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世界みなアラベスクなり春春春

亜麻色の髪の心地や風光る

春の夢パジャマの釦はずれをり

廃校やなほ一面に芝桜

初夏の服はギャザーをたっぷりと

地球儀の割れてあぢさゐとなりぬ

虹立ちて人魚の絶命したる場面

ゼリーるるるどうしよう良くんが好き

噴水の羽振きて蘇生するごとし

真上からフォークで突きたくなる花野

シナモンの精はツンデレ秋の虹

初雪や真鍮の馬黒ずんで

もねちやんの笑つてゐるよ寒日和

紫耀くんがまた笑つとる冬菫


 高文連評論部門に出して全道最優秀賞を取った文章である。改行などを除き、そのまま掲載する。





 昭和期の文化人で徳川夢声ほど多彩な肩書を持った人物はいない。大きく言えば放送タレント・文筆家であるが、その活動範囲は多岐にわたり、夢声研究家の濵田研吾が書くには「活動弁士、漫談家、喜劇俳優、新劇俳優、映画俳優、ユーモア作家、エッセイスト、風俗評論家、ラジオタレント、番組プロデューサー、インタビュアー、俳人、美術コレクター、明治村村長……」(晶文社/徳川夢声と出会った)だ。いささか細かく分けすぎている印象はあるが、夢声の活動の広範囲さを語るにはぴったりである。夢声自身、職業を問われ「雑」と答えている(ダイヤモンド社/プロ・タレント花形稼業入門)。

 この稿では、数多ある夢声の側面のうち「俳人」としての部分に迫りたい。それは筆者自身が俳句活動をする人間だからである。濵田研吾、三國一朗をはじめとし、夢声研究者は数人いる。しかし俳句という詩形の特殊性から、これまで夢声俳句を論じたものは殆んどなかった。ならば自分が夢声俳句の研究に取り組もう、筆者はこう考えた。拙い論考ではあるが、夢声の文学的評価に与するものの一つとなれば幸いである。

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」を詠んだ中村草田男の随筆に『機上観月会』というのがある(作品社/日本の名随筆別巻二十五・俳句/金子兜太編/初出は『随筆サンケイ』一九五九年十一月号)。  
 
 全日空が、新鋭の飛行機に、俳句と短歌の世界の名士を乗せ、飛行機の上から月を観る会というのを企画した。そこに草田男も招待され、高度二万フィートで俳句を詠む……というもの。この会で草田男は「月の翼下に常高き富士いま太く」など数句を残している。

 むろん草田男の機上俳句にも興味をそそられるが、ここで特筆すべきは、この会の俳人サイドに夢声も呼ばれていることである。草田男によれば「大野伴睦、久保田万太郎、徳川夢声、富安風生、星野立子、石田波郷の諸氏が俳句組」ということだ。立子など、現代俳句史の重要な位置を占める俳人たちと並んで夢声の名が登場することに、少しの驚きさえ覚える。

 現代にはその足跡が伝わらなかっただけで、当時の夢声はひとかどの俳人たる人物だったのではないか。彼の俳句は、文化人の風流ではなく、文学活動だったのではないか。そんな考えが頭をもたげる。

 ここで夢声の俳句活動について、まとめておこう。句作開始は昭和八年三十九歳のとき。妻が亡くなり、自身も体を患い入院。衝動的に湧き上がってきたのが俳句だった。「生者必滅院長患者蝉しぐれ」「ミンミンの嵐にめげで唄ひけり」など数句を詠んでいる。これ以前、大正年間、さらには少年時代にも句作の経験はあるが、いずれも道楽や教養であった(夢声自伝(中)/講談社文庫)。

 そして入院を経て本式の活動をしたいと考え、翌昭和九年、随筆家の内田誠に句会設立の話を持ちかける。久保田万太郎を宗匠に迎え句会は立ち上がる。名前は、運座を催した渋谷いとう旅館からとって「いとう句会」といい、昭和四十年代まで続き伝説的な文人句会となった。夢声の俳句活動は主にこのいとう句会だ。俳号は夢諦軒である。なおいとう句会は『いとう句藻』(私家版)、『いとう句会壬午集』(私家版)、『句集・いとう句会』(いとう書房)、『いとう句会随筆集・じふろくささげ』(黄揚書房)などを出版している。

 それともう一つの活動場所が随筆であった。文筆家として軽妙な作品を多産した彼は、ユーモア小説と随筆の二本柱の作品群を持つが、その随筆の多くに、俳句が書きつけられている。写生句を得意としていて、彼の自伝的作品群の集大成である『夢声自伝』(講談社文庫/全三巻)では、句作開始以後の部分に関しては、大量の句を見ることができる。ほか、夢声は生涯に二冊の句集を残した。『夢諦軒句日誌二十年』(オリオン社)と『雑記・雑俳二十五年』(オリオン社出版部)がそれである。

 やや前置きが長すぎた。もっと本格的に夢声俳句を見ていく。膨大な句の中から、特徴的なものを四句挙げていこう。それを以て俳人徳川夢声の追究としたい。

○芋 を 焼 く 藤 原 鶏 太 欠 け 火 鉢

 昭和十九年作。藤原鶏太とは黒澤明映画の常連で有名な藤原釜足の戦時中の名。夢声と藤原は劇団「苦楽座」を共に立ち上げるなど関係が深かった。おそらく地方巡業の時の句と思われる。藤原鶏太が欠けた火鉢で芋を焼いている、ただそれだけの景を句と為しただけであるにも関わらず、面白い。藤原鶏太のコミカルな演技と小道具としての芋、という映画のシーンが浮かぶようだ。そこに「欠け」火鉢とは出来過ぎのような印象さえ受ける。しかしこれは夢声にとっての実景、彼の俳句の大部分を占める日記句のひとつなのである。

 これは、ちょっとした「ズル」かもしれない。あらゆる肩書を持って文化的な場面にはどこにだって登場した夢声の実生活には、専門俳人には出くわしえない景がある。他にも「年の瀬の高峰秀子後援会」など人名俳句は多い。文章の方で「蛞蝓大艦隊」(古今亭志ん生)、「超人オッサン伝」(高勢実乗)など知人の話を種にした作品を得意としていたことと重なる方向性である。これが同時代の実景でなければ面白味は半減である。現代俳句にも「春の夜せんだみつおがまだゐたか」(仁平勝)や「冬帽が飛んだマイケルジャクソンも」(坪内稔典)といった佳句はあるが、夢声が人名を句に詠み込む場合、徳川夢声が詠んだ、という前提設定が見え隠れする。途端に藤原や高峰の夢声との関わり合いが読者に思い起こされ、景は広がる。挨拶句にしようとしていなくとも挨拶句になってしまう。「ズル」だと言ったのはこういう意味だ。マルチな文化人でなければ詠めない俳句、これが彼の俳句の面白さの一つである。また「宿帳に俳優と書く暑さかな」のようなのは、そんな彼自身のキャラクターをそのまま句にしたものだろう。百面相のような自分が、今日は俳優としてきている、というとぼけだ。

○空 襲 の 師 走 旅 よ り 戻 り け り

 昭和十九年作。『夢声自伝』に載せられた句で「空襲の師走」に「旅より戻りけり」ということらしい。旅というのは地方巡業のことか。終戦前年の冬、空襲被害も増大し、巡業から帰ってくると、出発前よりも周囲に焼け跡が増えている。そういう状況を「空襲の師走」と端的に言いきったのが眼目である。回想ではなく、リアルタイムの句だ。記録者としての夢声の鋭さがある。夢声は詳細な日記をつけつづけ、戦後になってそれは『夢声戦争日記』(全五巻/中央公論社)として刊行された。この著作によって夢声の評価の一つに「時代の記録者」というのが加わったのであるが、この「空襲の師走」にもその観察眼が現れている。

 そして同時にこの表現には大胆さがないか。大きな切り取りは読者にとっての驚きであり、それは句としての可笑しみにもつながる。ユーモアというと語弊があるが、いかにも夢声らしい特殊な言い表しではある。戦争関連句ではほかに「おぼろ夜の照明弾の息吹かな」「重大発表待つ間に夏の雨となる」「引き倒す家の庭なる辛夷かな」などがこの系統。夢声の句風である。日常のさりげない句にも「大糸瓜落ちて負傷やいたましき」などがある。俳句に限らず夢声を語るにはユーモリストという観点が必要だろう。そういえば彼には「ゆうもあくらぶ」会長の肩書もあった。

○青 き 葉 の あ ま り に 青 し 水 中 花 

 昭和十年作。水中花と言えば水の中に閉じ込めた造花である。大人のおもちゃと呼ばれることもあり、ある種の空しさも抱える季語である。その葉が青い。もっと生きた葉のように作ればよかったものを、という意味合いか、あるいは造花だからこその現実離れした色を持っていてよろしい、ということか。どちらにせよ水中花への思いは、ただの花へ向けるものとは違う。造花のひたすらな青に注目する夢声。瓶がレンズになり花が大きくゆがんで見えるのが水中花であるが、読者は反対側の視点から、水中花を覗く夢声の顔を見つけることができる。瓶越しに大写しになる、その物憂げな顔が。

 この句は先掲の二句とは趣を異にする。純粋な芸術志向だ。もともと夢声は芸術志向の高い人間だった。自身を「文学老年」と称したりもしている。戦後の連載『問答有用』で、そうそうたる文士と渡り合ったのも、文学への憧憬と意識が根強くあったからだろう。こういう「俳句的な俳句」傾向の作品は、夢声の文学者意識のたまものであった。だから夢声俳句を見ていくと、夢声俳句とは「夢声らしい俳句」だけではないということがわかる。「焼跡で巴里の話草紅葉」など、見るべき作品は多い。

○幾 億 年 同 じ 読 経 や 法 師 蝉

 昭和三十八年作。長い長い自叙伝『夢声自伝』のあとがきの末尾に添えられたものだ。夢声は生涯に尋常ではない冊数の自叙伝を刊行した。『夢声半代記』(聚英閣出版)、『くらがり二十年』(アオイ書房)、『自傳夢聲漫筆』(早川書房・全三巻)、『あかるみ十五年』(世界社)、『放送話術二十七年』(白揚社)、『夢聲身上ばなし』(早川書房・全二巻)、『夢声自伝』(早川書房・全五巻)、『銭と共に老ひぬ』(新銭社・上下巻)など、内容の重複こそあれ、凄まじい。『銭と共に老ひぬ』は最晩年の経済に特化した回想録である。夢声の自叙伝の決定版はその前の『夢声自伝』だと見るのが良い。全五巻、普及した文庫版では大冊で全三巻となった。明治の幼年期から晩年の高度経済成長の頃まで事細かに記録したもので、おそらく夢声自身も渾身の編集だったろう。その末尾に掲げられた俳句――どれほどの思いだろう。わざわざ俳句を持ってきたところに夢声の俳句への態度が出ている。

 大きな切り取りである。感情的と言ってしまえばそれまでだが、蝉声に「億」という単位で思いをはせるのには思い切りが必要だっただろう。夢声は霊魂を信じていたりして独得の宇宙観を持っていたが、それが句に顕在化した。これが夢声俳句最後の特徴だと筆者は思う。「人類の亡びし後の虫の声」「この一打宇宙に消えず塩まねき」そして思えば句作最初期の「生者必滅院長患者蝉しぐれ」も実景を拒否する俳句だった。また、たとえば原爆投下直後の句「吾もまた原子に帰すや秋の風」を読めばわかるように、儚さもまた句風の一端である。何か無手勝流のようなところを感じる。そこが面白い。

 特権的キャラクター、ユーモア、芸術性、宇宙観。筆者は夢声俳句の柱をこの四つに定めてみた。凡作の山と呼ばれることも多い彼の俳句群だが、改めて俯瞰すると決してそうとは言い切れないと、この稿で示せただろうか。

 徳川夢声は紛れもない俳人である。その柱は現代の俳句実作者たちが生かすことのできる部分も多く含んでいる。俳人徳川夢声にますますの光が当たることを筆者は乞うのである。

〈謝辞〉
 夢声俳句の唯一の先行研究である『徳川夢聲百句』(自費出版/松岡ひでたか)からは多くの示唆を受けました。好意でこの御著書を譲って下さった松岡ひでたか様に感謝申し上げます。また松岡様をご紹介くださった夢声研究家の濵田研吾様にもお礼申し上げます。ありがとうございました。これからも夢声俳句の研究は続けていきます。

〈主な参考文献〉引用箇所についてはその都度示した。
・徳川夢聲百句(自費出版/松岡ひでたか/平成二十四年)
・夢声自伝(講談社文庫/徳川夢声/昭和五十三年)
 ほか徳川夢声の著書は多く参考にした。
 また以下の文献は貴重な夢声研究としてこの稿の土台となっている。
・徳川夢声とその時代(講談社/三國一朗/昭和六十一年)
・徳川夢声と出会った(晶文社/濵田研吾/平成十五年)
・夢声――戦後雑誌とメディアの寵児(京都造形美術大学卒業制作・論文集/濵田研吾/平成十年)