1. HOME >
  2. 作品・ブログ >
  3. 柳元 × 萩原 (天文季語)

作品・ブログ

柳元 × 萩原 (天文季語)

部内対談企画です。今回は一年生の萩原海と二年生の柳元佑太です。これから少しずつこのような企画をブログに載せていきたいと思いますので、お時間があれば是非のぞいてみてください。


(柳) 天文部も兼部している萩原との対談ということで、天体というテーマで鑑賞会をしたいと思います。はぎー、まずは好きな句を教えてください!


(萩) 新月や昨日インコの死んだこと (第18回俳句甲子園公式作品集より)
今年の俳句甲子園で済美平成が敗者復活で出した句です。


(柳) うんうん、これは作者の実感がすごく溢れた句だね。このことを詠むのはすごく大変というか、一種の昇華みたいな感じで。はぎーの考えるこの句の魅力ってどんなものかな?


(萩) そうですね。作者のインコへの愛がしみじみと伝わってきます。でも、あまり感情が文面に出過ぎていないところ、新月が代わりに作者の思いを代弁しているところがこの句の魅力だと思います。


(柳) うん、「ーなこと」みたいな風に突き放して詠んでるから、余計に痛々しいというか。作者が感傷的にならないように句にしようとしているのが伝わって、さらに句に悲しさが滲んでいる感じがあるよね。心象的な季語の使い方をしている感じだ。俺もこの月の使い方は面白い (といったら不謹慎だね) なと思ったよ。この季語のこの句における効果をもう少し教えてほしいな。


(萩) そうですね。新月という神秘的な響きのする季語が「死」という一種の生命の神秘というところに共鳴しているところや、これは実際に済美平成さんが敗者復活で言っていたことなんですが、新月はまた再び満月に向かって満ちていきますが、死んだインコはもう戻らないという再生するものと再生しないものの対比も生み出しているのではないかと思います


(柳) うんうん、そうだね。新月ってさ、なにも見えない闇に「月」を見たもので、終わりでもあるけど、始まりでもあるんだよね。満ちていき、また欠けていく。生命の循環の象徴みたいで。済美平成さんが言った通り、そういう対比もあるかもしれないね。
ちょっとこの季語って付きすぎじゃなぁい? って思ったけれど、平明な言葉の中七下五の冷静さでバランスが取れてるのかもしれないね。意味だけじゃなくて、詠み方を気にしたのが成功の要因かもね。


(萩) 柳本先輩はどんな句を選んだんですか?

(柳) 部長の名前間違ったから減点な。(笑) まったくもうー!! 俺はとっても悲しいぞう。ということで、象の句です。

月光の象番にならぬかといふ 飯島晴子(『春の蔵 』より)

この句を鑑賞したいなぁ。はぎー、さきに鑑賞してくれるかな?


(萩)漢字間違ってました...。すみません柳元先輩...。
サーカスの句でしょうか?月光に照らされながら象が出番を待っているという句だと僕は思いました。象の大きな背中が月光に照らされている様子がはっきりと浮かんできます。


(柳) 大丈夫だよー。
なるほど、月光の象/番にならぬかといふ と読んだのか。それは面白いな。ピエロも一輪車乗りも出番を待っているなかで象も出番を待っているって、童話の世界みたいだね。それでもうすぐ象の出番になるんだろうね、象がちらちらステージを見ていたりしてさー。なるほどなぁ。
俺はね、句切れなしだと読んだんだ。景を簡単にいうと、飼育員の人から「今日の夜の象番、任せてもよいかな?」みたいに言われてるんだと取ったの。そこで、象の檻には月光が射し込んでいる様子を作者が思い浮かべたんじゃないかなぁと。虚構の句だと思うけれどね。


(萩)象の夜番ですか!確かにそうですね!
月光の冷たい感じと檻の冷たい感じがよくマッチしていると思います。象の番を任された(頼まれた?)飼育員の感情なども見えてきそうですね。


(柳) 要素としては、月の光と象しかなくてさ、でもなんだか時間の流れがそこだけ他と違うような空間じゃない? 檻のなかで生きて、檻の中で象は死ぬ。つまりそこは、象の過ごす一生の場所であり、時間なんだろうね。そこに月の光が射し込むのは一種の労りみたいな優しさがあってさ。
飼育員の感情ってさ、具体的にはどんな感じかな?


(萩)「うわー面倒くさい」とか、そういう感情ではなくて、うまく言えないですけど、その象のお父さんになったような気持ちで、お世話をしたり見守っていたりしているという飼育員の心情が見えてくると思います。確かに優しいですね。


(柳) はぎーなら「うわーめんどくさい」って言いそうだけどな。(笑) お父さんか、なるほどねぇ。俺は自然の神秘とか、永遠とか、そういう類のものに触れる畏敬の念と、抑えきれない好奇心みたいなものを感じだな。
これさ、象番になるとは言ってないよね。まだ打診されただけでさ。それに、これは想像だけど実際には象番にならなかっただろうね。それだけに作者の心に結んだこの景における月光って、作者の象に向ける眼差しなのかも。


(萩)畏敬と好奇心ですか...。確かに月光という神秘的な季語が感情を浮かび上がらせていますね。なんでしょう。好奇心はあるけどやっぱり触れられなかった、ということでしょうか。


(柳) いや、触れたいけど触れられないっていうもどかしいのニュアンスじゃなくて。なんていうのかなー。
例えば、動物園に遊びに行ったとして、そこで象の飼育員さんと仲良くなったとする。日も暮れてきて、暗くなり帰ろうとしたら、飼育員さんが「このまま今日の夜の象番やってみないかい?」って冗談でいうわけ。もちろん、そんなわけにはいかないから、「あははご冗談をー」みたいな。そしてふと、越えちゃいけないラインみたいのが見える。こんなニュアンス。伝わるかなーー。(笑)


(萩)ああ!そういうことですか!


(柳) うん、まあ俺の鑑賞だから、どれが正しいってこともないけどね。
ところで、さっきのインコの句も象番の句も、取り合わせの句だよね。天文季語ってさ、季語自体にポエジーがあるからさ、使うだけで俳句がそれっぽく見えちゃうと思わない? 困ったら月冴ゆるとか、星流るとかさ。そう考えると、天文季語ってどうやって使うべきかな?


(萩)難しいですね。確かに全部それっぽくなってしまうのは否めないですね。僕は天文季語は、季語で、その景を包みたいときに使うべきなのかな、と思います。
例えば

雑居ビル長方形に星月夜

これは僕の句です。あまりいい例とは言えませんが、何か表したいものがあって、それを壮大に何かが包んでいる。そういう自分には到底創造できない大きなものが周囲を優しく包んでくれていると同時に広がっている。そういう物を表す力が天文の季語にはあると思います。なので、割と壮大な景、もしくは逆にその壮大なものを自分の空間に切り取る。閉じ込める。といった使い方が好ましいのでは?と思います。


(柳) なるほど。じゃあ「星月夜」を「取り合わせ」で使うことに限定して話をしてみよっか。
はぎーが言う内容は「星月夜が表す状況」と取り合わせる内容が合致するなら、容認されるってことかな。つまり、満点の星空を提示する必要があるときに使われるべきじゃないかなってことだよねー。
それなら、「星月夜」と「天の川」ってどうやって使い分ける?


(萩)鬼畜な質問ですねー(笑)。
星月夜は星空全体というイメージがあるので漠然と広がっている感じです。天の川は、広いんですけどどちらかというと地平線、地形に消えていくところに目線がいくイメージですね。星月夜は「全体」で天の川は「全体の中で一筋に目線を置く」という感じでしょうか。答えになっているかわかりませんが...。


(柳) うんうん、そうだね。季語が表す景での区別はそうなると思うな。答えになってるよ。大丈夫。
俺は、季語にはそれが表す状況以外にも含んでいるものがあると思うんだ。例えば古い時代から、天の川って織姫と彦星の逸話があるから「恋愛」の象徴みたいに使われてきたと思う。だからきっと、星月夜よりも天の川のほうが、人間の本質的な営みに関わるようなものには合うと思うんだよね。

よわいものばかり生まれて天の川 (岸野桃子) 『星果てる光Ⅱ』より

この句は星月夜じゃだめだよね。だから季語の表す状況だけを考えて書くことは、雰囲気俳句になっちゃう一つの要因になるんだと思うな。
ただ、天の川を恋に絡ませて詠むのは手垢がついているから、よほどうまく詠まないと難しいよね。季語から、歴史や和歌で読み込まれてきた情緒を取り除いて、ひとつの物として詠む、というのがひとつのスタイルだし最近のスタンダートだと思う。芭蕉の

荒海や佐渡に横たふ天の川

なんていうのもそんな部類だよね。でも、季語がどう詠まれてきて、どう詠むべきかっていうのは考えるに越したことはない……んじゃないかな、と思います。


(萩) 勉強になります。そうですね。季語の表す状況だけではなく、そこから滲み出る感情や感覚も大事にしないとダメですね。僕は今まで状況を大事にして俳句を作ってきた傾向があるので、後の句会などで季語や表現の効果などに気づかされることが多いです。これからは感覚的な面にも意識を傾けて作句していきたいと思います。


(柳) お、そんなことを言ってくれるなんて。嬉しいなぁ。(笑)
きっと、俺らの俳句デビューは俳句甲子園だったことが影響しているんじゃないかなぁと思ってるんだ。俳句甲子園はまず景の説明や解釈をするじゃない。だからきっと俳句における意味を偏重するくせみたいなものがついたのかな、なんて俺も最近気づいてさ。
俳句は意味だけじゃなくて、文体やリズム、口承性とか、色んな側面があることに気づけたらもっと面白くなるかもね。


(萩) 僕もそう思います。自分は特に俳句のレベルを喋りで補っていかないといけないので(大会の話)、さらに多角的に俳句を鑑賞出来るようになれたらいいなと思っています。日常の中の句会などで作者のちょっとした遊び心や、作者も気付かなかったような句の魅力などを引き出していけるようになりたいです。


(柳) そんなことないよ、はぎー句作うまくなってきてるから。俳句甲子園はディベート大会じゃなくて、俳句+「質疑応答」だからね。話せることに越したことはないけれど。
きっと、鑑賞や作句能力、話す力、どれもがそれぞれ独立したものじゃなくて、全部おんなじところから派生していくものだと思うんだよね。だから一つを伸ばすとか思う必要はなくて、どの分野であれ積極的俳句に関われば関わるほど、全体として底上げされるんじゃないかな。
ということで、毎週の句会がんばろうね。


(萩) ハイ、クカイガンバラセテイタダキマス...。


(柳) じゃあ今度からは句会五分前に作句する姿を見なくなるわけだな……! 期待してる。ということでだいぶ話したので、この辺りで終わりましょう。今日はありがとうー!


(萩)善処します...。すごくためになりました!ありがとうございました!

その数日後に行われた句会では萩原はしっかりと事前投句しました。成長ですね。



前の記事
2015年11月11日
コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):