引退した人間ですが、ちょっとだけ顔を出します。三年生・開来山人こと堀下です。大阪の吹田東高校俳句短歌部さんから部誌「群青」第五号を頂きました。読んでいたら、むらむらとしてきて、鑑賞を書きたくなりました。ちょっとの間、お付き合いください。
☆10人の部員の句が約10句ずつ掲載されているほか、エッセイや自作解題などが附されている。気になった句を見ていく。括弧内は本名とペンネームである。
脱走の爪を網戸に引っかけて(藤原彩圭/めろん・三年)
○網戸から飼い猫が逃げ出そうとしている。傍目には可愛いし、飼い主だって「こらこら」と叱っておしまい。だけど猫は必死だ。この薄っぺらい網を破ってしまえば猫は自由になれる。そういえば波多野爽波は「冬空や猫塀づたひどこへもゆける」と詠んでいた。この猫だって、網戸さえ突破できればあとはどこへもゆける。――もしかしてこの猫は作者自身かもしれない。この句の少し前に載っていたのは「大寒や猫になりたいと思う」。人間はどこへもゆけるわけではないから。猫が網戸を破れるかどうかは、まだ分からないけれど。
生きるって辛いよ目高助けてよ(森山雄太/もりさん・三年)
○こっちは目高に救いを求めた句。目高が助けてくれるわけはない。どうせならライオンとかゾウとかに頼んだ方がちょっとは心強いと思うが、作者は目高の元へ向かった。どうして目高を選んだのか。目高しかいなかったのか、目高じゃなければ駄目だったのか。前者なら、あまりにかなしい。目高に話しかけるには、水槽にせよ小川にせよ、屈まなければならない。背を曲げて目高に畳み掛ける作者のうしろ姿は切実だ。
芳春や誰其さんの死のことを(大池莉奈/柚子子・三年)
○この句を見て思い出したのは岸本尚毅先生の「鳥帰るテレビに故人映りつつ」だった。どちらも春の誰かの死。――どうして春と死が結びついて俳句になるのか。変な言い方をすれば、どうして映えるのか。僕が思うに、それはたぶん、理不尽だからだ。華やかなものの予感に充ちた季節に死ななければならないことの理不尽。俳句は理不尽が美しくなる。誰其さんの死も、そのことを考えている作者も。誰其さんという表現からは、作者がその人物とは関わりがないかのような印象を受ける。もし作者が考えている死が、見ず知らずの他人のものだとしたら。作者はどれほど理不尽なことに敏感なのか、と驚く。
秋深む一枚足りぬ紙芝居(若目田智之/わかめ・二年)
○個人的なことを言えば紙芝居が大好きだ。自分の句にも紙芝居がよく出てくる。だからこの句を採ったのは、好みと言ってしまえばそれまでである。だけれど、この句、すごく巧いと思いませんか。紙芝居は全部が揃っていないと、文字通り、話にならない。たった一枚無いだけでこの紙芝居は意味のないものになってしまった。「たった一枚」がもたらす大きな断絶感。読んでいて、響いた。それともう一つ考えたのは、作者が一枚足りないことに気づいたのは、紙芝居の実演の最中だったのではないか、ということだ。秋の静かな時間の中で、子どもたちが目を輝かせながら自分の紙芝居を観ている。そんなときに一枚足りないと知った作者。どうしようもなさが巧い。
濁りたるゼリーの底を突いて食う(松本雄大/松茸・二年)
○この句がいいなと思ったのは、ゼリーに濁りを発見したところである。季語の本意としては透き通った美しさだと思うし、俳句甲子園で兼題「ゼリー」に寄せられた句のほとんどは、歳時記通りにゼリーを「透明・ふるふる・鮮やか」捉えたものだった筈だ。この句は違う。自分の眼でゼリーを見て、それを濁っていると感じ、その発見を活かして句にする。だからこの句には全体に実感がある。
一つ採り一つ零して櫟の実(小嶋美雲/寅猫叉・二年)
○これ、言葉がかっこいい。「採り」と「零し」。団栗だから、もちろん本来は「採る」ものだったけど、ちょっと今の団栗の可愛らしい感じとは合わない(今だったら「取る」の方がしっくりくる、ような気がする)。「零す」もそう。ふつう、団栗は「落とす」。「採る」「零す」ことで、団栗が急にいきいきとしてくる。俳句って景よりも表現が大事になる場面があるよなあ……と思った。
螻蛄の行く地球の裏の大河まで(菅野拓也/かんの・一年)
○オケラ、地球の裏まで行ってしまうのか、と笑ったところで、ふと考える。日本の裏側の大河ってどこだっけ。アホな筆者は(いやホラ地理の授業とってないから)ネットで調べる。なるほど、アマゾン川か! この句、「オケラがアマゾン川まで行っちゃった」では面白くない。でーんと大げさに「地球の裏の大河」と言って、読むひとに「なんだなんだあ?」と思わせる。僕のようにググるところまで持って行かせたら勝ち(かもしれない)。
金魚鉢黒板消しで消す黒板(橋本紗羅/紅葉・一年)
○黒板消しで黒板を消すのは当たり前だ。こんなことが俳句になるのかと驚く。もしかしたら「これは俳句になってない」と見るひとだっているかも。そういえば、当たり前な俳句のことを書いた文章があったなと思って本棚を調べたら、ありましたありました、角川「俳句」(2013年3月号)。新鋭俳人・鈴木まゆうさんが、作品に添えた短いエッセイの中にこう書いている。
「最近世間では「あたりまえ体操」なるものが流行っているとか。日常の「当たり前」をただ並べているだけなのに妙に納得してしまうのはそこに「気付き」があるから。俳句もまた同じ」(P205)
橋本さんは、「黒板」を「黒板消し」で消すことに、何か気づくところがあったのではないか。それ、なんとなく分かるような感じがする。
紅蓮の血の通ひける平手かな(張沢碩/アゲハ・一年)
○部員が作者を紹介する頁には「博学」「哲学者」「知性」といった言葉が並ぶ。どんな生真面目な句を詠むんだと身構えたら、載せられた十句から立ち上がってくるのは、機智ではなくむしろセンスの良さだった。上に掲げた句以外にも「初夏のふみきりと月だけの夜」「満月をくづしてめだか野をすべり」など、すげー! と思う句はたくさんある。機知とセンスは紙一重かもしれないし、これらの文句なしの面白さは知性が裏付けているのかもしれないけれど、読者が見るのは俳句だけだ。掲句、「通ひける」に目が行った。僕だったら「たる」にするところだろう。連体止めでなくて、名詞に接続するときに「ける」を用いるのは、たぶん珍しい。けど作者はきっと、珍しいから使ってみたわけではないだろう。「ける」の響きの良さだとか、強さだとかを、直感している。
野良猫と並んだ神社夏の果(嘉永明日海/明月・一年)
○神社と夏はよく似合う。神社と猫もよく似合う。夏と猫もよく似合う(ハインラインの『夏への扉』とか!)。かといって、この句はつきすぎだろうか。似合うこととつきすぎは違う。晩夏の神社で猫と二人きりの作者。景のなかのそれぞれの距離感が、なんか、いい。距離感のよさの句だと思う。作者は猫と一緒に夏が過ぎ去っていくところを見届けている。そんな気がする。
吹田東のみなさん、部誌、ありがとうございましたー!
「群青」第5号
2013年9月14日初版第一刷発行
定価:0円(非売品)
監修:俳句部一同
編集者:若目田智之
装丁:俳句部一同
発行者:俳句短歌部
発行:吹田東高校印刷所(職員室)
☆10人の部員の句が約10句ずつ掲載されているほか、エッセイや自作解題などが附されている。気になった句を見ていく。括弧内は本名とペンネームである。
脱走の爪を網戸に引っかけて(藤原彩圭/めろん・三年)
○網戸から飼い猫が逃げ出そうとしている。傍目には可愛いし、飼い主だって「こらこら」と叱っておしまい。だけど猫は必死だ。この薄っぺらい網を破ってしまえば猫は自由になれる。そういえば波多野爽波は「冬空や猫塀づたひどこへもゆける」と詠んでいた。この猫だって、網戸さえ突破できればあとはどこへもゆける。――もしかしてこの猫は作者自身かもしれない。この句の少し前に載っていたのは「大寒や猫になりたいと思う」。人間はどこへもゆけるわけではないから。猫が網戸を破れるかどうかは、まだ分からないけれど。
生きるって辛いよ目高助けてよ(森山雄太/もりさん・三年)
○こっちは目高に救いを求めた句。目高が助けてくれるわけはない。どうせならライオンとかゾウとかに頼んだ方がちょっとは心強いと思うが、作者は目高の元へ向かった。どうして目高を選んだのか。目高しかいなかったのか、目高じゃなければ駄目だったのか。前者なら、あまりにかなしい。目高に話しかけるには、水槽にせよ小川にせよ、屈まなければならない。背を曲げて目高に畳み掛ける作者のうしろ姿は切実だ。
芳春や誰其さんの死のことを(大池莉奈/柚子子・三年)
○この句を見て思い出したのは岸本尚毅先生の「鳥帰るテレビに故人映りつつ」だった。どちらも春の誰かの死。――どうして春と死が結びついて俳句になるのか。変な言い方をすれば、どうして映えるのか。僕が思うに、それはたぶん、理不尽だからだ。華やかなものの予感に充ちた季節に死ななければならないことの理不尽。俳句は理不尽が美しくなる。誰其さんの死も、そのことを考えている作者も。誰其さんという表現からは、作者がその人物とは関わりがないかのような印象を受ける。もし作者が考えている死が、見ず知らずの他人のものだとしたら。作者はどれほど理不尽なことに敏感なのか、と驚く。
秋深む一枚足りぬ紙芝居(若目田智之/わかめ・二年)
○個人的なことを言えば紙芝居が大好きだ。自分の句にも紙芝居がよく出てくる。だからこの句を採ったのは、好みと言ってしまえばそれまでである。だけれど、この句、すごく巧いと思いませんか。紙芝居は全部が揃っていないと、文字通り、話にならない。たった一枚無いだけでこの紙芝居は意味のないものになってしまった。「たった一枚」がもたらす大きな断絶感。読んでいて、響いた。それともう一つ考えたのは、作者が一枚足りないことに気づいたのは、紙芝居の実演の最中だったのではないか、ということだ。秋の静かな時間の中で、子どもたちが目を輝かせながら自分の紙芝居を観ている。そんなときに一枚足りないと知った作者。どうしようもなさが巧い。
濁りたるゼリーの底を突いて食う(松本雄大/松茸・二年)
○この句がいいなと思ったのは、ゼリーに濁りを発見したところである。季語の本意としては透き通った美しさだと思うし、俳句甲子園で兼題「ゼリー」に寄せられた句のほとんどは、歳時記通りにゼリーを「透明・ふるふる・鮮やか」捉えたものだった筈だ。この句は違う。自分の眼でゼリーを見て、それを濁っていると感じ、その発見を活かして句にする。だからこの句には全体に実感がある。
一つ採り一つ零して櫟の実(小嶋美雲/寅猫叉・二年)
○これ、言葉がかっこいい。「採り」と「零し」。団栗だから、もちろん本来は「採る」ものだったけど、ちょっと今の団栗の可愛らしい感じとは合わない(今だったら「取る」の方がしっくりくる、ような気がする)。「零す」もそう。ふつう、団栗は「落とす」。「採る」「零す」ことで、団栗が急にいきいきとしてくる。俳句って景よりも表現が大事になる場面があるよなあ……と思った。
螻蛄の行く地球の裏の大河まで(菅野拓也/かんの・一年)
○オケラ、地球の裏まで行ってしまうのか、と笑ったところで、ふと考える。日本の裏側の大河ってどこだっけ。アホな筆者は(いやホラ地理の授業とってないから)ネットで調べる。なるほど、アマゾン川か! この句、「オケラがアマゾン川まで行っちゃった」では面白くない。でーんと大げさに「地球の裏の大河」と言って、読むひとに「なんだなんだあ?」と思わせる。僕のようにググるところまで持って行かせたら勝ち(かもしれない)。
金魚鉢黒板消しで消す黒板(橋本紗羅/紅葉・一年)
○黒板消しで黒板を消すのは当たり前だ。こんなことが俳句になるのかと驚く。もしかしたら「これは俳句になってない」と見るひとだっているかも。そういえば、当たり前な俳句のことを書いた文章があったなと思って本棚を調べたら、ありましたありました、角川「俳句」(2013年3月号)。新鋭俳人・鈴木まゆうさんが、作品に添えた短いエッセイの中にこう書いている。
「最近世間では「あたりまえ体操」なるものが流行っているとか。日常の「当たり前」をただ並べているだけなのに妙に納得してしまうのはそこに「気付き」があるから。俳句もまた同じ」(P205)
橋本さんは、「黒板」を「黒板消し」で消すことに、何か気づくところがあったのではないか。それ、なんとなく分かるような感じがする。
紅蓮の血の通ひける平手かな(張沢碩/アゲハ・一年)
○部員が作者を紹介する頁には「博学」「哲学者」「知性」といった言葉が並ぶ。どんな生真面目な句を詠むんだと身構えたら、載せられた十句から立ち上がってくるのは、機智ではなくむしろセンスの良さだった。上に掲げた句以外にも「初夏のふみきりと月だけの夜」「満月をくづしてめだか野をすべり」など、すげー! と思う句はたくさんある。機知とセンスは紙一重かもしれないし、これらの文句なしの面白さは知性が裏付けているのかもしれないけれど、読者が見るのは俳句だけだ。掲句、「通ひける」に目が行った。僕だったら「たる」にするところだろう。連体止めでなくて、名詞に接続するときに「ける」を用いるのは、たぶん珍しい。けど作者はきっと、珍しいから使ってみたわけではないだろう。「ける」の響きの良さだとか、強さだとかを、直感している。
野良猫と並んだ神社夏の果(嘉永明日海/明月・一年)
○神社と夏はよく似合う。神社と猫もよく似合う。夏と猫もよく似合う(ハインラインの『夏への扉』とか!)。かといって、この句はつきすぎだろうか。似合うこととつきすぎは違う。晩夏の神社で猫と二人きりの作者。景のなかのそれぞれの距離感が、なんか、いい。距離感のよさの句だと思う。作者は猫と一緒に夏が過ぎ去っていくところを見届けている。そんな気がする。
吹田東のみなさん、部誌、ありがとうございましたー!
「群青」第5号
2013年9月14日初版第一刷発行
定価:0円(非売品)
監修:俳句部一同
編集者:若目田智之
装丁:俳句部一同
発行者:俳句短歌部
発行:吹田東高校印刷所(職員室)
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