この小説は「ハレワタレ」の第二章となります。第一章「ハレワタルマエ」は同ページにて公開しております。
向きたい方向
私は時々思うことがある。
探偵小説家というものには二種類あって、一つの方は犯罪者型とでも云うか、犯罪ばかりに興味を持ち、たとえ推理的な探偵小説を書くにしても、犯人の残虐な心理を思うさま描かないでは満足しないような作家であるし、もう一つの方は探偵型とでも云うか、ごく健全で、理智的な探偵の経路にのみ興味を持ち、犯罪者の心理などには一向に頓着しない。
そして、私がこれから書こうとする探偵作家大江春泥は前者に属し、私自身はおそらく後者に属するのだ。
江戸川乱歩 陰獣より
先輩方が新しい戦隊ものの話で盛り上がっている横で、一人の新入部員が、背筋をピンとさせて、緊張した面持ちで佇んでいる。その彼女の目の前にいる男子生徒は、足を組みながら、スマホの画面を下にスライドさせていく。
五月も半ば、廿楽美久はここ一二週間程度のうちに書き上げた、千文字もいかない小説……と言っていいのかも分からない代物を、部活の先輩で、廿楽を文芸部へと誘った本人である、酒々井斗和に読んでもらっていた。文芸部に正式に入ることになって少しして。酒々井に試しに小説を書いてみてはどうかと、ほぼ強制的に、ゴールデンウィーク中の宿題として出され、苦悩しながら書いた記念すべき処女作である。そもそも物語を考えることからして初めてで、何を書けばいいか分からず、殆ど台詞だけの、小説というより台本のような代物になってしまったのだが、廿楽の感覚では、初めてにしてはよく書けたのではないかと思っている。もしかしたら褒められるのでは? と思ったのも束の間、酒々井は廿楽の一週間分の努力を僅か二分で読み終わると、ただ一言。
「うん、下手だね」
と言った。
「そ、そんなにはっきり言わなくても……」
「下手なものは下手だよ。まず情景描写が少なすぎる。行動がプログラム的。セリフごとに誰が言ったのか説明がうざい。そもそもセリフの繋がりがおかしい。さっきまで喧嘩してたのにこの流れて好きだって言われても、流石に分からない」
「で、でもよくドラマとかにあるじゃないですか。こういう、感じの」
「それはドラマは映像があるから。小説は文字だけだから、これだけじゃ何も分からない。というか、いきなり好きって言われて、動揺せずに私も好きは絶対ない。常識的にあり得ない」
「うぐっ」
廿楽は分かりやすく呻き声を上げる。それだけ酒々井の言葉の矢はとてつもない命中率だった。確かに、こうやって読み返してみると、違和感ばかり目立って内容が入ってこない。完成した直後は達成感もあり、すごい傑作ができたと思っていたが、それは恥ずかしい程に大きな間違いだった。
「酒々井、厳しすぎるよ。私は初めてにしてはよく出来てると思うよ」
いつの間にか横から覗き見していた二年の桜森は、しゅんとなっている廿楽に向かって微笑みかける。
「桜森先輩!」
「小説なんてそんな直ぐにかけるようになるもんじゃないからね。どうやって小説を書いてるかなんて、意識しないと分からんし、まずは千文字書けたことを誇るべきだよ。私なんて、書こうとしても書けないから」
「でも桜森さんは随筆書けるじゃん」
「大したことないよ、小説なんかより」
どこか自傷的に語る桜森は、そのまま誤魔化すようにトイレにでも行くつもりなのだろうか、部室を後にした。
「何か、あったんですか?」
「さあ?」
酒々井は興味なさそうに答えた。
「それはそれとして、どうしてシャボン玉の世界を書かなかったの? 君、その為に文芸部に入ったんじゃないの?」
「それは、そうなんですけど、いざ書こうとすると、何処をどう書けばいいか……」
「ああ、そういうこと」
酒々井は独り言のように呟きその後黙り込む。暫くして文芸部の隅に取り付けられている棚の方へと歩いていく。その棚というのは、初代から今までの約六十年分の部誌や、文豪の作品集、その他先輩方が置いて行った本が並んでいる、木製の古臭い棚だった。酒々井はその中から、一冊の分厚い本を取り出し、廿楽の前に置いた。埃の被ったその本には、「江戸川乱歩集」と書かれていた。
「文豪の本は結構参考になる事が多いから、まずは江戸川乱歩の作品を読むといいよ。読みやすいし」
「え、これ全部、ですか?」
「……じゃあ、これとこれ」
酒々井は顔を顰めた後、数ある作品の中から、二つに指を差す。一つは「地獄の道化師」という、何処かで聞き覚えのあるものだった。そしてもう一つは
「……陰獣?」
「うん、こっちは僕あまり好きじゃないんだけど、読み比べたら面白いと思うから」
廿楽はまた陰獣の文字に目を向ける。黒インクの隙間から、獣の牙がチラリと垣間見えるようで、少し恐怖した。
「短編だから直ぐ読み終わるよ」
酒々井はそう言い残して席に戻り、シャーペンを持って小説の続きを書き始めた。
「D坂もおすすめですよ」
隣からいきなり声をかけられて、廿楽は肩をビクッとさせる。廿楽に話しかけたのは、廿楽と同じ一年生の、明空由衣子だった。後ろで長い髪を綺麗に結い、その上にまるでシルクのような白いリボンがそっと置かれている。彼女もどうやら小説を書くらしく、タブレットでずっとカチカチ打ち込んでいたのだが、態々その手を止めて、廿楽に紹介してくれたらしい。
「あ、うん。ありがとう。読んでみる」
廿楽は片言に答える。明空はニコッと微笑みかけると、またデジタル画面に向き直った。廿楽もう一度、その分厚い本と向き合う。正直読む気になれなかったが、これを読むかどうかでこれからの人間関係が決まるかもしれないと思うと、急にありがたいものに見えてきた。廿楽は意を決して、まずは「陰獣」から読み始めていくことにした。
次の日、授業が終わって部室のドアを開けると、そこにはまだ桜森以外の部員はいなかった。
「こんにちは」
やっと噛まずに言えるようになってきた挨拶を交わし、隅にリュックサックを置いて、椅子に座る。有名書店のブックカバーで覆われた本を読んでいた桜森は、廿楽が座ったのを確認してから、パタンと本を閉じた。
「美久ちゃんも大変だね。あの小説バカに振り回されて。これ、アイツに読めって言われたの?」
「え?」
廿楽はびっくりして、目をぱちくりさせる。確か酒々井にこの小説を押し付けられたとき、桜森は部室にいなくて、帰ってきた時には既にその話は終わっていたはずだ。なのに何故あたかもその場にいたかのような発言ができるのだろう。まさか、これが女の勘というやつなのだろうか。
「あれ、違った?」
「い、いえ。おっしゃる通りです」
廿楽の歯切れの悪さを不審に思う桜森だったが、気にせず次に進める。
「江戸川乱歩の作品だと、印象残ってるのは……やっぱり陰獣かな」
「あ、それ、ちょうど読みました」
「ガチ? さすが酒々井! やっぱ最初のあれは刺さるよね」
「最初、ですか?」
最初の文の印象が薄かった廿楽は、改めてそのページを開いてみた。「私は時々思う事がある」から始まる文は、本文とは全く関係のない、ただの筆者の自論が述べられていた。
「あ、そうそう。探偵小説は二つに分類できるってやつ。私、これだけ妙に印象に残ってんだよね」
「どうしてですか?」
話したそうにしていたので、廿楽は少し気になるという事もあり、尋ねてみる。桜森はいざ話すとなると気恥ずかしい所があるようで、体をもじもじさせてから、ついに意を決して話し出した。
「実は私ね、最初は小説志望だったんよ。小説書くのってなんかカッコいいし、元々そういうの想像するの好きだったからね。でも同じ学年に酒々井なんていう化け物がいたからさ、酒々井の小説と比べてああ私向いてないのかなって思い始めて、まあ、随筆の方はその頃から結構上手くいってたんだけど、やっぱり私は小説を書きたかったんだ。
でさ、何でそんな話になったか忘れたけど、酒々井にそんな感じの事を言ったわけね。そしたらさ、これ渡されて、「陰獣でも読んどけ」って言われてさ。なんかよく分からないまま読んだとき、この言葉を見たってわけよ。
正直さ、ぐさってきたよね。だって江戸川乱歩って意外と前者のような小説結構作ってて、そこそこ人気があるけど、それを否定してるわけだから。というより、自分は後者側だって分かった上で、前者の作品を書いてるように感じた。江戸川乱歩の作品を色々見てたってのもあると思うけど、少なくとも私はそう感じて、酒々井もそう感じたから私に勧めてくれたんだと思う。
探偵小説ってさ、私の勝手な感想だけど、前者みたいなのって何というか、自身持てそうだよね。自分はこんな事も考えられるイカれたやつだ! みたいにさ。逆に王道っていうか、後者みたいなやつはさ、ありきたりっていうか、なんか凡人みたいな感じで、虚しくなったりするんだよ。だから前者みたいな小説を書こうとする。でも向いてないから失敗する。ぶっちゃけちゃうと、私の小説への執着も、似たような所から来てたんだ。
私は時々思うところがある。そこの文章読んだ時、私は向いている方に行けってのと同時に、なりたいものになれって言われてるようだった。向いてる方向を変なこだわりで潰すな、でも向いてないものを挑戦する事を諦めてはいけない。私は向いてる方をに進む事を選んで、小説は書かなくなっちゃったけど、結構楽になったよ。まあ、全部が全部綺麗さっぱり無くなったってわけじゃないけど」
桜森は照れ隠しに笑ってみせる。
廿楽はその話を聞いて、自分なりに考えてみた。
「どうしてシャボン玉の世界を書かなかったの?」
酒々井の言葉が蘇る。廿楽はこの一週間、小説を書くにあたって、小説っぽくキャラクターを作って、小説っぽくセリフを入れて、小説っぽくすっきりした感じに終われるように、という事を考えながら、創作してきた。酒々井にはああ言ったが、別に情景が書けなかったわけではない。だがセリフを書かなくちゃと思って入れてみたら、その後どう繋げていいか分からず、結局セリフばっかりになってしまったのだ。
変にこだわらない。そうか、それが行き詰まった理由。きっとそれを伝えるために薦めたのだろうと思うと、少しだけ心があったかくなった。
「酒々井先輩って、人に興味ないと思ってたんですけど、意外と気にかけてくれているんですね」
「ね、意外とね。本当は話す人いないからずっと小説書いてるんじゃない?」
廿楽と桜森はクスクスと笑い合う。
と、そのとき、
「後輩に変な事吹き込まないでくれる?」
「酒々井!」
いつの間にかドアの前に立っていた酒々井の存在に気が付き、二人は目を大きく見開いた。桜森はただ驚いているだけだったが、廿楽は先輩を弄ってしまったという所から、冷や汗が止まらなかった。
「へえ、後輩にどう思われるか気になるんだ。やっぱり酒々井も人間だねぇ」
「廿楽さん、読み終わった?」
「無視すんな、おい」
桜森さんの的確なツッコミが炸裂する。廿楽は桜森に乗るべきか酒々井に乗るべきか、どうすればいいのか分からずおどおどしていると、どうやら桜森の方はそれ以上続ける気がなさそうなので、酒々井の質問に答えることにした。
「あ、はい。読みました」
「そう、で、どっちが良かった?」
いつになく真剣な酒々井に、廿楽は首をコテっと傾げる。
「え? そうですね。二つの中だと、ピエロの方ですかね?」
「ええ!?」
急に、桜森が机をバンと叩きながら立ち上がった。
「ちょっと待ってよ、絶対陰獣でしょ!」
「それは本当にセンスないと思う。道化師の方が絶対面白い」
「はあ? あんな最初っから犯人分かるやつの何が面白いの?」
「それは桜森さんが異常なんだよ。普通分からない。というか、陰獣こそ犯人見え見えでしょ」
「でもあれはそこじゃない。人間の狂気っていうかさ。暴力っていう男の欲を引き出す女の異質な魅力がいいんじゃないか!」
「意味わからない。というか、人間の狂気だったら、淡い恋心、よくあるだろう姉妹の些細な溝、それを深めに深めた故に起こる狂気じみた執着と犯行が書かれた道化師の方が人間の狂気を自然な形で、それでいて残酷に表されていると思う。その点陰獣は最後が少し雑すぎるよ。主人公が狂わされているように見せたかったんだろうけど、あれじゃあやらせにしか見えない」
「それは、主人公が凡人であるが為に起こる事でしょうが! 勢いに任せてやってるけど何処か冷静で、躊躇いがある。でも自分が狂わされてるって思いたいからそう振る舞う。そういう人間の、こう、欲ってゆうかさあ。というか君、そんな事も読み取れないで小説書いてるわけ?」
「あ、あの……」
唐突に始まった議論という名の喧嘩に、廿楽は困り果てた。これこそ犬猿の仲と言うのか。いや、少し違うような気もするが、それは置いといて、先輩の喧嘩を止める手段を持ってない廿楽はただあわあわとすることしかできない。しかし、このままにしておく程の肝も据わっていなかったので、立ち上がって止める素振りをみせてみる。
「あらあら、大変なことになってるみたいね」
と、後ろから声が聞こえて振り向くと、そこにはメガネを掛け、ひとつ縛りにした髪を横に流している、女子生徒が立っていた。現部長である神楽坂晴美だ。
「神楽坂部長!」
廿楽は瞳をうるうるさせながら、神楽坂に助けを求める。
「神楽坂先輩……」
「ぶ、部長、これは、その……」
しかし逆に、急に酒々井と桜森の歯切れが悪くなった。廿楽は不思議に思って、コテっと首を傾げる。神楽坂は笑みを絶やさない。絶やさないまま、メガネを外す。
「ふんふん、なるほどね。やだもう、酒々井君ったら、包丁なんて持ってないわよ。私を何だと思ってるの? 莉里ちゃんも、水に沈めるなんて、そんなの小説の中でしかやらないから」
冷や汗を流す二人、廿楽は何が起こっているのか分からず、そわそわさせる。
「二人とも、次また後輩君達を困らせたら、分かってるよね?」
「「はい、分かっております!」」
「じゃあ、美久ちゃんに謝ろうか」
「「はい、すみませんでした!」」
「ええ……」
騒動が収まったのはいいのものの、これはこれでどうしたらいいか分からず、廿楽は体をもじもじさせる。神楽坂はため息をひとつ吐くと、眼鏡を掛け直し、最後に鼻の微調整を行った。
「よし、じゃあ、私今日はちょっと用があるから、お疲れ様」
「「お疲れ様です!」」
「お、お疲れ様です……」
まるで大日本帝国時代の兵隊のように背筋をピンとさせて、ハキハキ喋る二人に戸惑いながら、廿楽は挨拶をする。
神楽坂が帰った後、兵隊のようだった二人の先輩は、急に軟体動物のようにへなへなになった。
「迂闊だった。まさか今日来るなんて……」
「本当にそれ、美久ちゃん。部長だけは怒らせちゃダメだよ。人生ガチで終わるから」
「は、はあ……」
何のことかさっぱり分からず、曖昧な返事をする廿楽。だがあの酒々井があんなになるのだから余程のことがあると見て、今後神楽坂に逆らうことはやめようと、心に誓う廿楽だった。