新年あけましておめでとうございます。洛南の部長さんにエッセイを寄せていただきました。なお下楠さんには以前、5句競作にもご登場いただきました(絵里(洛南)×瑞季(広島)×堀下(旭川東))。併せてご覧ください。
第16回俳句甲子園公式作品集を読む!(目次)へ
〈言葉にできぬ、世界のはなし〉洛南高校2年 下楠絵里
紅蓮とも呼ぶべき、真っ赤な夕焼けだった。
今の私ならそう、表現するだろうか。
少し古びてやぼったい、灰色のコンクリートでできたアパートが我が家であった。配管や外階段がごつごつと飛び出して、まさに郊外の住宅地特有の寂しさを体現したような佇まいであった。
アパートの前には、キャベツ畑が広がっていた。窮屈そうに辺りを埋め尽くすキャベツは、お互いがお互いを傷付けているようで、茶色の葉も多々見受けられる。攻撃的で毒々しいという印象すら抱くほどの緑の葉は、美しいものとは思えなかった。
私は二、三歳であったときのはずだ。左右の手をそれぞれ父と母に繋がれながら、慣れぬ徒歩に疲れ切っていた。
妹が生まれ、両親に甘えきりでいることができなくなった頃であった。私は幼いなりに、寂しく思っていたらしい。久しぶりの両親と三人での外出にへとへとになりながらも、二人に遅れまいと必死に足を動かした。
大通りを曲がると、そこにキャベツ畑が広がる。車線と歩道の境がないほど狭い、畑沿いの道の先に、ぽつんとアパートは立っていた。
父と母に軽く手を引かれ、ようやく家にたどり着く、と私は小走りに角を曲がった。
そこには、見たことのない世界が広がっていた。
どきり、と胸が高鳴った。夕焼けだった。
赤い、紅い夕焼けに照らされて、無機質で不気味な、黒々とした巨大な物体が浮かび上がっていた。
目の前のキャベツはみな、逆光で影を作った面を私に向けていた。そして、鮮やかな赤い空の色を映し、繊細かつ渋みのある黄緑色となった葉は、まるで夕陽に向かって花開いているようにあった。
見慣れたアパートは、美しい郊外の自然の中で、突如圧倒的な『人工物』として私の目の前に現れた。
品もなく並んでいたキャベツは、夕陽に向かおうとする、それぞれが意思を持つ気高い『生』として私の目に映った。
すべてを支配するかのような赤の世界で、全身の血が共鳴しているように、熱い何かがこみ上げた。私は黙って立ち止まった。そうすることしかできなかった。
これが、私のもっとも古い世界の記憶だ。
これが、私のもっとも美しい世界の記憶だ。
今、このときと同じ風景を見たとして、私は同じ感動を得ることはできないだろう。
おんぼろのアパートからあれほどの威圧感を受けることはないし、多くの生をはらんだ土のにおいと熱気を、あれほど近くで感じることはできない。
どちらも幼児だからこそ得られた感動であった。
そもそも前述の私の言葉は、あの瞬間に感じた衝撃を表現することには成功していないだろう。私が思い返している記憶が、そもそも間違っていてもおかしくない。
今となっては、この私の記憶が美化されたものなのか、はたまた実際はもっと美しかったのか、もしくはこの記憶通りの感覚体験であったのか。確かめる術はない。
なぜならそのときの私は、黙って立ち止まることしかできなかったからだ。
それは、圧倒されたから、というだけではない。
私は単純に、その感情を表現する言葉を、その感動を思考する言葉を、知らなかったのだ。
喋りはじめて間もなかった私は、自分の得た感覚を言葉で表現することはできなかった。そして私の中に残されたのは、あのときの身体的な感覚と、視覚的に見た記憶だけである。
けれど、言葉を知らず、表現できなかったことで、『ことばにできないほどのもの』として、私の記憶は一層美しくなったとも考えられる。
そしてそれが、俳句なのかもしれない、と私は思う。
高校生らしい、という言葉が不愉快であった。なぜ大人は高校生らしさを喜ぶのか。年寄りくさい句だと、意見されるのか。
現在の高校俳句界に対し、人々が『高校生らしい実感に基づいた若々しさ』を讃美し、大人びたものを批判的な目で見る、そんな風潮を私は嫌っていた。
でも、今なら少し分かるかもしれない。
表現する言葉を知らないから、別のことばで表そうとする。あるいは別の描写をしようとする。
それは、多くの言葉を知った大人にはできない、若者にしかできないことなのだ。
年をとるということは、多くの経験を積み、多くの単語を知り、あらゆる瞬間にぴたりと当てはまる言葉を知っていくことなのであろう。そこから、揺るぎのない格調を持つ、より熟成した句が生まれる。知っている言葉に適切な表現がなくとも、若者よりずっと大きな言葉の引き出しの中から、自分の望むものに近いフレーズを探してこれる。
対して若者は、経験したことのないものや知らない単語が多いぶん、適切な言葉を知らないことが多々あるだろう。自分の知っている言葉で、どのように表現するか。その試行錯誤の先に、句から溢れ出す若々しさ、というものが現れるのではないだろうか。
もちろん、年輩の方でも若々しい句を作る方はいらっしゃる。意図的なものかもしれないし、新しい分野(最近で言うならばスマートフォンなど、年輩の方のほうが経験が少ないこと)を題にしていれば、それは自然なことだろう。
若い人が年をとった人のような句を作ることもある。マニアと呼ばれる人は、年輩の方顔負けの経験や知識を、特定の分野において身につけていることがある。
このように、経験や知っている単語の量と老若の関係に、私の考えが一概には適用されないとは思う。それでも、『生きてきた時間』というものは使う語彙や表現に明らかな差をもたらすだろう。
そもそも、俳句とは言いたいことを言えないものだ。たくさんの言いたいことを17文字に落とし込む。言いたいことを直接言うことはできず、隠したり削ったりしたその先に、説明を越えたなにものかを見せ、生み出すのが俳句だ、と私は考える。
私の冒頭の情景の記憶は、言葉を知らなかった当時の私によって、視覚的、身体的な実感の記憶として残されている。
そして、できないことだと分かっていながらも、今でも時折あの感動を言葉にしようと、四苦八苦してみせる。この世界の美しさを思いだし、再認識してやる。
私にとって、この夕焼けの記憶は、言葉にできなかった、いわば0音の『俳句』なのだ。
なんのために俳句を作るのか、それは人によって様々だろう。
ただ、私に関して言うなれば、自身が見たこの世界の美しさを私の記憶に留めておかんとするためだ。
あまりにも簡単に、私はものを忘れてしまう。恐らく、私に限らずほとんどのひとはそうであろう。
今の時点でそうなのだ、大人になっていくにつれて、私はどれほど、今見ている世界の美しさを忘れてしまうのだろう。永遠などないとしても、せめて私が生きているあいだは、私は私の大切な記憶を失いたくない。
だから私は、自分が美しいと思った、私が見ることができた世界の一欠片に対して考える。それは私の言葉で表現しきることができるものではないが、何度も言葉を当てはめていくことで、私の記憶は確固としたものになり、最後に17音がある程度のかたちを作る。
私はそれを記憶とともに大事にとっておく。そして、私の言葉の力がより成長したとき、もう一度その句と記憶に立ち返り、また17音を練り直すのだ。
俳句を始めてから、私の記憶は、私の見た世界は、こうして俳句として残してきた。表現できないことを言い換え言い換え、自分が言葉にできる範囲にたぐり寄せようとした。
表現できない夕焼けを、視覚的身体的記憶として焼き付けることにした、幼い私と同じように。
俳句を始めたときは知らなかった、当時は表現できなかった言葉を今、使っていたりする。それでもなおある、自分の知っている言葉で表せないものを、自分で咀嚼して、どのように表現するのか。
それを考えるのが、俳句を詠む人間のすべきことなのだろう。
16歳の私が知っている言葉、表現できる方法で、自分が見た世界の一部を描き出す。人の生としてあまりにも短い16年は、どれだけ詰め込んでも幼いものでしかないかもしれないが、それが今の私にとってのすべてだ。そこから生まれた私の句から、若々しさ、ひいては高校生らしさ、というものが感じられるのであれば、甘んじて受け入れようと思う。
高校生らしさ、と言う言葉が、少し嫌いではなくなった気がする。それは言葉を探して悩む若者のあり方だからだ。同時に年寄りくささ、という言葉も、嫌いではなくなった。それは多くの知識から言葉を引き出す学習者のあり方だからだ。
ただ、叶うのであれば、若々しさ、年寄りくささ、そんなものではなく、『私らしさ』というものが滲み出る句を作りたいと願う。
それは、自分の知っている言葉と経験を搾りぬき、自分の得た感動を、自分の見た世界を表現したいと願う俳人の、総意であろうと思っている。
最後に、このような発表の場を用意してくださった旭川東高校文芸部様、お誘いくださった堀下翔様、あまりにも長い私の独り言にお付き合いくださった読者様に感謝の意を示させていただき、筆を置かせていただきます。
第16回俳句甲子園公式作品集を読む!(目次)へ
〈言葉にできぬ、世界のはなし〉洛南高校2年 下楠絵里
紅蓮とも呼ぶべき、真っ赤な夕焼けだった。
今の私ならそう、表現するだろうか。
少し古びてやぼったい、灰色のコンクリートでできたアパートが我が家であった。配管や外階段がごつごつと飛び出して、まさに郊外の住宅地特有の寂しさを体現したような佇まいであった。
アパートの前には、キャベツ畑が広がっていた。窮屈そうに辺りを埋め尽くすキャベツは、お互いがお互いを傷付けているようで、茶色の葉も多々見受けられる。攻撃的で毒々しいという印象すら抱くほどの緑の葉は、美しいものとは思えなかった。
私は二、三歳であったときのはずだ。左右の手をそれぞれ父と母に繋がれながら、慣れぬ徒歩に疲れ切っていた。
妹が生まれ、両親に甘えきりでいることができなくなった頃であった。私は幼いなりに、寂しく思っていたらしい。久しぶりの両親と三人での外出にへとへとになりながらも、二人に遅れまいと必死に足を動かした。
大通りを曲がると、そこにキャベツ畑が広がる。車線と歩道の境がないほど狭い、畑沿いの道の先に、ぽつんとアパートは立っていた。
父と母に軽く手を引かれ、ようやく家にたどり着く、と私は小走りに角を曲がった。
そこには、見たことのない世界が広がっていた。
どきり、と胸が高鳴った。夕焼けだった。
赤い、紅い夕焼けに照らされて、無機質で不気味な、黒々とした巨大な物体が浮かび上がっていた。
目の前のキャベツはみな、逆光で影を作った面を私に向けていた。そして、鮮やかな赤い空の色を映し、繊細かつ渋みのある黄緑色となった葉は、まるで夕陽に向かって花開いているようにあった。
見慣れたアパートは、美しい郊外の自然の中で、突如圧倒的な『人工物』として私の目の前に現れた。
品もなく並んでいたキャベツは、夕陽に向かおうとする、それぞれが意思を持つ気高い『生』として私の目に映った。
すべてを支配するかのような赤の世界で、全身の血が共鳴しているように、熱い何かがこみ上げた。私は黙って立ち止まった。そうすることしかできなかった。
これが、私のもっとも古い世界の記憶だ。
これが、私のもっとも美しい世界の記憶だ。
今、このときと同じ風景を見たとして、私は同じ感動を得ることはできないだろう。
おんぼろのアパートからあれほどの威圧感を受けることはないし、多くの生をはらんだ土のにおいと熱気を、あれほど近くで感じることはできない。
どちらも幼児だからこそ得られた感動であった。
そもそも前述の私の言葉は、あの瞬間に感じた衝撃を表現することには成功していないだろう。私が思い返している記憶が、そもそも間違っていてもおかしくない。
今となっては、この私の記憶が美化されたものなのか、はたまた実際はもっと美しかったのか、もしくはこの記憶通りの感覚体験であったのか。確かめる術はない。
なぜならそのときの私は、黙って立ち止まることしかできなかったからだ。
それは、圧倒されたから、というだけではない。
私は単純に、その感情を表現する言葉を、その感動を思考する言葉を、知らなかったのだ。
喋りはじめて間もなかった私は、自分の得た感覚を言葉で表現することはできなかった。そして私の中に残されたのは、あのときの身体的な感覚と、視覚的に見た記憶だけである。
けれど、言葉を知らず、表現できなかったことで、『ことばにできないほどのもの』として、私の記憶は一層美しくなったとも考えられる。
そしてそれが、俳句なのかもしれない、と私は思う。
高校生らしい、という言葉が不愉快であった。なぜ大人は高校生らしさを喜ぶのか。年寄りくさい句だと、意見されるのか。
現在の高校俳句界に対し、人々が『高校生らしい実感に基づいた若々しさ』を讃美し、大人びたものを批判的な目で見る、そんな風潮を私は嫌っていた。
でも、今なら少し分かるかもしれない。
表現する言葉を知らないから、別のことばで表そうとする。あるいは別の描写をしようとする。
それは、多くの言葉を知った大人にはできない、若者にしかできないことなのだ。
年をとるということは、多くの経験を積み、多くの単語を知り、あらゆる瞬間にぴたりと当てはまる言葉を知っていくことなのであろう。そこから、揺るぎのない格調を持つ、より熟成した句が生まれる。知っている言葉に適切な表現がなくとも、若者よりずっと大きな言葉の引き出しの中から、自分の望むものに近いフレーズを探してこれる。
対して若者は、経験したことのないものや知らない単語が多いぶん、適切な言葉を知らないことが多々あるだろう。自分の知っている言葉で、どのように表現するか。その試行錯誤の先に、句から溢れ出す若々しさ、というものが現れるのではないだろうか。
もちろん、年輩の方でも若々しい句を作る方はいらっしゃる。意図的なものかもしれないし、新しい分野(最近で言うならばスマートフォンなど、年輩の方のほうが経験が少ないこと)を題にしていれば、それは自然なことだろう。
若い人が年をとった人のような句を作ることもある。マニアと呼ばれる人は、年輩の方顔負けの経験や知識を、特定の分野において身につけていることがある。
このように、経験や知っている単語の量と老若の関係に、私の考えが一概には適用されないとは思う。それでも、『生きてきた時間』というものは使う語彙や表現に明らかな差をもたらすだろう。
そもそも、俳句とは言いたいことを言えないものだ。たくさんの言いたいことを17文字に落とし込む。言いたいことを直接言うことはできず、隠したり削ったりしたその先に、説明を越えたなにものかを見せ、生み出すのが俳句だ、と私は考える。
私の冒頭の情景の記憶は、言葉を知らなかった当時の私によって、視覚的、身体的な実感の記憶として残されている。
そして、できないことだと分かっていながらも、今でも時折あの感動を言葉にしようと、四苦八苦してみせる。この世界の美しさを思いだし、再認識してやる。
私にとって、この夕焼けの記憶は、言葉にできなかった、いわば0音の『俳句』なのだ。
なんのために俳句を作るのか、それは人によって様々だろう。
ただ、私に関して言うなれば、自身が見たこの世界の美しさを私の記憶に留めておかんとするためだ。
あまりにも簡単に、私はものを忘れてしまう。恐らく、私に限らずほとんどのひとはそうであろう。
今の時点でそうなのだ、大人になっていくにつれて、私はどれほど、今見ている世界の美しさを忘れてしまうのだろう。永遠などないとしても、せめて私が生きているあいだは、私は私の大切な記憶を失いたくない。
だから私は、自分が美しいと思った、私が見ることができた世界の一欠片に対して考える。それは私の言葉で表現しきることができるものではないが、何度も言葉を当てはめていくことで、私の記憶は確固としたものになり、最後に17音がある程度のかたちを作る。
私はそれを記憶とともに大事にとっておく。そして、私の言葉の力がより成長したとき、もう一度その句と記憶に立ち返り、また17音を練り直すのだ。
俳句を始めてから、私の記憶は、私の見た世界は、こうして俳句として残してきた。表現できないことを言い換え言い換え、自分が言葉にできる範囲にたぐり寄せようとした。
表現できない夕焼けを、視覚的身体的記憶として焼き付けることにした、幼い私と同じように。
俳句を始めたときは知らなかった、当時は表現できなかった言葉を今、使っていたりする。それでもなおある、自分の知っている言葉で表せないものを、自分で咀嚼して、どのように表現するのか。
それを考えるのが、俳句を詠む人間のすべきことなのだろう。
16歳の私が知っている言葉、表現できる方法で、自分が見た世界の一部を描き出す。人の生としてあまりにも短い16年は、どれだけ詰め込んでも幼いものでしかないかもしれないが、それが今の私にとってのすべてだ。そこから生まれた私の句から、若々しさ、ひいては高校生らしさ、というものが感じられるのであれば、甘んじて受け入れようと思う。
高校生らしさ、と言う言葉が、少し嫌いではなくなった気がする。それは言葉を探して悩む若者のあり方だからだ。同時に年寄りくささ、という言葉も、嫌いではなくなった。それは多くの知識から言葉を引き出す学習者のあり方だからだ。
ただ、叶うのであれば、若々しさ、年寄りくささ、そんなものではなく、『私らしさ』というものが滲み出る句を作りたいと願う。
それは、自分の知っている言葉と経験を搾りぬき、自分の得た感動を、自分の見た世界を表現したいと願う俳人の、総意であろうと思っている。
最後に、このような発表の場を用意してくださった旭川東高校文芸部様、お誘いくださった堀下翔様、あまりにも長い私の独り言にお付き合いくださった読者様に感謝の意を示させていただき、筆を置かせていただきます。
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コメント
[2] よしみ | 2016/10/02 03:21
「四国えかこと!▽学生俳句チャンピオン決定戦2016」
さっき見てここにたどり着きました。
当時高校生だった皆さんが今はもう大学生なんですね。
大学生らしさについてはどう考えますか?
今しか経験できない貴重な時期を大いに謳歌してください。
さっき見てここにたどり着きました。
当時高校生だった皆さんが今はもう大学生なんですね。
大学生らしさについてはどう考えますか?
今しか経験できない貴重な時期を大いに謳歌してください。
[1] 渡辺とうふ | 2014/01/03 19:49
大切なことをしっかり文章にして伝えて下さって、感謝の気持ちでいっぱいです。とうふ