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「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」

2016年12月30日
 「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」 旭川東 三年 柳元佑太


 田中裕明は、岸本尚毅や櫂未知子、長谷川櫂や小澤實らと共に活躍した、いわゆる昭和三十年代俳人の一人である。一九五九年、大阪市生まれ。高校生のころ島田牙城に誘われ「青」に入会し、波多野爽波の選を受け、京都大学在学中に、史上最年少二十二歳で角川賞を獲る。二〇〇四年の十二月三十日、骨髄性白血病による肺炎で、四十五歳という若さで逝去した。(『セレクション俳人 田中裕明集』収録「田中裕明略歴」/二刷 を参照) 

 裕明には、句柄の転換期があると評されることがあり、岸本尚毅の「句集解題・それぞれの句集について」(『田中裕明全句集』) でも前期と後期に分けて語られている。前期は、第一句集『山信』第二句集『花間一壺』第三句集『桜姫譚』の、二十代から三十にかけて。後期は、第四句集『先生から手紙』、死後に刊行された第五句集『夜の客人』の、三十から四十代にかけての、晩年と呼べるような時期にあたる。前期は、豊富な型と凝ったレトリック、後期は、平明かつ明るい詩情によって特徴づけられるように思う。

 ぼくは、前期と後期どちらが好きかと問われると、結構困ってしまう。ミーハーめいたことをいうと、前期も後期も好きなのだ。ただ、おそらくぼくは、前期と後期の句をそれぞれ異なるやり方で面白がっているのではなくて、裕明の句のなかに一貫して流れている何かを好んでいるゆえ、前期の句も、後期の句も好きなのだと思う。裕明評にはこれからも何度も挑戦するつもりなので、一貫して流れる何かについては、少しずつその水脈を辿っていきたい。

 まず今回はその序章として、『セレクション俳人 田中裕明集』から第二句集『花間一壺』を鑑賞してみる。『花間一壺』は、牧羊社から一九八五年に刊行された句集で、裕明の二十一歳から二十五歳の時期にあたる。角川賞を獲った「童子の夢」五十句からも、〈春昼の壺盗人の酔ふてゐる〉〈あゆみきし涅槃の雪のくらさかな〉などの十一句が収録されている句集でもある。

 『花間一壺』には、平面で澄んだ詩情といった後期の裕明の句の文脈では掬い取れない面白さがあるので、本論ではそこを掘り下げて見ていきたい。

 裕明は取り合わせを中心に語られることが多い。『花間一壺』にも、惚れ惚れするような取合わせの句がいくつもある。

天道蟲宵の電車の明るくて

桐一葉入江かはらず寺はなく

雪舟は多くのこらず秋螢

夏やなぎ湯を出て肩の匂ひけり

鋭きものを恐るる病ひ更衣

 どれもぼくの愛唱句だ。一句目には、明るい〈宵の電車〉と取合わせられた、〈天道虫〉の生活感のある儚さがあるし、二句目には、緩やかで無常な空間がある。三句目は長い時間を経た〈雪舟〉と〈秋螢〉が時間をはるけきものにする。どの句も裕明の代表句といって良いはずだ。

 ただ、これらは『花間一壺』のなかでは割に平明で、語りやすい句だ。そして、平明ではなく、語りにくい句が、『花間一壺』にはたくさん見受けられる。むしろ『花間一壺』を特徴づけるのは、そのような句であるようにも思うのだ。

 それらを鑑賞するために、今回は取合わせではなく、裕明の独特な助詞に注目してみたい。裕明の助詞のなにが独特なのかというと、一句を文法的に切らない助詞を、積極的に選ぶという点である。

 『セレクション俳人 田中裕明集』収録の、小澤實による「平安の壺」と銘打つ『花間一壺』評のなかでも、〈ぐだくだと一行が続いていく。すっきりしない。短歌的な印象がある。〉とやや否定的な側面から、そのことについて触れられている。小澤が引用している句を引いてみる。

この旅も半ばは雨の夏雲雀

 たしかにこの句はある種、短歌的だという指摘を受け付ける。それはおそらく、中七の最後の助詞「の」に起因する。

 旅の最中、雨が降り出してきた。振り返れば前回の旅も雨だったはずで、またしても旅の半ばは雨だ。そんな思いを抱いたとき、どこからか夏雲雀の声が聞こえる、あるいは夏雲雀が横切った——句意はこれくらいだろう。この句意を鑑みるに、措辞と〈夏雲雀〉との取り合わせであるから、中七に意味としての断絶を持つはずであり、前述の指摘を避けるには〈この旅も半ばは雨よ夏雲雀〉とでもすればよいはずである。

 しかしながら裕明はここを「の」で繋ぐ。ぼくには、これが成功しているか失敗しているかは分からないけれど、少なくとも短歌的だ、などとして簡単に失敗と言い切ってはいけない何かがあることも、同時に思う。短歌的であるというのはあくまでも副次的なものであり、裕明にとってのメインパーパス、意図したところはこれではなかったように思うのである。

 ではその意図するところはなんであったのかというと、それは非常に言語化しづらくて、ひとまずぼくが考え得るところを記す。

 この助詞「の」は、文法により、断絶されるべき二者のスキマティックな結びつきを強めることで、二者があたかも意味上の断絶を乗り越えて、意味としてすら結びついているような感覚を生み出しているのではないだろうか。(以後、語彙と文法により理解される句の意味を「本来的な句意」、文法による裏打ちしか持たないスキマティックな句の意味を「文法的な句意」と呼ぶ)

 抽象的になってしまったので、この句において換言してみる。〈この旅も半ばは雨〉と〈夏雲雀〉は、意味の上では断絶を持つはずの取り合わせであるにも関わらず、その二者が切れを挟んで対等な関係として並置されないように、助詞「の」で繋がれる。「文法的な句意」の獲得により、二者が意味とは別の空間——文法の空間——で、相互に関わり合う。それにより、〈この旅は半ばは雨の〉というイメージを引き受けた〈夏雲雀〉が「本来的な句意」の裏側、意味で回収しきれないねじれの位置に潜むことになるのである。

 おそらくぼくたちのプリミティブな読みにおいて、「本来的な句意」と「文法的な句意」は、互いを排斥する関係にはない。もちろん最後は「本来的な句意」に「文法的な句意」は回収されると思うのだけれど、その回収された分の情報が、「本来的な句意」に言語化されない詩情として、影響を及ぼすのではないか。あるいは、それが「本来的な句意」によって回収されないことによって、「本来的な句意」を回収したにも関わらず、まだ句がなんらかの詩情を含有しているような感覚が生じるのではないか。上五中七のイメージを多分に受け止めた〈夏雲雀〉の淡い明るさが、ぼくは好きなのである。
 このような使い方の助詞が現れている句は『花間一壺』において、他にもある。

いちにちをあるきどほしの初櫻

 〈いちにちをあるきどほし〉という措辞と〈初櫻〉が並置される関係を超えて結びつく。〈いちにちをあるきどほし〉である主体は〈わたし〉であるにも関わらず、文法的に主体になり得る可能性を秘めた〈初櫻〉がこの句においては主体のように振る舞う。この時、一瞬ぼくたちは歩きどおしで疲れのある〈わたし〉の身体と、春先でまだ冷たい幹を持てる〈初櫻〉が重なるような身体感覚を引き受ける。

 裕明特有の助詞「の」の使用法は、〈意味における切れ〉と〈文法における切れ〉をずらすことにより、単純明快な二者の振幅の構造により理解されることを拒む。意味でないところで二者の結びつけを強め、多層的な質感を演出するのだ。

 そういえば昔、祖父母の家に行くと、なぜだか分からないけれど、大量のセロファン紙があった。赤、青、黄、緑。どれも半透明で、何色重ねてもぼやっと向こう側のひかりが見える。小さい頃のぼくは、そのひかりにドキドキした。

 裕明の助詞「の」は、これに似ていると思う。その向こうからやってくるひかりを遮らずに、様々なイメージを幾重にも重ね合わせ、詩情に重層性を持たせるのである。

思ひ出せぬ川のなまへに藻刈舟

さだまらぬ旅のゆくへに盆の波

 また、助詞「に」も、独特の使い方がされている。「に」で繋がれている二者も、一般的には取合わせとして書くべき内容であるはずのものなのである。一句目と二句目ともに、中七で切れを伴うのが普通だ。しかしながら裕明は、これも緩やかに助詞を用いて繋いでゆく。

 このように使われる助詞「に」は〈概念を場所化する〉とでも言おうか。句において具体的に換言してみる。

 一句目、〈思ひ出せぬ川のなまへ〉というわたし的な概念を「に」によって場所化し、水がたゆたうぼんやりとした空間として立ち上げる。そしてこれにより〈藻刈舟〉が浮かぶことができる空間を確保する。意味としては概念を書いているにも関わらず、テクニカルな助詞により、〈川に舟が浮かんでいる〉という景を具象的に喚起するという、非常に技巧的なことが起きている。

 二句目もそうだ。〈さだまらぬ旅のゆくへ〉という概念を、助詞「に」によって、さもそれが物質的な空間であるかのように立ち上げる。そしてそこには〈盆の波〉が寄せては引いていく。裕明の助詞「に」は、概念のなかに現実を引き入れ、概念を現実と同じ段階のように見せるのだ。

探梅やここも人住むぬくさにて

午後もまた山影あはし幟の日

この旅も半ばは雨の夏雲雀

月もまた七種いろに出でしかな

山茱萸の道も三日を経にけるや

柳散る夜もうるはし上京は

まひるまも倉橋山の枇杷の花

影もまたひとり酔へるか春の月

 今度は、『花間一壺』において助詞「も」が見られる句を引いてみた。この句数を見ればわかる通り、助詞「も」を含む型は、とりわけ裕明が好んで使うものの一つだ。そういえば第一句集『山信』に収められている初期の代表句〈大学も葵祭のきのふけふ〉にも、この助詞が見られる。そう言った意味で助詞「も」は、裕明の志向がよく表出しているものなのではないかと思う。

 二句目。〈午後もまた〉という措辞の前提にあるのは、「午後以外の時間」だ。ぼくたちがこの句に時間の流れを感じるのは、ひとえにこの助詞の効果である。

 七句目〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉もそうだ。〈まひるまも〉の措辞の背景にある淡さは〈まひるま以外の時間〉によって裏打ちされている。〈倉橋山〉という固有名詞のゆかしさや閉鎖性も相まって、現実から乖離した永遠性の明るさが、そこに現れる。

 しかしながら、助詞「も」は写生という概念と相性が悪い。眼前にあるものを言葉で写し取ろうとするとき、写し取ろうとする対象とは別のものの存在を添加する「も」は、写生にとっては過分な情報であるからだ。

 写生の理論の反対を向いているという点では、助詞「の」、助詞「に」の使い方にもこれは通じるだろう。

 なぜ裕明はこのような助詞を使うのか。

 それは、裕明が写生よりも詩情を優先する俳人であったからである。ゆえに、写生の考えが制限をかけるテリトリーを侵してでも、技巧的な手段を用いて詩情を生み出そうとする。

 晩年に創刊、主宰した「ゆう」の創刊の言葉には、「写生と季語の本意を基本に詩情を大切にする」とある。ぼくには、これは詩情を「主」とし、写生を「従」とする、という宣言にすら聞こえる。前期、後期ともに、なによりも詩情を重んじるという姿勢を裕明は貫いているのだ。

 その意識が、前期においては、複雑な助詞——写生でなく詩情を重視した結果——として、現れているのではないか。輪郭をくっきりと描きとるのではなく、ぼんやりとした水彩画のような滲みを生む助詞こそ、裕明が詩情を描き出すための方法、レパートリーのひとつだったのである。

 といっても、この詩情というのは先に挙げた〈天道虫宵の電車の明るくて〉〈桐一葉入江かはらず寺はなく〉とは、やはり異なる手触りを持つ。〈この度も半ばは雨の夏雲雀〉〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉にはもっとなにか言語的な、抽象的ななにかを感じるのである。

 それは、これまで示してきたように、一句が、助詞や難しい切れという「言語的な装置」を備えているから、というのが一つの理由であろう。そして、その「言語的な装置」は、個人の体験としての〈その夏雲雀〉ではなくて、歴史の中で言葉が引き受けてきた、体系としてのイメージの〈夏雲雀〉へと、ぼくたちを誘う。そこは、体験を媒介として必要としない、直接的な言語イメージの世界なのである。

 そしてそのような読まれ方を、おそらく裕明は了解済みだ。そのうえで、どのように良質な詩情を醸し出すことが出来るか、ということが、『花間一壺』における裕明の一つの挑戦であったように思える。
 
(あとがき)
 高校二年の夏、第十八回松山俳句甲子園で森賀まりさんとご縁があり、そして『セレクション俳人 田中裕明集』に出会った。白状すると、裕明の句の魅力はその頃、全然わからなかった。(今も分かっているかはだいぶ怪しいけれど) ただ、気になった句には印を付けながら読むことにしているので、そのときぼくが裕明のどんな句を喜んでいたかはわかる。

 そして今、その頃と俳句観がかなり変わったなかで、裕明の句集を再び読み直している。しかしながら、現在ぼくが好きな裕明の句の一つに、あのころのぼくはきちんと印をつけていて、ちょっと不思議な気持ちになった。

野分雲悼みてことばうつくしく

 死を悼めば、そのことばがうつくしい、というのは、あるいは抒情過多かもしれない。でも、これはぼくの中で一生大切にされる句であるような予感がとても、する。

 この感覚を信じることができるから、ぼくは俳句を書いてこれたし、これからもたぶん書ける。今回の論はかなり理屈っぽかったが、結局のところ、俳句をやっていけるかどうかは、このように思える句を、どれほど心の中に持てるかだと思う。そして、そのように思える句に高校生のうちに出会えたことを、本当に嬉しく思う。そういった意味で、俳句甲子園がぼくに俳句の入り口を開いてくれたことを感謝しなければならない。

 ついでなので、ちょっとだけ俳句甲子園について書くと、「俳句甲子園が俳句の全てじゃない」ということを俳句甲子園自体が教えてくれる存在であったおかげで、ぼくはちょっとだけ人より多く成長できた気がする。俳句甲子園を終えたぼくには、俳句が残った。俳句甲子園は良い場所だなと思う。

 話を戻そう。裕明の句は、飴玉が溶け出すように、少しずつ素敵なところに気づける。そんなところも、好きだ。それはぼくが単に鈍感なだけなのかもしれないけれど。

 ただ、だいぶ前に舐めたその飴玉は、今もまだ、ぼくの口の中にある。全然舐め終わらないうえに、そもそも何の味なのか、舐めている今も実はよくわかっていない。困った。

*句は正字表記ですが、都合により一部新字としています。

(参考文献)
『セレクション俳人 田中裕明集』 邑書林/二〇〇三 
『田中裕明全句集』 ふらんす堂/二〇〇七


高校生らしさを考える

2016年03月18日
「高校生らしさ」について思うこと (柳元佑太)

「高校生らしさ」という言葉は、反感を憶えていた言葉のひとつだった。
とまあ、過去形であるのは、既に自分の中で折り合いの付いている言葉であるからだ。ようするにそんなことを気にしなければ良いのだ。ぼくは書きたいものを書く。
けれども「高校生らしさ」という言葉自体に、そのままにしておけないあやふやさは未だに感じている。それに、「高校生らしさ」について高校生が語るという、青臭い面白さを見過ごすことはできない。どうせ高校生のときにしか当事者問題とならないのだし、少し書いてみようと思う。北国の高校生の独り言くらいに思ってほしい。

まず、ぼくは「高校生らしい良さ」というのは、誰がなんと言おうと存在すると思っている。
俳句甲子園の入賞句や、これまでの高校生を対象にしたコンテストの大賞句なんかを引けば、理屈なしに分かるはずだ。

○キャンバスに赤といふ意思秋澄みぬ (川村貴子)

これは二千十四年の神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀句だ。キャンバスには赤。それは意思であり、キャンバスに対峙する強さだ。澄みぬ、という一瞬の把握、素敵だ。

○号砲や飛び出す一塊の日焼 (兵頭輝)

これは第十八回の俳句甲子園の最優秀句。号砲が鳴り、めいっぱい飛び出していく日焼けした身体。そのほんのコンマ何秒。一塊の日焼、なんて把握も省略と客体化が効いていて気持ち良い。

○向日葵が全校生徒より多い (山下真)

これも第十八回俳句甲子園より。散文的であることがなにかしらの切実さを生み、詩性を打ち出す。言葉に無理をさせない作りながら、隙がない。

三句しか引かなかったが、きっと十分すぎるだろう。そこには彼らの実感があって、青春の息遣いのようなものが確かにある。確かで伸びやかな感覚がびったり定型に嵌ったときの強さなんかには本当にため息をつきたくなる。こんな句作れるものなら作ってみたい。
そしてこの場合の「高校生らしさ」というのは、そのときにしかない瞬間性や実感、すなわち得難いリアリティ——それに読む側の、青春という切なさを求める気持ちを少し投影したもの——なんて言い換えることが出来るんじゃないだろうか。

しかしである。
この意味の「高校生らしさ」というのは一つの属性でしかないはずだ。当たり前だけれど、俳句を評価する観点のひとつ、たとえば「丁寧な写生だね」だとか「うおお、すごい二物衝撃だ」だとか「ふふふ、これは俳諧性があるなぁ」だとかと同じものではないだろうか。つまり必ずしも全てを満たす必要はなく (写生と二物衝撃なんて両立しないだろうし) 、その中の幾つかを満たすことで句としての魅力を獲得する。「高校生らしさ」ということも句を構成する一つの魅力ではあるが、句の魅力を構成する全てではない。必ずしも必要な条件ではないのである。
よって、その要素を持つ句に対して高校生らしさという観点を鑑賞することは出来ても、すべての句に高校生らしさを求めることは出来ないのではないかなぁと思っている。
語気に覇気がないのは、背景に複雑な問題がある気がしているからで、それは作者を作品に反映させるかどうか、つまり俳句に十七音以外の要素を認めるかどうかということだ。たとえば子規の絶筆三句はそのままでも面白いけれど、でも子規に関する背景を知っている方が絶対に分かりがよい。このことには、書くべきことを持つ世代と持たない世代の意識差なんかも絡むと思うのだけれど、手に負えないのでここでは割愛しようと思う。
とりあえずぼくは一句はその十七音で完結するべきだと思っているので、十七音以外の要素がそれに干渉する形で魅力を求められても、簡単には諾えない。それに、周りを見てみれば素敵な高校生らしい俳句が、今この一瞬に切実さを覚えないくらいにはたくさんある。高校生からすればそれは結構重要で、高校生らしさがあるというだけでは高校生のなかではアイデンディティたり得ないと思うのだ。

高校生が対象の俳句賞は、おそらく「高校生らしさ」がキーワードなのは言うまでもない。「高校生らしさ」についてあれこれネガティヴなニュアンスの発言をしてきた訳だけれど、でもぼくはそれをどうしてほしいというわけではないし、むしろそれはそのままで良いんじゃないかと思う。
高校生らしさは、ぼくらの砦だ。
書きたいことがあるのに技巧が追いついていかない、高校生の俳句はそんな句がきっと、多い。そんな句を掬いあげてくれるのが「高校生らしさ」でもあるんじゃないだろうか。そうして掬いあげて貰うことで「俳句って楽しいな、勉強してみよう」くらいに思う人がいるならば、それは十分すぎるほど価値がある。
そして、ぼくたちは気づく。いずれその砦を出なければならない。しかもその砦は時が流れるにつれ、自然とぼくたちの周りから消えてしまう。そして砦の外では、内容をより面白く伝えるためのそれ相応の技巧が必要だ。十の面白さを伝える適切な技巧が十だとするならば、八でも十二でもない技巧を身につけることがきっと、必要になる。
気づけばもう高三になる。振り返れば、砦の中では書きたいものがあまり見つからなかったので、そろそろ砦を出る準備を始めようかな、なんて、思ひゐし。

【評論】浜田蝶二郎の歌/開来山人

2013年08月15日
 万葉から王朝和歌、そして近世を経て現代に至るまで、歌に詠まれた対象というのは、殆んどが四季の巡りであり、その中に在る自然であり、そこに生きる人間の生活だった。多くの歌人は、生きている中で得たワンダーを、それを発生せしめた対象物を詠むという形で、われわれに提示してきたのだ。

 しかし筆者はここに、一人の異質な歌人を紹介する。浜田蝶二郎である。大正八年に神奈川県で生まれ、平成十四年で没するまでに七冊の歌集を出版した。蝶二郎は、『われ』を見つめる歌人だった。幾つか引いてみよう。(以下、すべての短歌の引用は『現代の歌人140』〈小高賢/新書館〉による)

・気 疲 れ し て 眼 を ぱ ち ぱ ち す る わ れ の 癖 あ る ひ は 死 後 も 記 憶 さ れ む か

・や が て 死 ぬ 者 が 死 者 悼 む 無 意 味 こ そ や さ し か り け れ 陽 の 照 る こ の 世

 こんなふうに、蝶二郎は他者を詠まない。この世にただ一人しかいない『われ』に情熱を注いだ。もちろん『われ』を主題とする歌は、蝶二郎のもの以外にも存在する。しかしそれらは〈他者を見ている『われ』〉、極端に言い換えてみるならば〈『われ』が他者を見ているという風景〉を詠んだものではないか。例えば日常性をベースに作歌を行う奥村晃作の『七十二、罪なく佐渡に流されし世阿弥と知りぬわれはそのとし』は、『われ』が流刑となったときの世阿弥と同齢であることに対する驚きが、そのまま『われ』の年齢に対する驚きへと導かれている。ここでは世阿弥という対象によって歌が発生した。つまり、この歌は世阿弥とセットでなければ成立しない。

 ここで先掲の二首を見てみよう。
 一首目、自分の癖を挙げて、それは自分の死後、周囲の記憶に残るだろうかと問う。「されむか」という疑問の形をとっておりながらも、蝶二郎は明らかに「される」という確信を持っている。それは「あるひは」(ひょっとしたら)という控えめな物言いから生じた正反対の効果だ。蝶二郎は「あるひは~か」と言い投げており、一見この問いに無関心であるかのように見える。だが蝶二郎はこの問いをわざわざ歌という形に仕立てて、外界に発信している。『われ』に対する確信を表明したくてたまらない、という思いが見え隠れしている。この場合、初めに登場する「癖」はこの歌の主役ではない。『われ』への確信を表明するための数ある方法の中から「癖の提示」が選択されたに すぎないのだ。

 二首目、この歌の中心は「無意味」の語だ。一見ありふれた老境詠に思えるが、この「無意味」がそのような鑑賞を阻止する。ふつうこの歌の状況になったとき、人はまず「やがて死ぬ者が死者悼む意味は何だろう?」という思案をする。その結果として各々の中での意味の有無が導かれるのではないか。しかし蝶二郎はこの段階を無視していきなり「死者悼む無意味」と断じる。ここに蝶二郎の日常的な『われ』への認識が顕れている。

 蝶二郎の歌は、晩年になるに従い、さらに一般的な歌とは毛色の違ったものとなる。幾つか見てみよう。

・誰 に で も 一 対 揃 ひ ゐ る 公 平  生 年 月 日 ・ 没 年 月 日

・身 体 は 一 つ あ れ ば よ く 岐 れ て る 腕 は 二 本 よ り 多 く は 要 ら な い

 個別の鑑賞はしないが、これらの歌は、顕在化された思考そのものだ。そこに景はない。本来、これらの歌が詠まれる原因となった出来事があるのかもしれないが、それらは決して表面化しないし、その必要はない。蝶二郎は『われ』の追求を優先する。蝶二郎にとって肝要なのは『われ』であって『われ』に示唆を与えてくれた自然や生活の営みではなかった。そのようなものがなくても『われ』への認識は存在し得るのだから。

 少しだけ、短歌との比較として俳句のことを考えてみたい。俳句のメーンとなる概念は瞬間の切り取りだ。古今、子規の『柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺』や草田男の『万緑の中や吾子の歯生え初むる』など、名句と呼ばれるものは数えきれないが、それらは殆んど「わたしは~という瞬間を見た」という基本構造に当てはまる。『われ』の見た景を詠むのが俳句であって、俳句で『われ』そのものを詠むことは基本的にありえない。多くの自己詠は『われという風景』に過ぎないのだ。だから俳句で完全な『われ』を詠もうとすると、しばしば「短歌でやるべきだ」という指摘を受ける。

 では短歌は『われ』を詠むことができるだろうか? 歌人は自然を詠み生活を詠む。岡井隆であろうと馬場あき子であろうと栗木京子であろうと、歌人は景を詠む。俳句と短歌の差異は、その景の動きをとらえるメソッドの差異だ。とすると俳句で『われ』が詠めないならば短歌でも詠めないことになる。俳句側の「短歌でやれ」の謂いは、俳句にはなく短歌には存在する時間軸のゆとりが『われ』を捉え得るという発想に過ぎないのである。

『われ』を詠むことの不可能性。この壁を打ち破るのが、浜田蝶二郎の作歌概念だ。今まで見てきたとおり、蝶二郎の歌は景を拒否する。彼にとって歌とは、純粋化された思念を言語化するという行為なのだ。かつて歌をそのようなものだと完全にとらえた歌人はいなかった。そして蝶二郎の死後十年経ったのちも登場していない。

 あらゆる局面での現代化が進み、人の営みはかつてとは別物になった。かつてというのは、和歌が生まれた時代はもとより、現代短歌が成立した時代をも指す。詳しく述べるのは本筋ではないから避けるが、たとえば堀井憲一郎が「若者殺しの時代」〈講談社現代新書〉で示した、どちらも数十年前に過ぎない七十年代と八十年代の間にある社会構造の差異のようにだ。変化の速さは例を挙げるときりがないし、あるいは誰もが知っていることでもある。都市化の中に於いて自然詠は可能か、などといった問題はひとまず置くとしても、変質した社会を生きる個人に対応できる表現論が必要だ。短歌界には俵万智や穂村弘の登場で新風潮が生まれたが、それは単に既存の物とは異なっているというだけで、求められる表現を生み得るかといえば、必ずしもそうではない。『われ』は外部にある存在ではないのである。
 蝶二郎の最晩年の歌を掲げてこの稿を終わりにしよう。

・わ た し 死 ん で ゐ な く な つ た と 感 じ た ら そ れ は わ た し が ま だ ゐ る こ と だ 

「感じ」るのは他者だからこれは二人称の歌である。にもかかわらず、この他者とは誰かということを、おそらく蝶二郎自身も想定していない。二人称という呼びかけの形でありながら、これは完全に概念的な歌だ。概念とはすなわち『われ』の中にあるもので、ほかのどこにもない。「ほかのどこにもない」ものを詠んだ歌人が、蝶二郎のほかにいただろうか? しかし「ほかのどこにもない」ものこそ、これから詠まれるべきものだ。今までにないものを新しく詠めるというのは健康的なことだと思う。そういう意味で、筆者は浜田蝶二郎の名前を喧伝したいのである。