です。これから少しずつこのような企画をブログに載せていきたいと思いますので、お時間があれば是非のぞいてみてください。


(柳) 天文部も兼部している萩原との対談ということで、天体というテーマで鑑賞会をしたいと思います。はぎー、まずは好きな句を教えてください!


(萩) 新月や昨日インコの死んだこと (第18回俳句甲子園公式作品集より)
今年の俳句甲子園で済美平成が敗者復活で出した句です。


(柳) うんうん、これは作者の実感がすごく溢れた句だね。このことを詠むのはすごく大変というか、一種の昇華みたいな感じで。はぎーの考えるこの句の魅力ってどんなものかな?


(萩) そうですね。作者のインコへの愛がしみじみと伝わってきます。でも、あまり感情が文面に出過ぎていないところ、新月が代わりに作者の思いを代弁しているところがこの句の魅力だと思います。


(柳) うん、「ーなこと」みたいな風に突き放して詠んでるから、余計に痛々しいというか。作者が感傷的にならないように句にしようとしているのが伝わって、さらに句に悲しさが滲んでいる感じがあるよね。心象的な季語の使い方をしている感じだ。俺もこの月の使い方は面白い (といったら不謹慎だね) なと思ったよ。この季語のこの句における効果をもう少し教えてほしいな。


(萩) そうですね。新月という神秘的な響きのする季語が「死」という一種の生命の神秘というところに共鳴しているところや、これは実際に済美平成さんが敗者復活で言っていたことなんですが、新月はまた再び満月に向かって満ちていきますが、死んだインコはもう戻らないという再生するものと再生しないものの対比も生み出しているのではないかと思います


(柳) うんうん、そうだね。新月ってさ、なにも見えない闇に「月」を見たもので、終わりでもあるけど、始まりでもあるんだよね。満ちていき、また欠けていく。生命の循環の象徴みたいで。済美平成さんが言った通り、そういう対比もあるかもしれないね。
ちょっとこの季語って付きすぎじゃなぁい? って思ったけれど、平明な言葉の中七下五の冷静さでバランスが取れてるのかもしれないね。意味だけじゃなくて、詠み方を気にしたのが成功の要因かもね。


(萩) 柳本先輩はどんな句を選んだんですか?

(柳) 部長の名前間違ったから減点な。(笑) まったくもうー!! 俺はとっても悲しいぞう。ということで、象の句です。

月光の象番にならぬかといふ 飯島晴子(『春の蔵 』より)

この句を鑑賞したいなぁ。はぎー、さきに鑑賞してくれるかな?


(萩)漢字間違ってました...。すみません柳元先輩...。
サーカスの句でしょうか?月光に照らされながら象が出番を待っているという句だと僕は思いました。象の大きな背中が月光に照らされている様子がはっきりと浮かんできます。


(柳) 大丈夫だよー。
なるほど、月光の象/番にならぬかといふ と読んだのか。それは面白いな。ピエロも一輪車乗りも出番を待っているなかで象も出番を待っているって、童話の世界みたいだね。それでもうすぐ象の出番になるんだろうね、象がちらちらステージを見ていたりしてさー。なるほどなぁ。
俺はね、句切れなしだと読んだんだ。景を簡単にいうと、飼育員の人から「今日の夜の象番、任せてもよいかな?」みたいに言われてるんだと取ったの。そこで、象の檻には月光が射し込んでいる様子を作者が思い浮かべたんじゃないかなぁと。虚構の句だと思うけれどね。


(萩)象の夜番ですか!確かにそうですね!
月光の冷たい感じと檻の冷たい感じがよくマッチしていると思います。象の番を任された(頼まれた?)飼育員の感情なども見えてきそうですね。


(柳) 要素としては、月の光と象しかなくてさ、でもなんだか時間の流れがそこだけ他と違うような空間じゃない? 檻のなかで生きて、檻の中で象は死ぬ。つまりそこは、象の過ごす一生の場所であり、時間なんだろうね。そこに月の光が射し込むのは一種の労りみたいな優しさがあってさ。
飼育員の感情ってさ、具体的にはどんな感じかな?


(萩)「うわー面倒くさい」とか、そういう感情ではなくて、うまく言えないですけど、その象のお父さんになったような気持ちで、お世話をしたり見守っていたりしているという飼育員の心情が見えてくると思います。確かに優しいですね。


(柳) はぎーなら「うわーめんどくさい」って言いそうだけどな。(笑) お父さんか、なるほどねぇ。俺は自然の神秘とか、永遠とか、そういう類のものに触れる畏敬の念と、抑えきれない好奇心みたいなものを感じだな。
これさ、象番になるとは言ってないよね。まだ打診されただけでさ。それに、これは想像だけど実際には象番にならなかっただろうね。それだけに作者の心に結んだこの景における月光って、作者の象に向ける眼差しなのかも。


(萩)畏敬と好奇心ですか...。確かに月光という神秘的な季語が感情を浮かび上がらせていますね。なんでしょう。好奇心はあるけどやっぱり触れられなかった、ということでしょうか。


(柳) いや、触れたいけど触れられないっていうもどかしいのニュアンスじゃなくて。なんていうのかなー。
例えば、動物園に遊びに行ったとして、そこで象の飼育員さんと仲良くなったとする。日も暮れてきて、暗くなり帰ろうとしたら、飼育員さんが「このまま今日の夜の象番やってみないかい?」って冗談でいうわけ。もちろん、そんなわけにはいかないから、「あははご冗談をー」みたいな。そしてふと、越えちゃいけないラインみたいのが見える。こんなニュアンス。伝わるかなーー。(笑)


(萩)ああ!そういうことですか!


(柳) うん、まあ俺の鑑賞だから、どれが正しいってこともないけどね。
ところで、さっきのインコの句も象番の句も、取り合わせの句だよね。天文季語ってさ、季語自体にポエジーがあるからさ、使うだけで俳句がそれっぽく見えちゃうと思わない? 困ったら月冴ゆるとか、星流るとかさ。そう考えると、天文季語ってどうやって使うべきかな?


(萩)難しいですね。確かに全部それっぽくなってしまうのは否めないですね。僕は天文季語は、季語で、その景を包みたいときに使うべきなのかな、と思います。
例えば

雑居ビル長方形に星月夜

これは僕の句です。あまりいい例とは言えませんが、何か表したいものがあって、それを壮大に何かが包んでいる。そういう自分には到底創造できない大きなものが周囲を優しく包んでくれていると同時に広がっている。そういう物を表す力が天文の季語にはあると思います。なので、割と壮大な景、もしくは逆にその壮大なものを自分の空間に切り取る。閉じ込める。といった使い方が好ましいのでは?と思います。


(柳) なるほど。じゃあ「星月夜」を「取り合わせ」で使うことに限定して話をしてみよっか。
はぎーが言う内容は「星月夜が表す状況」と取り合わせる内容が合致するなら、容認されるってことかな。つまり、満点の星空を提示する必要があるときに使われるべきじゃないかなってことだよねー。
それなら、「星月夜」と「天の川」ってどうやって使い分ける?


(萩)鬼畜な質問ですねー(笑)。
星月夜は星空全体というイメージがあるので漠然と広がっている感じです。天の川は、広いんですけどどちらかというと地平線、地形に消えていくところに目線がいくイメージですね。星月夜は「全体」で天の川は「全体の中で一筋に目線を置く」という感じでしょうか。答えになっているかわかりませんが...。


(柳) うんうん、そうだね。季語が表す景での区別はそうなると思うな。答えになってるよ。大丈夫。
俺は、季語にはそれが表す状況以外にも含んでいるものがあると思うんだ。例えば古い時代から、天の川って織姫と彦星の逸話があるから「恋愛」の象徴みたいに使われてきたと思う。だからきっと、星月夜よりも天の川のほうが、人間の本質的な営みに関わるようなものには合うと思うんだよね。

よわいものばかり生まれて天の川 (岸野桃子) 『星果てる光Ⅱ』より

この句は星月夜じゃだめだよね。だから季語の表す状況だけを考えて書くことは、雰囲気俳句になっちゃう一つの要因になるんだと思うな。
ただ、天の川を恋に絡ませて詠むのは手垢がついているから、よほどうまく詠まないと難しいよね。季語から、歴史や和歌で読み込まれてきた情緒を取り除いて、ひとつの物として詠む、というのがひとつのスタイルだし最近のスタンダートだと思う。芭蕉の

荒海や佐渡に横たふ天の川

なんていうのもそんな部類だよね。でも、季語がどう詠まれてきて、どう詠むべきかっていうのは考えるに越したことはない……んじゃないかな、と思います。


(萩) 勉強になります。そうですね。季語の表す状況だけではなく、そこから滲み出る感情や感覚も大事にしないとダメですね。僕は今まで状況を大事にして俳句を作ってきた傾向があるので、後の句会などで季語や表現の効果などに気づかされることが多いです。これからは感覚的な面にも意識を傾けて作句していきたいと思います。


(柳) お、そんなことを言ってくれるなんて。嬉しいなぁ。(笑)
きっと、俺らの俳句デビューは俳句甲子園だったことが影響しているんじゃないかなぁと思ってるんだ。俳句甲子園はまず景の説明や解釈をするじゃない。だからきっと俳句における意味を偏重するくせみたいなものがついたのかな、なんて俺も最近気づいてさ。
俳句は意味だけじゃなくて、文体やリズム、口承性とか、色んな側面があることに気づけたらもっと面白くなるかもね。


(萩) 僕もそう思います。自分は特に俳句のレベルを喋りで補っていかないといけないので(大会の話)、さらに多角的に俳句を鑑賞出来るようになれたらいいなと思っています。日常の中の句会などで作者のちょっとした遊び心や、作者も気付かなかったような句の魅力などを引き出していけるようになりたいです。


(柳) そんなことないよ、はぎー句作うまくなってきてるから。俳句甲子園はディベート大会じゃなくて、俳句+「質疑応答」だからね。話せることに越したことはないけれど。
きっと、鑑賞や作句能力、話す力、どれもがそれぞれ独立したものじゃなくて、全部おんなじところから派生していくものだと思うんだよね。だから一つを伸ばすとか思う必要はなくて、どの分野であれ積極的俳句に関われば関わるほど、全体として底上げされるんじゃないかな。
ということで、毎週の句会がんばろうね。


(萩) ハイ、クカイガンバラセテイタダキマス...。


(柳) じゃあ今度からは句会五分前に作句する姿を見なくなるわけだな……! 期待してる。ということでだいぶ話したので、この辺りで終わりましょう。今日はありがとうー!


(萩)善処します...。すごくためになりました!ありがとうございました!

その数日後に行われた句会では萩原はしっかりと事前投句しました。成長ですね。