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「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」

2016年12月30日
 「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」 旭川東 三年 柳元佑太


 田中裕明は、岸本尚毅や櫂未知子、長谷川櫂や小澤實らと共に活躍した、いわゆる昭和三十年代俳人の一人である。一九五九年、大阪市生まれ。高校生のころ島田牙城に誘われ「青」に入会し、波多野爽波の選を受け、京都大学在学中に、史上最年少二十二歳で角川賞を獲る。二〇〇四年の十二月三十日、骨髄性白血病による肺炎で、四十五歳という若さで逝去した。(『セレクション俳人 田中裕明集』収録「田中裕明略歴」/二刷 を参照) 

 裕明には、句柄の転換期があると評されることがあり、岸本尚毅の「句集解題・それぞれの句集について」(『田中裕明全句集』) でも前期と後期に分けて語られている。前期は、第一句集『山信』第二句集『花間一壺』第三句集『桜姫譚』の、二十代から三十にかけて。後期は、第四句集『先生から手紙』、死後に刊行された第五句集『夜の客人』の、三十から四十代にかけての、晩年と呼べるような時期にあたる。前期は、豊富な型と凝ったレトリック、後期は、平明かつ明るい詩情によって特徴づけられるように思う。

 ぼくは、前期と後期どちらが好きかと問われると、結構困ってしまう。ミーハーめいたことをいうと、前期も後期も好きなのだ。ただ、おそらくぼくは、前期と後期の句をそれぞれ異なるやり方で面白がっているのではなくて、裕明の句のなかに一貫して流れている何かを好んでいるゆえ、前期の句も、後期の句も好きなのだと思う。裕明評にはこれからも何度も挑戦するつもりなので、一貫して流れる何かについては、少しずつその水脈を辿っていきたい。

 まず今回はその序章として、『セレクション俳人 田中裕明集』から第二句集『花間一壺』を鑑賞してみる。『花間一壺』は、牧羊社から一九八五年に刊行された句集で、裕明の二十一歳から二十五歳の時期にあたる。角川賞を獲った「童子の夢」五十句からも、〈春昼の壺盗人の酔ふてゐる〉〈あゆみきし涅槃の雪のくらさかな〉などの十一句が収録されている句集でもある。

 『花間一壺』には、平面で澄んだ詩情といった後期の裕明の句の文脈では掬い取れない面白さがあるので、本論ではそこを掘り下げて見ていきたい。

 裕明は取り合わせを中心に語られることが多い。『花間一壺』にも、惚れ惚れするような取合わせの句がいくつもある。

天道蟲宵の電車の明るくて

桐一葉入江かはらず寺はなく

雪舟は多くのこらず秋螢

夏やなぎ湯を出て肩の匂ひけり

鋭きものを恐るる病ひ更衣

 どれもぼくの愛唱句だ。一句目には、明るい〈宵の電車〉と取合わせられた、〈天道虫〉の生活感のある儚さがあるし、二句目には、緩やかで無常な空間がある。三句目は長い時間を経た〈雪舟〉と〈秋螢〉が時間をはるけきものにする。どの句も裕明の代表句といって良いはずだ。

 ただ、これらは『花間一壺』のなかでは割に平明で、語りやすい句だ。そして、平明ではなく、語りにくい句が、『花間一壺』にはたくさん見受けられる。むしろ『花間一壺』を特徴づけるのは、そのような句であるようにも思うのだ。

 それらを鑑賞するために、今回は取合わせではなく、裕明の独特な助詞に注目してみたい。裕明の助詞のなにが独特なのかというと、一句を文法的に切らない助詞を、積極的に選ぶという点である。

 『セレクション俳人 田中裕明集』収録の、小澤實による「平安の壺」と銘打つ『花間一壺』評のなかでも、〈ぐだくだと一行が続いていく。すっきりしない。短歌的な印象がある。〉とやや否定的な側面から、そのことについて触れられている。小澤が引用している句を引いてみる。

この旅も半ばは雨の夏雲雀

 たしかにこの句はある種、短歌的だという指摘を受け付ける。それはおそらく、中七の最後の助詞「の」に起因する。

 旅の最中、雨が降り出してきた。振り返れば前回の旅も雨だったはずで、またしても旅の半ばは雨だ。そんな思いを抱いたとき、どこからか夏雲雀の声が聞こえる、あるいは夏雲雀が横切った——句意はこれくらいだろう。この句意を鑑みるに、措辞と〈夏雲雀〉との取り合わせであるから、中七に意味としての断絶を持つはずであり、前述の指摘を避けるには〈この旅も半ばは雨よ夏雲雀〉とでもすればよいはずである。

 しかしながら裕明はここを「の」で繋ぐ。ぼくには、これが成功しているか失敗しているかは分からないけれど、少なくとも短歌的だ、などとして簡単に失敗と言い切ってはいけない何かがあることも、同時に思う。短歌的であるというのはあくまでも副次的なものであり、裕明にとってのメインパーパス、意図したところはこれではなかったように思うのである。

 ではその意図するところはなんであったのかというと、それは非常に言語化しづらくて、ひとまずぼくが考え得るところを記す。

 この助詞「の」は、文法により、断絶されるべき二者のスキマティックな結びつきを強めることで、二者があたかも意味上の断絶を乗り越えて、意味としてすら結びついているような感覚を生み出しているのではないだろうか。(以後、語彙と文法により理解される句の意味を「本来的な句意」、文法による裏打ちしか持たないスキマティックな句の意味を「文法的な句意」と呼ぶ)

 抽象的になってしまったので、この句において換言してみる。〈この旅も半ばは雨〉と〈夏雲雀〉は、意味の上では断絶を持つはずの取り合わせであるにも関わらず、その二者が切れを挟んで対等な関係として並置されないように、助詞「の」で繋がれる。「文法的な句意」の獲得により、二者が意味とは別の空間——文法の空間——で、相互に関わり合う。それにより、〈この旅は半ばは雨の〉というイメージを引き受けた〈夏雲雀〉が「本来的な句意」の裏側、意味で回収しきれないねじれの位置に潜むことになるのである。

 おそらくぼくたちのプリミティブな読みにおいて、「本来的な句意」と「文法的な句意」は、互いを排斥する関係にはない。もちろん最後は「本来的な句意」に「文法的な句意」は回収されると思うのだけれど、その回収された分の情報が、「本来的な句意」に言語化されない詩情として、影響を及ぼすのではないか。あるいは、それが「本来的な句意」によって回収されないことによって、「本来的な句意」を回収したにも関わらず、まだ句がなんらかの詩情を含有しているような感覚が生じるのではないか。上五中七のイメージを多分に受け止めた〈夏雲雀〉の淡い明るさが、ぼくは好きなのである。
 このような使い方の助詞が現れている句は『花間一壺』において、他にもある。

いちにちをあるきどほしの初櫻

 〈いちにちをあるきどほし〉という措辞と〈初櫻〉が並置される関係を超えて結びつく。〈いちにちをあるきどほし〉である主体は〈わたし〉であるにも関わらず、文法的に主体になり得る可能性を秘めた〈初櫻〉がこの句においては主体のように振る舞う。この時、一瞬ぼくたちは歩きどおしで疲れのある〈わたし〉の身体と、春先でまだ冷たい幹を持てる〈初櫻〉が重なるような身体感覚を引き受ける。

 裕明特有の助詞「の」の使用法は、〈意味における切れ〉と〈文法における切れ〉をずらすことにより、単純明快な二者の振幅の構造により理解されることを拒む。意味でないところで二者の結びつけを強め、多層的な質感を演出するのだ。

 そういえば昔、祖父母の家に行くと、なぜだか分からないけれど、大量のセロファン紙があった。赤、青、黄、緑。どれも半透明で、何色重ねてもぼやっと向こう側のひかりが見える。小さい頃のぼくは、そのひかりにドキドキした。

 裕明の助詞「の」は、これに似ていると思う。その向こうからやってくるひかりを遮らずに、様々なイメージを幾重にも重ね合わせ、詩情に重層性を持たせるのである。

思ひ出せぬ川のなまへに藻刈舟

さだまらぬ旅のゆくへに盆の波

 また、助詞「に」も、独特の使い方がされている。「に」で繋がれている二者も、一般的には取合わせとして書くべき内容であるはずのものなのである。一句目と二句目ともに、中七で切れを伴うのが普通だ。しかしながら裕明は、これも緩やかに助詞を用いて繋いでゆく。

 このように使われる助詞「に」は〈概念を場所化する〉とでも言おうか。句において具体的に換言してみる。

 一句目、〈思ひ出せぬ川のなまへ〉というわたし的な概念を「に」によって場所化し、水がたゆたうぼんやりとした空間として立ち上げる。そしてこれにより〈藻刈舟〉が浮かぶことができる空間を確保する。意味としては概念を書いているにも関わらず、テクニカルな助詞により、〈川に舟が浮かんでいる〉という景を具象的に喚起するという、非常に技巧的なことが起きている。

 二句目もそうだ。〈さだまらぬ旅のゆくへ〉という概念を、助詞「に」によって、さもそれが物質的な空間であるかのように立ち上げる。そしてそこには〈盆の波〉が寄せては引いていく。裕明の助詞「に」は、概念のなかに現実を引き入れ、概念を現実と同じ段階のように見せるのだ。

探梅やここも人住むぬくさにて

午後もまた山影あはし幟の日

この旅も半ばは雨の夏雲雀

月もまた七種いろに出でしかな

山茱萸の道も三日を経にけるや

柳散る夜もうるはし上京は

まひるまも倉橋山の枇杷の花

影もまたひとり酔へるか春の月

 今度は、『花間一壺』において助詞「も」が見られる句を引いてみた。この句数を見ればわかる通り、助詞「も」を含む型は、とりわけ裕明が好んで使うものの一つだ。そういえば第一句集『山信』に収められている初期の代表句〈大学も葵祭のきのふけふ〉にも、この助詞が見られる。そう言った意味で助詞「も」は、裕明の志向がよく表出しているものなのではないかと思う。

 二句目。〈午後もまた〉という措辞の前提にあるのは、「午後以外の時間」だ。ぼくたちがこの句に時間の流れを感じるのは、ひとえにこの助詞の効果である。

 七句目〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉もそうだ。〈まひるまも〉の措辞の背景にある淡さは〈まひるま以外の時間〉によって裏打ちされている。〈倉橋山〉という固有名詞のゆかしさや閉鎖性も相まって、現実から乖離した永遠性の明るさが、そこに現れる。

 しかしながら、助詞「も」は写生という概念と相性が悪い。眼前にあるものを言葉で写し取ろうとするとき、写し取ろうとする対象とは別のものの存在を添加する「も」は、写生にとっては過分な情報であるからだ。

 写生の理論の反対を向いているという点では、助詞「の」、助詞「に」の使い方にもこれは通じるだろう。

 なぜ裕明はこのような助詞を使うのか。

 それは、裕明が写生よりも詩情を優先する俳人であったからである。ゆえに、写生の考えが制限をかけるテリトリーを侵してでも、技巧的な手段を用いて詩情を生み出そうとする。

 晩年に創刊、主宰した「ゆう」の創刊の言葉には、「写生と季語の本意を基本に詩情を大切にする」とある。ぼくには、これは詩情を「主」とし、写生を「従」とする、という宣言にすら聞こえる。前期、後期ともに、なによりも詩情を重んじるという姿勢を裕明は貫いているのだ。

 その意識が、前期においては、複雑な助詞——写生でなく詩情を重視した結果——として、現れているのではないか。輪郭をくっきりと描きとるのではなく、ぼんやりとした水彩画のような滲みを生む助詞こそ、裕明が詩情を描き出すための方法、レパートリーのひとつだったのである。

 といっても、この詩情というのは先に挙げた〈天道虫宵の電車の明るくて〉〈桐一葉入江かはらず寺はなく〉とは、やはり異なる手触りを持つ。〈この度も半ばは雨の夏雲雀〉〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉にはもっとなにか言語的な、抽象的ななにかを感じるのである。

 それは、これまで示してきたように、一句が、助詞や難しい切れという「言語的な装置」を備えているから、というのが一つの理由であろう。そして、その「言語的な装置」は、個人の体験としての〈その夏雲雀〉ではなくて、歴史の中で言葉が引き受けてきた、体系としてのイメージの〈夏雲雀〉へと、ぼくたちを誘う。そこは、体験を媒介として必要としない、直接的な言語イメージの世界なのである。

 そしてそのような読まれ方を、おそらく裕明は了解済みだ。そのうえで、どのように良質な詩情を醸し出すことが出来るか、ということが、『花間一壺』における裕明の一つの挑戦であったように思える。
 
(あとがき)
 高校二年の夏、第十八回松山俳句甲子園で森賀まりさんとご縁があり、そして『セレクション俳人 田中裕明集』に出会った。白状すると、裕明の句の魅力はその頃、全然わからなかった。(今も分かっているかはだいぶ怪しいけれど) ただ、気になった句には印を付けながら読むことにしているので、そのときぼくが裕明のどんな句を喜んでいたかはわかる。

 そして今、その頃と俳句観がかなり変わったなかで、裕明の句集を再び読み直している。しかしながら、現在ぼくが好きな裕明の句の一つに、あのころのぼくはきちんと印をつけていて、ちょっと不思議な気持ちになった。

野分雲悼みてことばうつくしく

 死を悼めば、そのことばがうつくしい、というのは、あるいは抒情過多かもしれない。でも、これはぼくの中で一生大切にされる句であるような予感がとても、する。

 この感覚を信じることができるから、ぼくは俳句を書いてこれたし、これからもたぶん書ける。今回の論はかなり理屈っぽかったが、結局のところ、俳句をやっていけるかどうかは、このように思える句を、どれほど心の中に持てるかだと思う。そして、そのように思える句に高校生のうちに出会えたことを、本当に嬉しく思う。そういった意味で、俳句甲子園がぼくに俳句の入り口を開いてくれたことを感謝しなければならない。

 ついでなので、ちょっとだけ俳句甲子園について書くと、「俳句甲子園が俳句の全てじゃない」ということを俳句甲子園自体が教えてくれる存在であったおかげで、ぼくはちょっとだけ人より多く成長できた気がする。俳句甲子園を終えたぼくには、俳句が残った。俳句甲子園は良い場所だなと思う。

 話を戻そう。裕明の句は、飴玉が溶け出すように、少しずつ素敵なところに気づける。そんなところも、好きだ。それはぼくが単に鈍感なだけなのかもしれないけれど。

 ただ、だいぶ前に舐めたその飴玉は、今もまだ、ぼくの口の中にある。全然舐め終わらないうえに、そもそも何の味なのか、舐めている今も実はよくわかっていない。困った。

*句は正字表記ですが、都合により一部新字としています。

(参考文献)
『セレクション俳人 田中裕明集』 邑書林/二〇〇三 
『田中裕明全句集』 ふらんす堂/二〇〇七


高校生らしさを考える

2016年03月18日
「高校生らしさ」について思うこと (柳元佑太)

「高校生らしさ」という言葉は、反感を憶えていた言葉のひとつだった。
とまあ、過去形であるのは、既に自分の中で折り合いの付いている言葉であるからだ。ようするにそんなことを気にしなければ良いのだ。ぼくは書きたいものを書く。
けれども「高校生らしさ」という言葉自体に、そのままにしておけないあやふやさは未だに感じている。それに、「高校生らしさ」について高校生が語るという、青臭い面白さを見過ごすことはできない。どうせ高校生のときにしか当事者問題とならないのだし、少し書いてみようと思う。北国の高校生の独り言くらいに思ってほしい。

まず、ぼくは「高校生らしい良さ」というのは、誰がなんと言おうと存在すると思っている。
俳句甲子園の入賞句や、これまでの高校生を対象にしたコンテストの大賞句なんかを引けば、理屈なしに分かるはずだ。

○キャンバスに赤といふ意思秋澄みぬ (川村貴子)

これは二千十四年の神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀句だ。キャンバスには赤。それは意思であり、キャンバスに対峙する強さだ。澄みぬ、という一瞬の把握、素敵だ。

○号砲や飛び出す一塊の日焼 (兵頭輝)

これは第十八回の俳句甲子園の最優秀句。号砲が鳴り、めいっぱい飛び出していく日焼けした身体。そのほんのコンマ何秒。一塊の日焼、なんて把握も省略と客体化が効いていて気持ち良い。

○向日葵が全校生徒より多い (山下真)

これも第十八回俳句甲子園より。散文的であることがなにかしらの切実さを生み、詩性を打ち出す。言葉に無理をさせない作りながら、隙がない。

三句しか引かなかったが、きっと十分すぎるだろう。そこには彼らの実感があって、青春の息遣いのようなものが確かにある。確かで伸びやかな感覚がびったり定型に嵌ったときの強さなんかには本当にため息をつきたくなる。こんな句作れるものなら作ってみたい。
そしてこの場合の「高校生らしさ」というのは、そのときにしかない瞬間性や実感、すなわち得難いリアリティ——それに読む側の、青春という切なさを求める気持ちを少し投影したもの——なんて言い換えることが出来るんじゃないだろうか。

しかしである。
この意味の「高校生らしさ」というのは一つの属性でしかないはずだ。当たり前だけれど、俳句を評価する観点のひとつ、たとえば「丁寧な写生だね」だとか「うおお、すごい二物衝撃だ」だとか「ふふふ、これは俳諧性があるなぁ」だとかと同じものではないだろうか。つまり必ずしも全てを満たす必要はなく (写生と二物衝撃なんて両立しないだろうし) 、その中の幾つかを満たすことで句としての魅力を獲得する。「高校生らしさ」ということも句を構成する一つの魅力ではあるが、句の魅力を構成する全てではない。必ずしも必要な条件ではないのである。
よって、その要素を持つ句に対して高校生らしさという観点を鑑賞することは出来ても、すべての句に高校生らしさを求めることは出来ないのではないかなぁと思っている。
語気に覇気がないのは、背景に複雑な問題がある気がしているからで、それは作者を作品に反映させるかどうか、つまり俳句に十七音以外の要素を認めるかどうかということだ。たとえば子規の絶筆三句はそのままでも面白いけれど、でも子規に関する背景を知っている方が絶対に分かりがよい。このことには、書くべきことを持つ世代と持たない世代の意識差なんかも絡むと思うのだけれど、手に負えないのでここでは割愛しようと思う。
とりあえずぼくは一句はその十七音で完結するべきだと思っているので、十七音以外の要素がそれに干渉する形で魅力を求められても、簡単には諾えない。それに、周りを見てみれば素敵な高校生らしい俳句が、今この一瞬に切実さを覚えないくらいにはたくさんある。高校生からすればそれは結構重要で、高校生らしさがあるというだけでは高校生のなかではアイデンディティたり得ないと思うのだ。

高校生が対象の俳句賞は、おそらく「高校生らしさ」がキーワードなのは言うまでもない。「高校生らしさ」についてあれこれネガティヴなニュアンスの発言をしてきた訳だけれど、でもぼくはそれをどうしてほしいというわけではないし、むしろそれはそのままで良いんじゃないかと思う。
高校生らしさは、ぼくらの砦だ。
書きたいことがあるのに技巧が追いついていかない、高校生の俳句はそんな句がきっと、多い。そんな句を掬いあげてくれるのが「高校生らしさ」でもあるんじゃないだろうか。そうして掬いあげて貰うことで「俳句って楽しいな、勉強してみよう」くらいに思う人がいるならば、それは十分すぎるほど価値がある。
そして、ぼくたちは気づく。いずれその砦を出なければならない。しかもその砦は時が流れるにつれ、自然とぼくたちの周りから消えてしまう。そして砦の外では、内容をより面白く伝えるためのそれ相応の技巧が必要だ。十の面白さを伝える適切な技巧が十だとするならば、八でも十二でもない技巧を身につけることがきっと、必要になる。
気づけばもう高三になる。振り返れば、砦の中では書きたいものがあまり見つからなかったので、そろそろ砦を出る準備を始めようかな、なんて、思ひゐし。

旭東文芸部ジャンケン最弱王決定戦(?)

2016年03月13日
先日、部誌『月』の製本作業中に、「旭東文芸部ジャンケン最弱王決定戦」を行いました(……とは言っても部員6人中4人しかいなかったのですが)。最弱王は即興で作句し発表、という部長の思いつきにより、1年生の堤の句を発表致します。字題は部誌名にちなんで「月」です。

病院の天井は白春の月 (1年 堤)

近いうちに部員全員でもう一度行いたいものです。短歌発表でも楽しいかもしれませんね。

新しいワンピース/紫隈亮介

2015年12月30日
かおりちゃんは こう言うの

新しいワンピース かならず最初は学校よ
いっぱい人が いるんだもの

考えるのよ
まっさきに 誰がほめてくれるのかしら
向かいのゆきちゃん
後ろのふみちゃん
隣のクラスのまことくん

考えるのよ
まっさきに 何をほめてくれるのかしら
襟のリボン
ピンクのボタン
裾のふんわり白レース

みんな見てるわ 私のことを
ちょうちょのような 私のことを

みんながほめてくれるから
かならず最初は学校なのよ


そこでわたしは こう言うの

新しいワンピース かならず最初はお家なの
だあれも人が いないんだもの

訊いてみるのよ
パパとママ わたしにこれがにあうのかしら
おおきくない目
まんまるなかお
すらっとしてない手と足に

訊いてみるのよ
パパとママ おかしいところはないかしら
リボンのほつれ
ボタンのはずれ
白いレースのしみなんか

みんな見るのよ 私のことを
あひるのような 私のことを

かわいいよって言われたら
それからやっとお外に出るの

堤×藤田(恋の句対談)

2015年12月30日
部内対談企画です。今回は一年生の堤葉月と二年生の藤田そらです。


(藤)はい、では今回の対談は「恋の句」ということで、えーと…メンバーがメンバーですね…!(意味深)(編者注:堤、藤田は互いにドロドロした恋愛観を持ち合わせています)
(堤)そうですねw どんな対談になるか…暴走(意味深)しないように気をつけていきたいと思います!
(藤)それでは、まず私の鑑賞したい句から入らせていただいてよろしいですかな…?
(堤)はい、大丈夫です!

(藤)逢ふことも過失のひとつ薄暑光 大高翔(『キリトリセン』より)
(堤)?!(どうしよう、被ったっ…!)
(藤)あらら、すごい偶然
(堤)こんなこと、あるんですね……(震え)
(藤)ではさっき言ってた他の候補から出すかな~(編者注:同じ句を選んでしまう可能性を考慮して2句選んでおこうという話をしていました)
(堤)お、お願いします……

(藤)恋ふたつレモンはうまく切れません 松本恭子(『檸檬の街で』より)
(編者注:後に判明したのですが、堤はこの句も対談候補に入れていたそうです。句集を指定していなかったのにも関わらず2句ともかぶってしまうという偶然……)
どういう景というか、うん、どんな句だと思いました?

(堤)初恋の相手と両片想いだったのを数年越しに知って、でも今はお互い違う相手がいて、なんだか悔しいようなやるせないような……っていう景なのかなって思いました。
(藤)なるほど。自分は、(初恋は普通ひとつだけれども)同時にふたりに初恋をしてしまって、どっちも好きだし初恋だし割り切れない…みたいな景を想像しました。なんていうか概念多めだから読む人によって結構異なりますよね…。ただ(言葉同士が近いとしても)レモンと恋→初恋は想像してしまいますよね
(堤)そうですね。よく「初恋はレモンの味」とも言いますしね~
(藤)そして「春は恋の季節」とか言うのにレモンは秋の季語という
(堤)そう、レモンは秋の季語なんですよね。初恋で酸っぱくて秋って、なんというかそれだけでこの恋は叶わなかったのかなって思ってしまったんですが、先輩はこの恋、どうなったと思いますか?
(藤)一兎を追うものは二兎を得ず……嗚呼…手に入れたかった訳ではないのにね……、と言っても恋は常にどこかで求めているものだけれども。レモンが染みる……
(堤)彼女(でいいのかな)は本当にどっちも好きだったんでしょうね……凄くつらみを感じます……そう考えるとレモンの酸っぱさ、痛そうですね
(藤)また堤さんの考えた景だと、自分と相手で(ひとつになれるはずだったけれども)ふたつの恋で終わってしまった…という後悔というか甘酸っぱい思い出というか…みたいな感じですかね…それもそれで痛い…
(堤)どのみち痛い……レモンもう少し酸っぱさ抑えてあげてっ…!
(藤)なんとなく思ったことは、今恋をしているのか昔の恋の回想なのか、レモンは実際にあるのか比喩なのか(取り合わせだとは思うのだけれど一応)、それと、レモンを切った後なのか切ろうとしている時なのか(「レモンってうまく切れないものなんだよね」と切る前に思っているのか、ということ)。レモンは実物があるのかな~と思っているのだけれど
(堤)私の解釈だと、昔の恋の回想で、レモンは実際目の前にあって切ろうとしている、ですかね……
(藤)なるほど。自分は、現在の恋でレモンを切る前だと思いました。今ふたりを好きだけれども、レモンはうまく(半分に)切れないもので…みたいな
(堤)レモンってうまく切れないんですかね……(レモンを切らないからわからない)私はレモンは切りやすい部類だと思っているので、過去の恋でレモンは進行形で切っているのだと思いました。両片想いだったって知らなければすっぱり忘れられたのに変に知っちゃったからうぐぅ……あの時勇気を出していれば……とか後悔しちゃって、いつもならうまく切れるレモンも今はうまく切れない、みたいな。人間欲深い生き物ですから、一度知ってしまったらどんなに切りたくても切れないもの、沢山ありそうじゃないですか
(藤)深いですね…。……時間も時間だし次の句いきますか…?(ぶった切り)さっきの薄暑光の句で……

(堤)そうですね、じゃあ改めて
逢ふことも過失のひとつ薄暑光 大高翔(『キリトリセン』より)
ど、どちらからいきますか……?

(藤)うーんと、では私から。まず季語の「薄暑」は、初夏の少し暑さを覚えるくらいになった気候、だから「薄暑光」は若葉が青葉に変わるときくらいの木漏れ日の強さくらいの日差しかなあ、と。なんだか希望に満ちてくる。君に逢って恋煩いなんかしてるのもひとつの間違いだったのかもしれないけれども、嫌いじゃないよこの気持ち。みたいな感じですかね…。痛々しいポエムのようになってしまった…
(堤)あっ、明るい感じだ!!! 「薄暑光」、私は「薄暑」からじりじりと確実に焼いてくる感じの日差しかな、と。そこから「浮気かな……」って思いました
(藤)なるほど、生活上過失浮気罪(適当)
(堤)生活上過失浮気罪、ありそう。初夏っていうこれから夏に向かっていくっていう明るさと浮気っていう後ろめたい恋の対比で、隠しきれていると思いたいけれど、心のどこかでもうバレ始めていることに気が付いていて、その上薄暑光がサーチライト的な感じで暴きにかかってくる、みたいな……お天道様はなんでもお見通しなんだよって、怖いですね……
(藤)「逢ふ」は「出逢う」に近い意味でどっちも解釈していますね。それが単なる恋なのか浮気なのか、つまり既に相手がいるかいないかが異なるということで…
(堤)そうですね。「逢ふ」はやはりそのイメージが強いと思います。あと私はこの字だと運命って言葉も後ろにちょこちょこついてくる感じがあります……何故……
(藤)ほんとにそれ。運命感じますよねその字。「出逢ったことも過失のひとつであり運命のひとつなんだ」って感じがしますよね。なぜか「出逢う」ではなく「出逢った」と過去形にしたくなるのもきっと「逢」の漢字の運命感のせい…
(堤)この運命感が上五中七を「逢うことさえも間違っているってわかっているけれど、それでも逢わずにはいられない」というふうに捉えさせるのかなあ……
(藤)何となくだけれども、この句の主人公は逢う相手に一目惚れしてそう。なにかの間違いで出逢ってしまった…みたいな。出逢ってはいけないふたりが出逢ってしまった…って話はよくありますね
(堤)もう少しタイミングが早ければ幸せになれたかもしれなかったふたりだったのに、もう遅い……みたいな。出逢ってはいけなかったのは何故なのか、ってところに想像が膨らみますねっ…!
(藤)前世で心中したからかもしれない。神様か仏様か誰かの「悪戯」なのか「過失」なのかでも異なってきますよね
(堤)前世で心中したんだとしたら「悪戯」かもしれない
(藤)前世で殺しあった相手と兄弟になるとか言うから、前世で心中した相手、特に「来世で一緒になろうね」なんて言っていた相手とは出逢ってはいけなさそう
(堤)でも結局何かの手違いで出逢ってしまってまた同じことを繰り返す、なんていう無限ループの可能性を考えてみる
(藤)無限ループ、大好き。そもそも「過失」をプラスと取るかマイナスと取るかで大分句の雰囲気が変わってきますし
(堤)「来世では一緒になろうね」は呪いっぽいところありません? 私の中での「過失」はプラスマイナスの間を揺れているイメージですね。葛藤、みたいな
(藤)「嬉しい偶然」を嫌味っぽくというか僻んで「過失」なんて言ってしまった、という何となく可愛い人なのかもしれないし
(堤)素直に嬉しいって言えない、ツンデレ……? まさかのwwwww
(藤)うー、収拾つかなくなってきました! そろそろお開きにしましょうか!(ぶった切り)
(堤)そうですね、これ以上やるともっと収拾がつかなくなりそう
(藤)この2句は想像が広がる分、読み手によって景が様々になってくるから…えっと、小説にでもしましょう!
(堤)小説にしてしまう! その発想はなかった!!!!
(藤)それなら思う存分アワーワールズを表現できるのでは!(何となく)
(堤)名案っ…!!!!! どちらの句で書いても普通に一つの作品できますね!(どれだけ書く気)
(藤)……ということで、今日は楽しかったです! ありがとうございました!!(流れを読むのが下手)
(堤)私も楽しかったです!! ありがとうございました!!(流れとか読めない)


以上で終了となります。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。

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