新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます!
「どこ中出身なの?」
「え?」
「自己紹介、二、三時間目に終わっちゃったんだよね」
正面の子の唐突な質問に、私に隣の席を勧めてくれた子が、教えてくれた。
「えっと、中川中出身の、朝霧和弦です。平和の和に、下弦の月の弦って書いて、チヅルです」
「へぇ、和って書いてチって読むんだ」
正面の横の子が、日の丸弁当をつつきながら言った。
私のクラスになった一年六組は、来年の受験で定員が減る関係で、今年で最後のクラスになる。
そんな六組の中に私は、恐る恐る足を踏み入れた。
けれど、幼馴染が全くいない高校は、思ってたほど怖くなかった。
ただの言い訳になるかもしれないが、昨夜緊張のあまり寝られず、やっと眠りに落ちたと思ったら既に電車は駅を出ていた。少ない本数の電車に飛び乗ってみて、、自分の不運さを嘆いた。
ただでさえ二時間近く汽車に揺られる通学時間なのに、今日に限って鹿が……鹿が飛び出してきた。
アナウンスによると、鹿は驚きのあまり立ち尽くしていたようだ。あまりにも人間目線な解釈に見えるけど。
おそらく、自分がまあまあな速度で走る金属の塊にぶつかったことを認識出来ず、ただ脇腹が痛いなぁぐらいに思っていたのだろう。
そして、金属音がした方を警戒してみると、塊から飛び出た人間の顔が何十個も……そこでようやく、自分は人工物に衝突したと分かった。なんてところだろうか。鹿目線だと。
鹿のお陰で電車は遅延し、私が校門を越えたのは、昼休み。ようやく登校した私を、クラスの人たちは温かく迎えてくれた。
入試の日に通った駅から学校までの道のりを、間違えないように走っていたときは、クラスからハブられるかも、とか、クラスの人たちは皆冷たい顔するかも、とか、不安で胸がざわめいていたけど。
「ん、そういえば、朝霧さんが来たら職員室来てって、先生言ってたよ」
隣に座る子が、卵焼きを箸で小さくしながら言った。
「えっ、ありがとう、ございます」
私はリュックを椅子に乗せて、数回お辞儀をした。隣の子は、いいよいいよ、とひらひらと手を振った。念の為筆記用具を持って、教室を出ようとする。
「あっ、職員室ってどこか分かりますか?」
右手でドアを押さえたまま、のけ反るように教室を見たら、女子中心に爆笑された。
私は職員室の前で絶望していた。
中学校のとき、職員室へ入るにはまずノックを三回して、静か扉を開けて、職員室の手前で学年組出席番号名前を言い、「〇〇先生いらっしゃいますか」と尋ねた。
全校生徒数が少ない出身中では、日直の回るスピードが速かったから、なおさら身に染みた習慣になっている。
ただ、それが高校でも通用するのかは、中学校で一回も習わなかった。
職員室前でそわそわと手汗を握っていると、横を生徒が通った。靴の色は青。一年生ではない。
多分先輩のその人は、ノックを三回して、職員室の中へ入って行った。
個人情報を職員室前で提示しなくていいの?と疑心暗鬼になりながら、キョロキョロと周囲を見る。
「朝霧」
突然、背後から声を掛けられ、飛び上がるほど驚く。手汗がさらに手のひらを濡らす。
「はっ、おはっ、こんにちはっ」
おはようございますと言いかけ、自分の登校時間を思い出した。
「よく来れたな。中川町からだっけ?」
「そ、そうです。遅刻してすみませんっ」
「JRの遅延は遅刻扱いにならないから。安心して」
一番気になっていたことが担任の口からすぐさま出てきて、心底ほっとする。それにしても、担任はもう私の顔を覚えてたの?
「あの、職員室来てって言われたんですけど……」
「ああ、それね、職員室入ってそこの遅刻カード書いて俺に頂戴。それと、諸々のプリント回収は……帰りのショートで良いから」
「分かりました」
担任の後ろについて、職員室に入ると同時に、さっきの生徒が退室した。
私はペンケースを置き、震える手で名前を書いた。
「あ、おかえりぃ」
ウルフカットの子が、私のリュックの横の席で箸を掲げる。席と言っても六個くらいがくっつけられていて、その周辺に椅子が人数分だけ敷き詰められている状態だが。
「あの……昼休みって、いつまでですか?」
自分は一応自己紹介をしたが、他の人からの自己紹介は全く聞いていないので、なんとなく敬語を使ってしまう。
「えーっと、一時十分!」
素早く生徒手帳を取り出した眼鏡の子が言った。弁当を食べている人数が減っている。
「私、西コムギ。中央中」
「よろしくお願いします」
弁当の風呂敷を解体しながら、隣の席の子の名前と中学校を聞く。どんな漢字を書くんだろう。
「珊瑚の瑚に、普通の麦書いて、コムギ。結構ゴムギって言われるのはもう聞き飽きてるから」
周りで小さな笑いが起きる。
「分かる。私もよく、ワヅルとか、ワゲンとか言われる」
弁当の蓋を開けながら勢いで言って、止まる。
「あー、全然敬語使わなくていいから。これから同じクラスだよ?」
冷や汗がいつの間にか止まっていた。
高校は案外怖くない。
私は安心してミニトマトを頬張った。
「部活何見に行く?」
瑚麦が弁当を食べる手を止めて、私と芦澤光璃に尋ねた。
「えっ? 部活体験あるの?」
「担任が朝ショートで言ってたよ。来週一週間は体験入部ある、って」
丁寧に焼かれたタコさんウインナーをつまんだ光璃が教えてくれる。
へぇ、とブロッコリーを口に入れながら相槌を打ち、二人の会話を聞く。
「私は天文部辺りかなぁ。偏見だけど、ゆるそう」
瑚麦が窓の方を見ながら言った。
「瑚麦、天文部かぁ。テニスとか似合うと思うんだけどなぁ」
「そう?」
「絶対テニス似合うって。中学の時絶対運動部でしょ」
「え、正解。陸上かじってた。光璃は?」
光璃はまだ口をもぐもぐさせながら、うーん、と手を顎に当てる。
「入学式の校歌聞いて、音楽部格好良いーって思ったけど、ヒカリ音痴だからなぁ」
「光璃ちゃん、大丈夫だよ! 音楽は初心者大歓迎!」
隣のグループから、光璃の悩みに応えた声が飛んでくる。
「涼音ちゃん、もう音楽部入ったの?」
「姉ちゃんに音楽部宣伝して来いって言われたの」
私の後ろの席の雨宮涼音は、チラシ片手に近づいてきた。
「これ、新歓コンサート。良ければ来てって」
私達三人に手渡したチラシには、桜と小鳥の手描きイラストが散りばめられている。
「ウグイス可愛い!」
涼音の持つチラシの束を覗き込んだ渡邉美紗妃が指さした。
「姉ちゃんの友達が描いたの! 確か美術部か、漫研部」
「この学校、漫研部もあるの?」
ウグイスを満面の笑みで眺めていた美紗妃が驚き、冷凍グラタンを落としそうになる。
「あるよあるよ。あと、クイズ研究同好会とか、軽音同好会とか、囲碁・将棋部とかあるって!」
涼音が高めの声で、情報源が姉の知識をペラペラと喋る。
「チラシありがと!」
美紗妃と喋り始めた涼音に、瑚麦が一言礼を言った。涼音もそれに気付き、近距離からピースサインを送ってくる。
「中学の時、そんな部活無かったよね。高校って凄い」
音楽部に心が傾きつつある光璃が、涼音の話の感想をこぼす。
「それな。中学校なんて文化部、吹奏楽と美術部しか無かった気がする」
「私のとこ、文化部は吹部しか無かったよ?」
瑚麦の言葉に反応して、つい田舎話を披露してしまう。しまった。田舎臭い私は、出会ったばかりのクラスから簡単に浮くことが出来る。
「えっ? 中川過疎ってるねぇ。和弦は吹奏楽だったの?」
大きな目を丸くした光璃が、ついに私にも尋ねてしまった。私は大きめの一口を急いで詰め、よく咀嚼する。
「和弦は意外と運動部だったりして」
スマホを片手に持った瑚麦が、ちらっとこちらを見た。まるで、そう言った場合の私の反応を慎重に窺うかのように。
重くなったわかめご飯をどうにか飲み込み、箸をケースに一度しまう。
「私、何も入ってなかった。これといった趣味は無くて、運動も出来ない。なんとなく小説書いてたけど、コンクールとかには一切応募してないし」
光璃は私の発言を聞いて、静かになった。やっぱり、放課後に小説を書くっていうのは……変、だよね。瑚麦も何も言わないし。
「凄! 小説書けるの凄いよ! だからいっつも本読んでるんだ!」
瑚麦は水筒から口を離すと、言った。私の趣味に呆れ、沈黙に耐えられず水を飲んだのかと思った。
「てか、なんで本好きなの知ってるの? 私、自己紹介出来てないよね、ほら……」
「ん? 朝ショートの前いっつも読んでるじゃん。単行本って言うの? ハードカバーの本をさ、寝てる?! ってくらい顔近づけて読んでるじゃん」
瑚麦に後から読書姿を見られていたことに、耳の先まで赤くなる。そんなに頭を落としてるなんて、自覚してなかった。
「それなら文芸部だね。木の城前にポスター貼ってあったよね」
美紗妃との話が一段落ついたのか、涼音が再び部活について教えてくれる。
「あー確かに、和弦は文芸部だわー」
瑚麦が鮭をつまみながら、ウルフカットの髪の毛をさっと払った。
「まあとにかく来週体験行ってみたら?」
文芸部はよく知らないし、と言って、涼音はチラシの束と共に席へ戻った。
「とりあえず、来週なってから決めようかな」
文芸部、という響きにそそられながら、私は弁当を片付け始めた。
中学の頃から変わらないチャイムが、呑気に響いた。
「想像以上だわ」
教室の後ろのドアの方で、「野球部マネージャー募集してます!」ととりわけ大きな声が聞こえてくる。振り返ってみると、クラスでも特に美人の女子が、声を掛けられ狼狽えていた。
「ほんとそれ。てか、全校人数からして規模が違う」
中央中出身の瑚麦でさえそう言う。十五年間中川育ちの私からしたら、休日の名寄のイオンモールよりも人口密度が多くて、目眩がしそう。
廊下は新入生を一人でも多く獲得しようとする二、三年生でごった返していて、昼休み中にトイレに行くことは、多分不可能だ。
ジャンパー掛けの上の窓から、段ボール製の看板や、バスケ部の男子の顔や、生徒会特製タオルが見える。
「これじゃあ逆に、どの部活が何喋ってるかも分からなくない?」
光璃が梅干しを口に放り込んで言った。すぐに瑚麦が同意を示す。
「私は、やっぱり陸上入ろうかな。受験期間走れてなかったから、久しぶりに走りたい」
瑚麦は教卓で部活動紹介をする男バレの人達をちらっと見た。何分後にそこに陸上部の人達が何を持って立つのだろうか。
「そうだ、涼音からもらったチラシのコンサート行くんだけど、二人とも行く? 今日なんだよね」
ぜひおいで〜、と教室の真ん中付近から澄んだ声が聞こえてくる。
「こんな風に勧誘されてるし」
弁当の中で暴れていたミニトマトを、口の外で破裂させそうになり、焦った。
「和弦はやっぱり文芸部行くの?」
「文芸部って部活動紹介で、何やってたっけ?」
光璃は、文芸部が部活動オリエンテーションで何をしたか、どうしても思い出せないようだ。整った眉がしっかりと下がっている。
「小説のPR動画作ってた。廊下のポスターからも読めるはず」
「ふーん」
文芸部に入る、と決めた訳じゃないけど、あからさまに興味無いと反応されると、自分事のように悲しくなる。
「あのアニメーション凄かったよね。てか文芸部普通に絵うますぎ」
「漫研も美術部もうまいけどね」
私は漫研の廊下のポスターや、美術部の廊下の作品を思い出す。けれど、絵を描いている二つは文芸部に比べると、私の心にぴったりとははまらない。
「てかさ、今日の物理やばくなかった?」
「ヤバかったヤバかった。最初の授業あれは無理。オリエンテーションとかかと思ったら普通にプリント配りだすんだもん」
瑚麦と光璃は、廊下のざわざわが聞こえないかのように新たな話題で喋りだす。私はそれに、笑ったり、相槌を打ったりして、この二人に置いていかれないようにしながら弁当を食べる。
軽いリュックを背負いながら階段を降りて、ジャンパーを教室に忘れたことに気付く。
「文芸部どうですか」
階段の踊り場で、青のラインの靴を履いた人が、木製の看板を持って立っていた。その声は、昼休みの廊下の運動部に比べたら何倍も小さかった。
「あっあの、後で」
咄嗟に上手く応えられず、支えながら言ってしまった。文芸部の人は、その言葉が「行けたら行く」だと捉えたのか、肩を下げて階段を降りて行った。向かう先に部室があるのだろう。
申し訳なさで胸が一杯になったのと、一年生も廊下を動くせいで、昼休みより動きづらくなった三階の廊下に戻るのが億劫になったのもあり、私はその人の背中を追った。
「あのっ」
木の看板を下げた人は、廊下のざわめきから取り残された人のように、悲しげに顔を上げた。
「文芸部気になってるんです。あの、小説読むのと書くのが好きなんです……こんな私でも入っていいですか?」
文芸部の人は、誰も来ないと思っていたのか、少しの間何も言わなかった。
「もちろん。入部拒否する部活なんて無いよ」
私の方を向きながら、先輩は廊下の角へ向かって歩く。先輩の持つ看板は上高くに掲げられている。
自分を受け入れてくれないかも、と登校中や昼休み、放課後に悩む必要は全く無かった。
部活動オリエンテーションでは「部員それぞれ自由にやってます」とちゃんと言っていたし、もう、部室から明るい笑い声が漏れている。
「さあ、あなたの経験や感性を、自由に書こう!」
先輩はそう言って、右側のドアを軽やかに開けた。
「文芸部へ、ようこそ!」