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【小説】私の歌と君の声と/空集合

 週末になると、彼は決まって私に歌を歌ってくれと頼む。そうして私が歌うと
「ありがとう、やっぱり俺詩音の歌好きだな。あ、もちろん詩音のことも好きだよ」
と、そう言って子供のように笑うのだ。
 そんな彼の声が、笑顔が、私は大好きだった。

*  *  *
 
 彼が目を覚ましたのは、事故に遭ってから三日後だった。
 恐る恐る目を開ける彼を見て、私は思わず抱きついた。
「貴彰さんっ……!」
 彼が目を覚ましてくれた。涙がぽろぽろと流れてくる。
「生きていてくれてありがとうっ……!」
 泣きじゃくる私の頬に彼はキスをした。懐かしさすら覚えるその感覚が嬉しくて仕方ない。  
「本当に、良かった……」
 そうして嬉しさを噛み締めているとき。病室のドアが開く音がした。
「廣田さん! やっと目が覚めたんですね。少し待っていてください。今先生呼んできますから」
 看護婦が微笑み、ぱたぱたと担当医を呼びに行く。呼ばれて来た担当医も、嬉しそうな顔をしてやってきた。
「目が覚めましたか。事故から三日間寝込んでいて、みんな心配していたんですよ。どこか痛いところなどはないですか?」
 もうすっかり見慣れてしまった笑顔で優しく問いかける。が、貴彰さんの返答はない。
「廣田さん……?」
担当医がもう一度声を掛ける。それでも貴彰さんは相変わらずニコニコとしているだけだ。
 私はそのとき初めて、貴彰さんの様子がおかしいことに気が付いた。
 まさか、貴彰さんは――
「これは……。すみません、早急に検査しますね」
 そう言う担当医の声が、ひどく遠くから聞こえた気がした。

*  *  *

 どうして“当たって欲しくない予感”というものに限ってこうも簡単に当たってしまうのだろうか。
 無事に目を覚ましたと思われた私の恋人は、声と聴覚を失っていた。
 医者もこのことは予期していなかったようで、今まで私に対してこういった説明をしなかったことを懸命に詫びていた。だが、私にとってそんなことはどうでもよかった。
 喜んだらいいのか悲しんだらいいのか、自分でもよく分からなくなる。
 検査が終わってベッドに横になる貴彰さんを見ると、そこには当然私の知っている貴彰さんが居て。貴彰さんが声と聴覚を失ったことなんて悪い夢のようにすら思えてくる。
 なんとも形容できない気持ちになっていると、貴彰さんは不意に、医者が用意してくれた筆記具を手にとった。簡単な文字を書いて、私へ差し出す。
“俺が事故に遭ってからずっとそばにいてくれたんだね。ありがとう”
 確かにそれは貴彰さんの言葉だった。私の知っている、優しい貴彰さんの。
 私は今まで何を悩んでいたんだろう。貴彰さんが生きていてくれたことだけでこんなにも幸せだというのに。
 貴彰さんの持っていた筆記具をもらい、ペンを走らせる。今まで散々伝えていたことを本当に貴彰さんに伝える為に。
“生きていてくれてありがとう”

*  *  *

 その後貴彰さんは順調に回復し、二週間くらいで退院する運びとなった。
 声と聴覚を失ったのにもかかわらず二週間で退院なんてやけに早いと思ったのだが、それを貴彰さんに問うと
“大丈夫だから、心配しないで”
と笑って返された。
 久々に帰った家は、以前と何一つとして変わっていなかった。
「ふー、久々だね。ただいま」
 貴彰さんには聞こえてないけれど、そんな声を出してみる。ふと貴明さんを見ると、優しい笑顔を浮かべていた。
 居間に入るや否や、携帯を取り出す。
“取り敢えずお風呂にでも入ってきたら? 病院にいるときはシャワーしか浴びれなかったでしょ”
 そう打ち込んだ画面を見せると、貴彰さんも携帯を取り出し
“そうだね、じゃあお湯入れてくるよ”
と打ち込んだ。
 入院していた二週間、私と貴彰さんの間では携帯を用いたコミュニケーションを確立していた。最初は筆記具を用いたものだったのだが、携帯の方が早いし読みやすいということで結局そちらに落ち着いたのだ。
 二人でしばらく無言の会話をした後、貴彰さんはお風呂に入りにいった。手持ち無沙汰になった私は、溜まっていた洗濯物があることを思い出す。
「洗濯しなきゃなぁ……」
 一人つぶやいて、洗濯作業に取り掛かろうとした。
 ――そこで、部屋の片隅に置いてあったアップライトピアノに目がいったのだ。
 そういえば、週末になったら決まって貴彰さんが私の歌を聞いてくれていたっけ。
 私は貴彰さんが歌を聴いてくれるのがとても嬉しくて。『詩音の歌が好きだ』と言って笑う貴彰さんがどうしようもなく大好きで。
 でも、貴彰さんはもう――
 私は貴彰さんの前で歌うことが無くなって、貴彰さんは私の歌を聴くことがなくなるのだろう。
「貴彰……さん…………」
気づいたら、ピアノに縋るような形で泣いていた。涙が、止まらない。
どうして、貴彰さんが――
考えたってどうしようもないのに、そんなことばかりが浮かんでしまう。
「ごめんなさい……」
 そう呟いた瞬間だった。
 後ろから、優しく体を包まれる。はっとして後ろを振り返ってみると、髪の毛の濡れた貴彰さんが私を後ろから抱きしめていた
 貴彰さんが携帯の画面をこちらに向けてくる。
“ねえ詩音、久々に、俺の前で歌ってくれない?”
 私の歌を聴くことなんて出来ないのに、何言ってるの。
 しかし貴彰さんは優しく笑っている。いつも私に歌を頼むときみたいに。
 私は涙で濡れた目をこすった。
 そんなこというなら歌ってあげようじゃないか。それを彼が望んでいるのならば。
 私はピアノの前に座った。久々に鍵盤に指を触れる。久々すぎてちゃんと歌えるのか心配になる。
 それでも、私は歌い上げなければならないのだ。貴彰さんの為に。

   *   *   *

 歌い始めてからは一瞬だった気がする。自分がどんな歌を歌ったのかかすら覚えていない。
 貴彰さんは黙って私を抱きしめる。声が出せないんだから黙って抱きしめるのは当然のことな筈なのに、その当然のことがどうしようもなく悲しく思えてくる。
 気づいたら頬が濡れていた。
 そんな私を貴彰さんは更に強く抱きしめた。
「貴彰さっ……」
「やっぱり俺、詩音の歌好きだよ」
「…………えっ?」
 遮られるはずのない声に遮られて、一瞬自分が幻聴を聞いているのかと思った。
「だから、やっぱり詩音の歌好きだなあって」
 だが、これは幻聴ではないらしい。でも、
「どうして……?」
「ごめん、俺、詩音に嘘ついてた。実はね、俺が意識を取り戻した三日後くらいにはちゃんと耳も聞こえるようになったしし声も出せるようになってたんだ」
「……なんで嘘なんて吐いてたの?」
「ごめん。ちょっとした悪戯のつもりだったんだ。携帯で会話するのも楽しかったし。……まさか泣かせるとは思わなかった。本当にごめん」
「…………貴彰さんのばか」
 口ではそう言ったものの、本当に嬉しかった。また貴彰さんの声が聞ける。また貴彰さんに歌を聴いてもらえる。
「貴明さんの、ばか……」
 もう一度声に出してみる。それでも涙が止まらなかった。
「本当にごめんなさい。でも、本当に耳が聞こえなくなったわけじゃなくて良かったと思ってるんだ。俺、詩音の歌が大好きだから。もう詩音の歌が聴けなくなると思うと生きていけないかもしれない」
 そう言って、はは、と少年のように笑う。
「あ、もちろん、詩音のことも好きだよ」
 その言葉を聞いて、私は思わず貴彰さんを抱きしめた。



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