こんな手紙が届いた。
〈みのりへ ジンジャーブレッド焼いたからおいで。 ようこ〉
ん、と思って首を傾げた。だって、手紙ということはジンジャーブレッドを焼いたのは何日か前のはずで、メールか電話にすればよかったのに。彼女はたまにこうしてよくわからないことをする。よくわからないまま家を飛び出す私も私で、ちょっとおかしいのかもしれないけれど。
しんしんと、雪の降る日だった。とても寒くて、マフラーに顔を埋めると目の前が曇って見えなくなった。黒縁で側面にストーンが入った四角い眼鏡。とても気に入っているけれど、こういうとき不便だと思う。
彼女の家は公園に面しているこじんまりした一軒家だ。それなりに古い建築だと思うけれど、それがおとぎ話のようで(彼女いわくヘンゼルとグレーテルがたずねてきそうで)雰囲気がある。インターフォンを鳴らすと反応はなかった。外出中の場合も考えてドアノブに手をかけると、あっさり開いてしまってぎょっとする。公園はこどもたちの遊び場であり不審人物の溜まり場であるというのに、不用心すぎやしないか。私は後ろ手に鍵を閉めた。玄関は直接居間につながっていて、暗がりの中ではなにかがもぞもぞと動いている。電気をつけると確かに彼女だった。
「おそかったね。もう、冷めちゃったよ」
「なに、この部屋」
一歩踏み入れると、ひんやりした空気が足の裏から冷やしていった。家主はブランケットにくるまって腕をさすっている。
「ストーブ、壊れちゃって」
呆れて何も言えないまま立ち尽くしていると、彼女は上がってよ、と言った。ストーブが壊れたにしたって、こんな冷蔵庫みたいな家冗談じゃない。彼女は痺れを切らしたのか玄関まで来て私の手を引いた。氷のような手だった。
「つめたいよ」
「魔女みたい?」
振りかえった顔は得意げに笑っていた。意味が分からない。居間のソファに座らされ、彼女がくるまっていたブランケットをかけられると、いくぶんか暖かくなった。
「キャラメルマキアートとミルクティーどっちがいい」
彼女は台所から顔を出しながら聞いた。
「ミルクティー」
「ごめんね、ミルクティー切れてるの」
「なんで聞くのよ」
「あるかなぁと思ったから」
コンロの火がつく音が聞こえた。私はちいさくため息をついてソファに凭れる。やかんをほったらかしてきた彼女は、さむいさむいと呟きながら私の向かいに座った。ブランケットを返そうとしたら押し戻される。なんなんだ。それから私の視線が机の上のあるものに注がれていることに気がつくと、ちょっとにやにやしながら頬杖をついた。腹立つ。
「やっぱり眼鏡の方がいいね」
「ありがとう」
「それね、こないだ久しぶりに予定が合ったから、一緒に出かけたときの写真なの」
「ふうん」
気のない返事をしても彼女が声を弾ませるのに違いはなかった。そうくんと、そうくんの、そうくんが。何度も何度も聞かされる名前をもつ男に私は会ったことがない。知っているのは、彼が黒縁眼鏡をかけているということだけ。
彼がいかに魅力的な男性であるか話すあいだ、私はその話を耳に入れて適当な相槌を打つだけのからっぽな容器になっていることを、彼女は知らない。だからこそ、今だって頬をゆるませその口は三秒と閉じないし、そんな気づかいができるにんげんならとうの昔に私との縁は切れていると思う。ひとの気もちに鈍なのは罪だ。
そんなに遠くないところで、ぴいいいと鳴くような音がした。台所に行った彼女はカップと皿をふたつずつ持って戻ってきた。皿の上にはジンジャーブレッドと思しきものが乗っている。
「いつ焼いたの?」
「今日だよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
間延びした調子で言う彼女はフォークでちいさく切ったそれを口に運ぶと、わりとぬるい、というなんとも微妙な発言をした。今日だとしたら、彼女はあの手紙を直接郵便受けに投函したとでもいうのか。疑問符が消えないままカップの中をのぞき、思いきり眉を顰めた。
「ホイップ浮かべるとおいしいの」
表面は甘党の彼女にすっかり侵されていた。恐る恐る、ひとくち飲んでみる。腐ったみたいに甘い。
「……いつもこんなの飲んでるの?」
「うん」
食べかけのジンジャーブレッドを見て、それから、まだ足りないのか自分のカップにこんもりとホイップを乗せていく彼女を盗み見た。このお馬鹿さんがなんらかの病気でしぬのも時間の問題だろう。私は気付かれないようちいさく笑った。
「あ、そういえばさっきの続きなんだけど、そうくんね」
「あのさぁ」
「なあに」
「その名前変えてくれる」
冷えた声と裏腹に、頭だけがひどく熱い。ほかの熱がぜんぶ一ヶ所に集まったみたいだ。彼女はちょっと驚いたような顔をしている。
「どうして」
「やだから」
「みのりは、そうくんの名前がきらいなの?」
「きらいっていうか、うっとうしい」
今なら聞こえないものまで聞こえるような気がした。彼女はなにやら難しい顔をしながら、ホイップをかき混ぜて溶かしている。しばらくしてから思いついたようにぱっと顔を上げた。
「わかった。これからは、そうくんのことをみのりと呼びます」
何がわかったのか知らないが、彼女は何事もなかったかのようにふたたび話を始めた。みのりと、みのりの、みのりが。さっきより大分ましになったけれども、いつまでもゆるんでいる頬はやっぱり腹立たしい。
ホイップを鼻につけていることにも気がつかない彼女にとって、この空間と時間は本当に存在しているのだろうか。私にはわからない。アインシュタインにだってわからないだろう。今私と人形をとりかえたとして、ようこが何を失うのかということも。
甘ったるい匂いが、密室の中のふたりを死に近づける。じわり、じわり。ゆっくりと、着実に。
〈みのりへ ジンジャーブレッド焼いたからおいで。 ようこ〉
ん、と思って首を傾げた。だって、手紙ということはジンジャーブレッドを焼いたのは何日か前のはずで、メールか電話にすればよかったのに。彼女はたまにこうしてよくわからないことをする。よくわからないまま家を飛び出す私も私で、ちょっとおかしいのかもしれないけれど。
しんしんと、雪の降る日だった。とても寒くて、マフラーに顔を埋めると目の前が曇って見えなくなった。黒縁で側面にストーンが入った四角い眼鏡。とても気に入っているけれど、こういうとき不便だと思う。
彼女の家は公園に面しているこじんまりした一軒家だ。それなりに古い建築だと思うけれど、それがおとぎ話のようで(彼女いわくヘンゼルとグレーテルがたずねてきそうで)雰囲気がある。インターフォンを鳴らすと反応はなかった。外出中の場合も考えてドアノブに手をかけると、あっさり開いてしまってぎょっとする。公園はこどもたちの遊び場であり不審人物の溜まり場であるというのに、不用心すぎやしないか。私は後ろ手に鍵を閉めた。玄関は直接居間につながっていて、暗がりの中ではなにかがもぞもぞと動いている。電気をつけると確かに彼女だった。
「おそかったね。もう、冷めちゃったよ」
「なに、この部屋」
一歩踏み入れると、ひんやりした空気が足の裏から冷やしていった。家主はブランケットにくるまって腕をさすっている。
「ストーブ、壊れちゃって」
呆れて何も言えないまま立ち尽くしていると、彼女は上がってよ、と言った。ストーブが壊れたにしたって、こんな冷蔵庫みたいな家冗談じゃない。彼女は痺れを切らしたのか玄関まで来て私の手を引いた。氷のような手だった。
「つめたいよ」
「魔女みたい?」
振りかえった顔は得意げに笑っていた。意味が分からない。居間のソファに座らされ、彼女がくるまっていたブランケットをかけられると、いくぶんか暖かくなった。
「キャラメルマキアートとミルクティーどっちがいい」
彼女は台所から顔を出しながら聞いた。
「ミルクティー」
「ごめんね、ミルクティー切れてるの」
「なんで聞くのよ」
「あるかなぁと思ったから」
コンロの火がつく音が聞こえた。私はちいさくため息をついてソファに凭れる。やかんをほったらかしてきた彼女は、さむいさむいと呟きながら私の向かいに座った。ブランケットを返そうとしたら押し戻される。なんなんだ。それから私の視線が机の上のあるものに注がれていることに気がつくと、ちょっとにやにやしながら頬杖をついた。腹立つ。
「やっぱり眼鏡の方がいいね」
「ありがとう」
「それね、こないだ久しぶりに予定が合ったから、一緒に出かけたときの写真なの」
「ふうん」
気のない返事をしても彼女が声を弾ませるのに違いはなかった。そうくんと、そうくんの、そうくんが。何度も何度も聞かされる名前をもつ男に私は会ったことがない。知っているのは、彼が黒縁眼鏡をかけているということだけ。
彼がいかに魅力的な男性であるか話すあいだ、私はその話を耳に入れて適当な相槌を打つだけのからっぽな容器になっていることを、彼女は知らない。だからこそ、今だって頬をゆるませその口は三秒と閉じないし、そんな気づかいができるにんげんならとうの昔に私との縁は切れていると思う。ひとの気もちに鈍なのは罪だ。
そんなに遠くないところで、ぴいいいと鳴くような音がした。台所に行った彼女はカップと皿をふたつずつ持って戻ってきた。皿の上にはジンジャーブレッドと思しきものが乗っている。
「いつ焼いたの?」
「今日だよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
間延びした調子で言う彼女はフォークでちいさく切ったそれを口に運ぶと、わりとぬるい、というなんとも微妙な発言をした。今日だとしたら、彼女はあの手紙を直接郵便受けに投函したとでもいうのか。疑問符が消えないままカップの中をのぞき、思いきり眉を顰めた。
「ホイップ浮かべるとおいしいの」
表面は甘党の彼女にすっかり侵されていた。恐る恐る、ひとくち飲んでみる。腐ったみたいに甘い。
「……いつもこんなの飲んでるの?」
「うん」
食べかけのジンジャーブレッドを見て、それから、まだ足りないのか自分のカップにこんもりとホイップを乗せていく彼女を盗み見た。このお馬鹿さんがなんらかの病気でしぬのも時間の問題だろう。私は気付かれないようちいさく笑った。
「あ、そういえばさっきの続きなんだけど、そうくんね」
「あのさぁ」
「なあに」
「その名前変えてくれる」
冷えた声と裏腹に、頭だけがひどく熱い。ほかの熱がぜんぶ一ヶ所に集まったみたいだ。彼女はちょっと驚いたような顔をしている。
「どうして」
「やだから」
「みのりは、そうくんの名前がきらいなの?」
「きらいっていうか、うっとうしい」
今なら聞こえないものまで聞こえるような気がした。彼女はなにやら難しい顔をしながら、ホイップをかき混ぜて溶かしている。しばらくしてから思いついたようにぱっと顔を上げた。
「わかった。これからは、そうくんのことをみのりと呼びます」
何がわかったのか知らないが、彼女は何事もなかったかのようにふたたび話を始めた。みのりと、みのりの、みのりが。さっきより大分ましになったけれども、いつまでもゆるんでいる頬はやっぱり腹立たしい。
ホイップを鼻につけていることにも気がつかない彼女にとって、この空間と時間は本当に存在しているのだろうか。私にはわからない。アインシュタインにだってわからないだろう。今私と人形をとりかえたとして、ようこが何を失うのかということも。
甘ったるい匂いが、密室の中のふたりを死に近づける。じわり、じわり。ゆっくりと、着実に。
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