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【リレー小説】 席がえ

2014年04月21日
2014年4月21日、部室でリレー小説を書きました。新入部員2人は初参加です。
・テーマ「席替え」
・参加者~桐島、想真唯愛、ケラー、紫隈亮介、ありあ
・一人持ち時間3分


 (桐島)荒田と黒板の右下に書いてある。出席番号が最初の子である。今日は彼が日直で帰りのHRでは席がえなのである。はよHRになれ。私はこの席がいやなのだ。右にはミイラ、

(想真唯愛)左はハゲでチビでデブという何という憂うつ。こんなに不運な席替えなど今までにあっただろうか。いやないだろう。しかも、こういう時に限って次の席替えまでの期間が長い。まったく、最悪である。やっと帰りのHRがやってきた。室長がもったいぶりながら席順を黒板にかく。

(ケラー)カツカツカツ、という乾いた音が響く。これで席が決まるという訳でもないのに、クラスは不気味なほど静かだ。それほどみな、この席がえに期待しているのだろう。もちろん、私も例外ではない。

(紫隈亮介)何故なら、私にはどうしてもとなりになりたい人がいるからだ。ずっと、遠くの席から見ていた。それもそれで楽しかった。だが、やっぱり歯痒い。触れそうで触れられぬ、でも触れたら何かが狂ってしまいそうな。しかし、人間の慾とは浅はかなものであるから、やはり、そう願わない訳にはいかなかったのだ。

(ありあ)現在、私と彼の席の距離は右二つ隣という距離。横顔どころか背中も見えないのである。そんな彼と今回は隣の席になりたい。私はドキドキしながらくじをひいた。座席は一番前。彼は私の後ろ。ショックだった。
「これからよろしくね」
 プリントをまわしたときに言われた。それだけで私は満足だった。明日はきっと晴れだ。


【リレー小説】 背中

2013年10月23日
十月三日、全道高等学校文芸研究大会に参加した部員でリレー小説を書きました。
・テーマ「恋」
・参加者~日野蒼夜、想真唯愛、霧島畔戸、小川朱棕、ありあ、里久(ちなみに参加者は全員女子です)
・一人持ち時間3分(合計2周)


(日野蒼夜)これは、私が高校生の頃の話。私は中学・高校とバスで通学していた。バス停のそばには桜が植えられていて、わたしはそれがとても好きだった。その頃の私の日課。それは“彼”のうしろ姿をながめることだ。
(想真唯愛)桜がはらはらちっている日。私は中学に向かうバスの中で彼と会った。会ったと言っても、見かけたという方が正しいけれど。すらりと高い背は私よりもいくつも年上であるように見えた。そうして何度かバスで会ううち、彼はいつも同じ席にすわることがわかった。
(霧島畔戸)前から3番目、右側の窓際の席。何かそこにあるというわけでもないし、特別なものでもない。ただ彼はそこに座ってブックカバーのかかった、本を読んでいた。

(小川朱棕)ある雨の日のこと。その日は珍しく車内が混みあっていて、つかまるところをさがすのに苦労していた。ちょうど彼の席のひじかけのところしかつかむところはなさそうだった。ぬれた手を少し気にしながら、少しだけきゅっとひじかけをにぎった。突然バスがバウンドした。そのはずみに彼のひじがわたしのゆびにふれた。
(ありあ)彼はちらりとわたしを見やったけど、ただそれだけだった。彼はまた青いブックカバーの本に目を戻してしまい、また日常に戻ってしまった。彼のひじとわたしの指がほんの一瞬だけ触れたという非日常。わたしはまた、中学校に通い、友達と話し、部活をする日々に戻る。わたしはもう、それだけでよかった。その日の夜、私は日記
(里久)に彼との思い出を閉じ込めた。しばらくたった日、いつもながめていた彼を見ることがなくなった。少しだけ触れたあの日からずいぶんたっていたのでそんなにショックではなかった。

(日野蒼夜)そして、彼を見なくなった日から、約二年半が過ぎ去った。今日は卒業式だ。バス停の桜が咲くのを見るのは、きっとこれが最後だろう。私の大学進学と共に、遠い町へと住居を移す。それは父の仕事や、祖母の体調のことがあって仕方のないことだった。
(想真唯愛)仕方がないことだとはいえ、桜を見るたびに思い出すのだ。バスの、前から3番目の右側の窓際の席を。そこに座って本を読む彼の姿を。そして、あのほんの一瞬、彼とふれあった指が、とてもあたたかかったということを。仲間と別れる、そんな卒業式。私はどうしてか彼もいっしょに思い出してしまう。
(霧島畔戸)どうせ別れるならあの人ともすっぱり別れてしまいたかった。そしたらこんなふうに思いだすこともないのに。仲間たちは写真をとっている。「ずっと友達だよ」「私のこと忘れないでね」なんて声がきこえる。わたしは一人バス停に向かった。そうだ、彼に別れをつげるんだ。こんな思いにバイバイするんだ。

(小川朱棕)もう一回だけ、あのバスに乗ろう。あの人に会っても、そ知らぬ顔をしよう。もう終わったのだ。何もかも。たかがそれだけなのに、どうしてここまで胸がつまっていたくなるの。バスに乗った。あの人はいたけれども、彼とは離れた前方の席へとまっすぐ進む。窓の景色が流れてゆく。桜も恋も思い出もいたみも全て流してゆく。
(ありあ)背中で彼の気配を感じていた。彼の後ろ姿も声もページをめくる音さえきこえなかった。もうそれでよいのだ。今、彼と別れることができれば、どんなに美しい最期だろう。物語の最後の1ページのように、私はこの気持ちも思い出もすべてふうじこめるのだ。いつも降りているバス停に近づいて、私は一度だけ彼をふり返った。彼は本から顔をあげていた。私は彼を見ていた。彼も私を見ていた。そこにはほかの乗客の声もバスのエンジン音もなかった。バスには、世界には私と彼しかいなかった。
(里久)バスはまだ止まっていない。…間に合うだろうか。ふとそんな思いがわいた。彼との思い出をきれいに終わらすことはできるだろうか。私は立ち上がる。そのまま彼のもとへ向かう。不思議だな、バスは動いているはずなのに、景色が止まって見える。彼も変わらず私を見てる。私は彼の指定席まで来た。前から3番目の窓ぎわの席。私はじっと彼を見つめて口を開く。
「ずっと見ていました」
そう言い切って私は急に怖くなった。何と返されるだろう。第一、彼は私のことを知らないはずだ。ぎゅっと目をつぶる。私の耳に届いたのは、少し低めの優しい声だった。
「……知ってたよ」
はっと目を開けると彼はもう本を読んでいた。プシューとバスのドアが開く音がする。どうやら着いたみたいだ。私は一度だけ礼をして、もう振り向かずにバスを降りた。去ってゆくバスを背中で感じながら、初めて彼の声を聞けたことに一筋涙がでてしまった。

【リレー小説】 秋麗の通学路/想真唯愛・ありあ

2013年08月31日
八月二十八日に想真唯愛とありあの二人でリレー小説を書きました。
・テーマ「秋」
・参加者~想真唯愛(水色)、ありあ(オレンジ)、合作(ピンク)
・一人持ち時間3分(合計7周)


 あるよく晴れた秋の日のことだった。私は何もない通学路を「ひとりぼっち」で歩いていた。今日は「ひとりぼっち」なのだ。なぜ私がこんなにも「ひとりぼっち」を強調するかというと、今日は初めて通学路を「ひとりぼっち」で歩いているからだ。「ひとりぼっち」の理由は言いたくないので言わないことにするが、今日はとにかく「ひとりぼっち」なのだ。それ以外の何ものでもない。ただ、私のよこを小さな猫が通り過ぎた。その子猫が私に向かって小さく鳴いた。間の抜けた鳴き声だった。小さなしっぽをゆらしてその猫は私を置いて先に行ってしまった。私はまた「ひとりぼっち」になった。
 今日は7時に起きた。朝ご飯は食パンにマーマレードをかけて食べた。友達にもあいさつした。小テストも好調だった。しかし事件は起きた。私の家にいたペットのインコがいなくなってしまったのだ。私が小学生の時からずっと大事に飼っていたインコのぴーちゃんが、突然いなくなってしまった。それに、そのショックから立ち直れずにいた私をなぐさめにきた友だちのみゆにも怒鳴りつけてしまい、冒頭に戻る。「ひとりぼっち」になってしまったのだ。
 あの猫がぴーちゃんに何かしたんじゃないか、そんな風に
思った。ぴーちゃんの背中には愛らしい水色の羽毛の模様があった。先程の猫の口の周りが水色っぽく見えたのは気のせいだろう。かき氷を食べたあとの口みたいだった。ぴーちゃんの羽はかき氷のシロップでもない。
 頬ずりするとやわらかく、ぴーちゃんはキューと鳴いた。3歳下の弟はぴーちゃんに噛まれたら怖いと言って、私たちの行動をいつも見張りでもするかのように私たちの行動をいつも
見張りでもするかのように私について回り、ぴーちゃんが何かをしゃべるだけで逃げ出していた。そんな弟がかわいくておもしろくて、ぴーちゃんに何日、いや何週間もかけ弟の名を覚えさせたりもしてみた。でもそんなぴーちゃんは今はいない。みゆに何て言って謝ればいいかもわからない。今日の私は最低だ。だから「ひとりぼっち」になったのだ。
 駄菓子屋の角を通り、家に向かう並木道に出る。3時間目の体育の授業のマラソンで私は転んでしまった。黄色いスニーカーが少し汚れている。その時もみゆは私を優しく気づかい、大丈夫? と声をかけてくれた。そんなみゆに私は何も言わなかった。言えなかった。今日はいつだってぴーちゃんのことを考えていて、今日のみゆの顔がちっとも思い出せない。最終的にはどなりつけ、みゆを自分からつきはなしてしまった。それなのに今さらごめんなんて、とてもじゃないけど言い出せない。ため息が出る。息は期待したほど白くはならなかった。いつもどおりの透明だ。みゆがとなりにいない。
 道の途中の児童公園に、桜の木がある。今はもちろん桜は咲いていないが、秋でも桜の木は桜の木だ。私とみゆは小さい頃から一緒だった。あの桜の木でおままごと、花のかんむり作りをした。大人になるにつれ、桜の木の下での二人の時間はおしゃべりやテスト勉強となった。

 そんなたわいもない会話や、みゆと一緒に過ごす時間が私は大好きだったのに、私は、私はそれを、自分の手でこわしてしまった。自分でそれをまたつなぎなおせる勇気も自信も力もないのに。ぴーちゃんだってきのう確かかごの戸をあけっぱなしにした気がする。ぜんぶ私のせいなのだ。
 ……あれ? 
 わけもわからず涙が出てきた。

 桜の木、今はかれ葉がいくらかついている木の枝に、白い鳥がとまっていた。鳥はキューと鳴き、翼をはためかせた。水色の羽がふるえるようにはばたき、私のほうに向かってきた。私が手をのばすと、私の指にぴーちゃんは着地した。ぴーちゃんの細い脚が私の指をつかんだ。少しくすぐったいけれど、なつかしい感覚だった。私が頬ずりすると、ぴーちゃんはきゅーと
鳴いて、嬉しそうに覚えたての言葉をいくつかしゃべった。
 ぴーちゃんがいた。ぴーちゃんが見つかった。私はそれでまた泣いていた。ぴーちゃんと触れている頬にも、涙が流れる。それでもぴーちゃんははなれない。あたたかかった。
「大丈夫?」
 聞き覚えのある声。今日のマラソンを思い出す。あの声と同じだ。

 会いたい人にもう会えた。それも同時に。振り向くと私と同じ制服を着た少女が立っていた。みゆだった。
「大丈夫?」
 彼女はもう一度たずねた。私が肩に手をそえると、ぴーちゃんは素直に私の肩にとまり、それからはなれることはなかった。
「ありがとう」
 その一言はみゆに向けた言葉であり、ぴーちゃんに向けた言葉でもあった。みゆは何もいらないというようにやさしく首を左右にふった。

「いいの。黙っていたのに何も知らないで話しかけた私がわるかったんだよ。ごめんね」
 私が先にいおうとしていたのに、みゆは私に謝罪をする。
「やめてよ、私のほうがわるいから、気にしないで」
 急になんだかはずかしくなる。
「その子のこと、探してたんだよね。私の家の前を朝とんでから、教えてあげたかったんだ」
 それならなおさら私が悪い。

「ごめんね」
「もう謝らないで」
 ぴーちゃんがきゅーと鳴き、私たちの頭上をとび回った。それから木のてっぺんにとまり、動かなくなった。町には夕焼けがさしてきている。
「話したいことがたくさんあるの。」
 みゆは私に言った。私たちはうなずき合って木の下のベンチに向かう。落ち葉がかさりかさりと音をたてた。もう手袋やマフラーが必要だろうか。
それはいらないだろう。
 体の中心がほのとあたたかった。二人の耳に響く声もあたたかった。すべてがあたたかかった。私たちは日が暮れるまで、昔に戻ったように話し続けていた。End

【小説】くらげ/ひねもす

2013年08月15日
 ちょうどよく日の差す窓際の席で、しかも昼ごはんを食べたあとなら、まどろんでもそれは仕方のないことだと思う。そのときたぶん幸せな夢を見ていた私は、かれんちゃんという女の子から何かを渡されて飛び起きた。というのも、その渡し方が無言のまま蝿叩きでもするかのようだったのである。夢の内容も消え失せて、わけもわからぬままに受けとったそれは、記入済みのプロフィールだった。きっともう返ってはこないのだろうと、今まで忘れていたものだ。ずいぶん前に渡したそれが皺くちゃになって、けれども確かに私の元へ返ってきたということは、かれんちゃんが部屋を掃除したときにでも発見されたにちがいない。なんて運のいい紙きれ!
 そこまで考えるあいだにかれんちゃんとプロフィールを交互に見た。かれんちゃんは、いつだってこの世の終わりを伝える使者みたいな面持ちでいる。今日もやっぱりそうであることを確認し、ありがとうと言いながら手元の紙に目を通した。相手を動物にたとえたら何かという欄に連なった三つのまるっこい字に視線がとまり、首を傾げる。
「くらげ?」
 かれんちゃんの眉間にぐっと皺が寄った。しかしそんな谷も、グランドキャニオンに比べればどうということはない。答えを待っていたら、かれんちゃんはふうと息をついた。
「あんたと話してると重力がなくなるから」
 そう言い捨てて、かれんちゃんはなぜか不機嫌そうに去っていった。私は、私をよく知る人物にこの意味を聞かねばなるまいと思いながら、チャイムの音を聞いていた。


「お母さん、どうして私はくらげなの」
 夕ごはんの最中に思い出してたずねた。母はあと少しで口に入るところだったハンバーガーを落っことして、私をじっと見つめた。きっと、そのひたいの裏では様々な思いが錯綜しているのだろうなぁ。想像しながらフライドポテトをつまむ。私が三回咀嚼した頃に、母はバラバラになったハンバーグとバンズを元どおりに挟みなおして、机を綺麗に拭きながら言った。
「お母さんは、人間よ」
「うん」
「お父さんも人間だったわ」
 だのにどうしてあんたがくらげなの、と、頭のてっぺんからつま先を見る勢いで黒目が上下した。母は、答えどころか隔世遺伝という言葉さえ知らなかった。


「それで、俺に聞くのか」
「うん」
「難しい質問だ」
 ふみと君という男の子の家まで行って、これまでのいきさつを説明してから訊ねた。このひとは考える姿が賢そうなので、ちゃんとした答えを出してくれるような気がした。
「誰に言われたんだ、そんなこと」
「かれんちゃん」
「かれんちゃんってことは、その子はやっぱり、可憐なのか」
 私が黙ってにこにこすると、ふうん、と言ってそれからまた何か考え込んだ。かれんちゃんという情報が何の役に立つのか分からない。
「重力がなくなるって言われたんだろ」
「そう」
「それは悪口なのか」
 私はああ、と納得したようなふりをしてから、馬鹿みたいにまっしろになってしまった脳みそを使ってこたえた。
「ちょっとわからない」
「皮肉なのか」
「私はかれんちゃんじゃないんだよ」
「知ってるよ」
 そんなことは知ってる。とくり返してぶつぶつ言い始めた。考えるときに、ひとりごとを言うくせがあるのを知っている。テストのとき大丈夫なのかと前に聞いたら、テストのときは大丈夫だと言うから、そうかテストのときは大丈夫なんだと言って、以来その話をしたことがない。
 ふみと君が下がってきていた眼鏡を中指で上げた。きっとそれもくせ。
「うん、でも、わかる気がする」
「なにが」
「お前がくらげってことが」
 まじめな顔で言うから、私って案外、くらげだったのかしらと納得しそうになるけれど、こうして陸で息を吸って吐いて、両親が人間である以上、私も人間にちがいないと思い直す。
「つまり、それは比喩的な意味だね」
「お前、比喩的な意味なんて分かるの」
「馬鹿にしているね」
「うん。いや、それでお前、ちょっとこうやってみろ」
 立ちあがったふみと君は背中をちょっと丸めて、手をだらりと重力に逆らわない格好にした。私もならってやってみると、ふみと君が左右にゆらりゆらりと酔いそうな揺れ方をするので、なんだか面白くなって、私も真似しながら室内を歩きまわった。二人でしばらくそれを続けていたら、だんだん客観的に物事を見ることができるようになったのでやめた。
「それで、つまり、お前はこういう感じなんだ」
「なんとなくわかった気がするよ」
「本当?」
「うん、つまり、プログラム規定説みたいな感じなんだ」
「なんだっけ」
 私も適当に言ったから笑ってごまかした。ふみと君がなるほど、と言った。なんにも説明していないのに。
「核心が消えるんだ。なんていうか、ブラックホールに呑まれるみたいに」
「おおきな話だ」
「うん、そうだ。おおきな話だ」
「かれんちゃんすごいな」
「そうだな。かれんちゃんとかいう子には、才能があるんだな」
 うんうん頷いてから、なんの?と聞いたら、さあ、と言われた。ふみと君も結構、てきとうなことを言うのだ。
「じゃあ私は、ふみと君よりおおきい人間なんだ」
「それはちょっとちがう」
「えっ」
「だってお前、それはさ。ちがうだろ?」
 聞いているのはこちらだから、聞かれてもわからない。ふみと君は同じような内容をもごもご喋っている。地方に住んでいるおじいちゃんが入れ歯を取りだしたところを思い出した。でもふみと君はおじいちゃんという年でもない。なんだか不思議だなあと思った。そこで、比喩的な意味を理解した。
「ちがうっていうのはちがうけど」
「じゃあ、ちがわないんだ」
 ふみと君はけらけら笑ってから顔を引き締めて言った。
「いいか、ひとのおおきさっていうのは一つのことじゃはかれないし、比べるものでもないんだ」
 私はぽかんと口を開けてふみと君を見た。時間が止まっている。
「今なにか、かっこいいようなことを言ったね?」
「そう、かっこいいことを言った」
「おお、かっこいいな、ふみと君」
「それほどでもないさ」
 ははは、と笑ってから、例のごとくブラックホールに呑まれてしまったらしく、私たちはたぶん別々のことを考えていた。くらげはおおきいものだ。
「ふみと君は時計みたい」
 そう言ったら、ふみと君はちらりと私の頭のてっぺんを見た。どこか、近くでカチカチいう音がしている。
「それはまた、ずいぶん無機質だなぁ」
「いつも正しく動いてるんだけど、ときどき止まる」
「……それってさっきの話か」
「どうかなあ」
 私は意識して眉を上げた。本当は片方だけを上げようとしたのだけれど、上手くいかなかったみたいでふみと君は苦笑していた。扉の向こうから夕ごはんの時間を告げる声が聞こえてくる。
「母さんにも聞いたらいいよ、くらげのこと」
 私は首を振って笑った。
「もういいよ」
 ふみと君が、なにかかっこいいことを言ったふみと君を見ていた私みたいな顔で、なんで、と聞く。
「だって、私は人間だもの」
 妙にふみと君の表情が消えたかと思うと、そんなことは知ってるよ、と頭を殴られた。でも不気味なくらいやわらかい殴り方で、全然痛くなかった。びっくりしたけれど、ふみと君は特に何でもなさそうに部屋を出た。扉の向こうには私の好きな食べ物がいっぱい用意されていて、ふみと君のお母さんはとってもにこにこして待っていた。いっぱい食べてね、と言った。私は突然鼻の奥が痛くなった。さっきの拳がずいぶんな時間差で効いてきたんだろうと思った。ふみと君の方を向いて、やるな、と言ったら、まあな、と言われたのでまたびっくりした。すでに私にはくらげの毒が回っているのかもしれない。
 夢中で食べる私の隣で、冷凍でも市販のものでもないハンバーグがぼとりと落っこちた。それと一緒に、私の目から何の前触れもなく一匹のくらげが落っこちて、木製のテーブルに吸いこまれていった。そこでようやくはっとした。目頭はもう死んでいた。

【小説】リマの焼死/ひねもす

2013年08月15日
 こんな手紙が届いた。
〈みのりへ ジンジャーブレッド焼いたからおいで。 ようこ〉
 ん、と思って首を傾げた。だって、手紙ということはジンジャーブレッドを焼いたのは何日か前のはずで、メールか電話にすればよかったのに。彼女はたまにこうしてよくわからないことをする。よくわからないまま家を飛び出す私も私で、ちょっとおかしいのかもしれないけれど。
 しんしんと、雪の降る日だった。とても寒くて、マフラーに顔を埋めると目の前が曇って見えなくなった。黒縁で側面にストーンが入った四角い眼鏡。とても気に入っているけれど、こういうとき不便だと思う。
 彼女の家は公園に面しているこじんまりした一軒家だ。それなりに古い建築だと思うけれど、それがおとぎ話のようで(彼女いわくヘンゼルとグレーテルがたずねてきそうで)雰囲気がある。インターフォンを鳴らすと反応はなかった。外出中の場合も考えてドアノブに手をかけると、あっさり開いてしまってぎょっとする。公園はこどもたちの遊び場であり不審人物の溜まり場であるというのに、不用心すぎやしないか。私は後ろ手に鍵を閉めた。玄関は直接居間につながっていて、暗がりの中ではなにかがもぞもぞと動いている。電気をつけると確かに彼女だった。
「おそかったね。もう、冷めちゃったよ」
「なに、この部屋」
 一歩踏み入れると、ひんやりした空気が足の裏から冷やしていった。家主はブランケットにくるまって腕をさすっている。
「ストーブ、壊れちゃって」
 呆れて何も言えないまま立ち尽くしていると、彼女は上がってよ、と言った。ストーブが壊れたにしたって、こんな冷蔵庫みたいな家冗談じゃない。彼女は痺れを切らしたのか玄関まで来て私の手を引いた。氷のような手だった。
「つめたいよ」
「魔女みたい?」
 振りかえった顔は得意げに笑っていた。意味が分からない。居間のソファに座らされ、彼女がくるまっていたブランケットをかけられると、いくぶんか暖かくなった。
「キャラメルマキアートとミルクティーどっちがいい」
 彼女は台所から顔を出しながら聞いた。
「ミルクティー」
「ごめんね、ミルクティー切れてるの」
「なんで聞くのよ」
「あるかなぁと思ったから」
 コンロの火がつく音が聞こえた。私はちいさくため息をついてソファに凭れる。やかんをほったらかしてきた彼女は、さむいさむいと呟きながら私の向かいに座った。ブランケットを返そうとしたら押し戻される。なんなんだ。それから私の視線が机の上のあるものに注がれていることに気がつくと、ちょっとにやにやしながら頬杖をついた。腹立つ。
「やっぱり眼鏡の方がいいね」
「ありがとう」
「それね、こないだ久しぶりに予定が合ったから、一緒に出かけたときの写真なの」
「ふうん」
 気のない返事をしても彼女が声を弾ませるのに違いはなかった。そうくんと、そうくんの、そうくんが。何度も何度も聞かされる名前をもつ男に私は会ったことがない。知っているのは、彼が黒縁眼鏡をかけているということだけ。
 彼がいかに魅力的な男性であるか話すあいだ、私はその話を耳に入れて適当な相槌を打つだけのからっぽな容器になっていることを、彼女は知らない。だからこそ、今だって頬をゆるませその口は三秒と閉じないし、そんな気づかいができるにんげんならとうの昔に私との縁は切れていると思う。ひとの気もちに鈍なのは罪だ。
 そんなに遠くないところで、ぴいいいと鳴くような音がした。台所に行った彼女はカップと皿をふたつずつ持って戻ってきた。皿の上にはジンジャーブレッドと思しきものが乗っている。
「いつ焼いたの?」
「今日だよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
 間延びした調子で言う彼女はフォークでちいさく切ったそれを口に運ぶと、わりとぬるい、というなんとも微妙な発言をした。今日だとしたら、彼女はあの手紙を直接郵便受けに投函したとでもいうのか。疑問符が消えないままカップの中をのぞき、思いきり眉を顰めた。
「ホイップ浮かべるとおいしいの」
 表面は甘党の彼女にすっかり侵されていた。恐る恐る、ひとくち飲んでみる。腐ったみたいに甘い。
「……いつもこんなの飲んでるの?」
「うん」
 食べかけのジンジャーブレッドを見て、それから、まだ足りないのか自分のカップにこんもりとホイップを乗せていく彼女を盗み見た。このお馬鹿さんがなんらかの病気でしぬのも時間の問題だろう。私は気付かれないようちいさく笑った。
「あ、そういえばさっきの続きなんだけど、そうくんね」
「あのさぁ」
「なあに」
「その名前変えてくれる」
 冷えた声と裏腹に、頭だけがひどく熱い。ほかの熱がぜんぶ一ヶ所に集まったみたいだ。彼女はちょっと驚いたような顔をしている。
「どうして」
「やだから」
「みのりは、そうくんの名前がきらいなの?」
「きらいっていうか、うっとうしい」
 今なら聞こえないものまで聞こえるような気がした。彼女はなにやら難しい顔をしながら、ホイップをかき混ぜて溶かしている。しばらくしてから思いついたようにぱっと顔を上げた。
「わかった。これからは、そうくんのことをみのりと呼びます」
 何がわかったのか知らないが、彼女は何事もなかったかのようにふたたび話を始めた。みのりと、みのりの、みのりが。さっきより大分ましになったけれども、いつまでもゆるんでいる頬はやっぱり腹立たしい。
 ホイップを鼻につけていることにも気がつかない彼女にとって、この空間と時間は本当に存在しているのだろうか。私にはわからない。アインシュタインにだってわからないだろう。今私と人形をとりかえたとして、ようこが何を失うのかということも。
 甘ったるい匂いが、密室の中のふたりを死に近づける。じわり、じわり。ゆっくりと、着実に。

【小説】私の歌と君の声と/空集合

2013年08月15日
 週末になると、彼は決まって私に歌を歌ってくれと頼む。そうして私が歌うと
「ありがとう、やっぱり俺詩音の歌好きだな。あ、もちろん詩音のことも好きだよ」
と、そう言って子供のように笑うのだ。
 そんな彼の声が、笑顔が、私は大好きだった。

*  *  *
 
 彼が目を覚ましたのは、事故に遭ってから三日後だった。
 恐る恐る目を開ける彼を見て、私は思わず抱きついた。
「貴彰さんっ……!」
 彼が目を覚ましてくれた。涙がぽろぽろと流れてくる。
「生きていてくれてありがとうっ……!」
 泣きじゃくる私の頬に彼はキスをした。懐かしさすら覚えるその感覚が嬉しくて仕方ない。  
「本当に、良かった……」
 そうして嬉しさを噛み締めているとき。病室のドアが開く音がした。
「廣田さん! やっと目が覚めたんですね。少し待っていてください。今先生呼んできますから」
 看護婦が微笑み、ぱたぱたと担当医を呼びに行く。呼ばれて来た担当医も、嬉しそうな顔をしてやってきた。
「目が覚めましたか。事故から三日間寝込んでいて、みんな心配していたんですよ。どこか痛いところなどはないですか?」
 もうすっかり見慣れてしまった笑顔で優しく問いかける。が、貴彰さんの返答はない。
「廣田さん……?」
担当医がもう一度声を掛ける。それでも貴彰さんは相変わらずニコニコとしているだけだ。
 私はそのとき初めて、貴彰さんの様子がおかしいことに気が付いた。
 まさか、貴彰さんは――
「これは……。すみません、早急に検査しますね」
 そう言う担当医の声が、ひどく遠くから聞こえた気がした。

*  *  *

 どうして“当たって欲しくない予感”というものに限ってこうも簡単に当たってしまうのだろうか。
 無事に目を覚ましたと思われた私の恋人は、声と聴覚を失っていた。
 医者もこのことは予期していなかったようで、今まで私に対してこういった説明をしなかったことを懸命に詫びていた。だが、私にとってそんなことはどうでもよかった。
 喜んだらいいのか悲しんだらいいのか、自分でもよく分からなくなる。
 検査が終わってベッドに横になる貴彰さんを見ると、そこには当然私の知っている貴彰さんが居て。貴彰さんが声と聴覚を失ったことなんて悪い夢のようにすら思えてくる。
 なんとも形容できない気持ちになっていると、貴彰さんは不意に、医者が用意してくれた筆記具を手にとった。簡単な文字を書いて、私へ差し出す。
“俺が事故に遭ってからずっとそばにいてくれたんだね。ありがとう”
 確かにそれは貴彰さんの言葉だった。私の知っている、優しい貴彰さんの。
 私は今まで何を悩んでいたんだろう。貴彰さんが生きていてくれたことだけでこんなにも幸せだというのに。
 貴彰さんの持っていた筆記具をもらい、ペンを走らせる。今まで散々伝えていたことを本当に貴彰さんに伝える為に。
“生きていてくれてありがとう”

*  *  *

 その後貴彰さんは順調に回復し、二週間くらいで退院する運びとなった。
 声と聴覚を失ったのにもかかわらず二週間で退院なんてやけに早いと思ったのだが、それを貴彰さんに問うと
“大丈夫だから、心配しないで”
と笑って返された。
 久々に帰った家は、以前と何一つとして変わっていなかった。
「ふー、久々だね。ただいま」
 貴彰さんには聞こえてないけれど、そんな声を出してみる。ふと貴明さんを見ると、優しい笑顔を浮かべていた。
 居間に入るや否や、携帯を取り出す。
“取り敢えずお風呂にでも入ってきたら? 病院にいるときはシャワーしか浴びれなかったでしょ”
 そう打ち込んだ画面を見せると、貴彰さんも携帯を取り出し
“そうだね、じゃあお湯入れてくるよ”
と打ち込んだ。
 入院していた二週間、私と貴彰さんの間では携帯を用いたコミュニケーションを確立していた。最初は筆記具を用いたものだったのだが、携帯の方が早いし読みやすいということで結局そちらに落ち着いたのだ。
 二人でしばらく無言の会話をした後、貴彰さんはお風呂に入りにいった。手持ち無沙汰になった私は、溜まっていた洗濯物があることを思い出す。
「洗濯しなきゃなぁ……」
 一人つぶやいて、洗濯作業に取り掛かろうとした。
 ――そこで、部屋の片隅に置いてあったアップライトピアノに目がいったのだ。
 そういえば、週末になったら決まって貴彰さんが私の歌を聞いてくれていたっけ。
 私は貴彰さんが歌を聴いてくれるのがとても嬉しくて。『詩音の歌が好きだ』と言って笑う貴彰さんがどうしようもなく大好きで。
 でも、貴彰さんはもう――
 私は貴彰さんの前で歌うことが無くなって、貴彰さんは私の歌を聴くことがなくなるのだろう。
「貴彰……さん…………」
気づいたら、ピアノに縋るような形で泣いていた。涙が、止まらない。
どうして、貴彰さんが――
考えたってどうしようもないのに、そんなことばかりが浮かんでしまう。
「ごめんなさい……」
 そう呟いた瞬間だった。
 後ろから、優しく体を包まれる。はっとして後ろを振り返ってみると、髪の毛の濡れた貴彰さんが私を後ろから抱きしめていた
 貴彰さんが携帯の画面をこちらに向けてくる。
“ねえ詩音、久々に、俺の前で歌ってくれない?”
 私の歌を聴くことなんて出来ないのに、何言ってるの。
 しかし貴彰さんは優しく笑っている。いつも私に歌を頼むときみたいに。
 私は涙で濡れた目をこすった。
 そんなこというなら歌ってあげようじゃないか。それを彼が望んでいるのならば。
 私はピアノの前に座った。久々に鍵盤に指を触れる。久々すぎてちゃんと歌えるのか心配になる。
 それでも、私は歌い上げなければならないのだ。貴彰さんの為に。

   *   *   *

 歌い始めてからは一瞬だった気がする。自分がどんな歌を歌ったのかかすら覚えていない。
 貴彰さんは黙って私を抱きしめる。声が出せないんだから黙って抱きしめるのは当然のことな筈なのに、その当然のことがどうしようもなく悲しく思えてくる。
 気づいたら頬が濡れていた。
 そんな私を貴彰さんは更に強く抱きしめた。
「貴彰さっ……」
「やっぱり俺、詩音の歌好きだよ」
「…………えっ?」
 遮られるはずのない声に遮られて、一瞬自分が幻聴を聞いているのかと思った。
「だから、やっぱり詩音の歌好きだなあって」
 だが、これは幻聴ではないらしい。でも、
「どうして……?」
「ごめん、俺、詩音に嘘ついてた。実はね、俺が意識を取り戻した三日後くらいにはちゃんと耳も聞こえるようになったしし声も出せるようになってたんだ」
「……なんで嘘なんて吐いてたの?」
「ごめん。ちょっとした悪戯のつもりだったんだ。携帯で会話するのも楽しかったし。……まさか泣かせるとは思わなかった。本当にごめん」
「…………貴彰さんのばか」
 口ではそう言ったものの、本当に嬉しかった。また貴彰さんの声が聞ける。また貴彰さんに歌を聴いてもらえる。
「貴明さんの、ばか……」
 もう一度声に出してみる。それでも涙が止まらなかった。
「本当にごめんなさい。でも、本当に耳が聞こえなくなったわけじゃなくて良かったと思ってるんだ。俺、詩音の歌が大好きだから。もう詩音の歌が聴けなくなると思うと生きていけないかもしれない」
 そう言って、はは、と少年のように笑う。
「あ、もちろん、詩音のことも好きだよ」
 その言葉を聞いて、私は思わず貴彰さんを抱きしめた。

【小説】Deep sea fish/空集合

2013年08月15日
 鉄の塊が、ボクの棲む世界にやって来た。今まで動かない船などが沈んできたことはあったが、今回のはそれらとは少々違った様子だ。
 眩しい。微かな光を感知することに優れただけの目がはじめて光に包まれる。眩しくてよく見えないが、やってきた鉄の塊が発しているようだった。
 その塊はプロペラで水をかき回しながら移動しているのだが、そのプロペラの音がとてもうるさい。
 ボクにとってその塊は不快なものでしかなかった。ボクの全神経があいつに対して拒絶反応を示している。
 仲間たちも本能的な何かを感じたのであろう。塊を避けるように軌道を変える。
 だが塊は、逃げるボクらを追い回すように進んでくる。
 こちらのほうがスピードは速いから逃げ切れるだろうと思ったのだが――一瞬ものすごい光に包まれて、目が眩む。
 水中で何かが振り下ろされる感覚がした。逃げようと思っても、目が開かなくてどっちへ逃げたら良いのかわからない。

 気付いたときには、ボクは見知らぬ場所に捕らわれていた。
 周りを見回すと、一面が明るい。三百六十度どこを見回しても、暗いところなど無い。明るすぎて寧ろ眩しいくらいだったので、また目を閉じることにする。
 ほかの仲間たちは見当たらなかった。うまく逃げ切れたか、別のところに捕らえられているのだろう。
 それにしても周りの音がうるさい。鼓膜が破れそうなくらい大きな音が、やむことなく鳴っている。ひとつはさっきの塊の音。もうひとつは、聞いたことの無い音。
「やりましたね!」
「いや、これからだよ。どうやってこれを浅海に連れて行くかが問題だ。」
 どうやら二種類の聞き慣れない音がボクに向けられているらしい。とてもうるさくて、耳を塞ぎたくなる。
 今自分の身に何が起こっているのだろう。
 少し目を開けてみると、見たことも無い生物がこちらを見ていた。眩しくて、また目を閉じる。
 しばらくしたらボクに向けられ音は遠くなった。多少は耳が慣れたらしく、最初ほど塊の音も気にならない。
 丁度良い気温で少し眠たくなってきたかも――
 気付いたらボクは眠りについていた。


「――そ―――すか―」
「―――、も――だな。」
 向けられた音で、目が覚める。五感がだんだん覚醒してゆき、音がうるさい。まぶたの裏でも明るいのがわかる。
 ゆっくりと目を開けてみたが、眩しくてやっぱり目を閉じる。
「じゃあ、スイッチを入れますね。」
「ああ、入れてくれ。」
 ガチャリ、と一際大きい音が聞こえた。途端にボクの体は今まで感じたことも無い違和感に襲われる。
「水槽の水あ――順調に―――います。」
「よし―くまで―だぞ――は、折角の―実――が――――う。」
 耳がおかしくなる。うるさいはずの音が、良く聞こえない。目は閉じているから視界がどうなっているかは分からない。目は閉じているから視界がどうなっているかは分からない。
 ……気持ち悪い。
 だがしばらくするとその違和感は少しずつ薄れていった。恐る恐る目を開けてみると、やはり視界は明るい。眩しくてゆっくりと目を閉じる。だが眩しさは先ほどよりは薄れた気がした。目もなれてきたのだろう。音もここにつれてこられた当初に比べたら格段に気にならなくなっており、絶えず鳴っている塊の音はもうほとんどその場を流れる空気のようになっていた。
「取り敢えず死んではいなさそうだな。」
「ええ、そうですね。」
「これからどのくらいの期間がかかるかな――」
 そんな音が聞こえた。


 それからしばらくの間、そういった囚われの日々が続いた。水槽の中にはボクの食べるプランクトンがたくさんいたから空腹になる心配はなかった。まあ、そいつの味はあまり良く無かったのだが。
 あのとき感じた違和感は定期的にやってきたが、回数を重ねるごとにそれは薄れていった。
 少しずつ目や耳もこの環境に慣れてゆき、今では眩しくて目を閉じることは無くなった。音も煩いと感じることは無い。最初はあんなに喧しかった鉄の塊が発する音だって、今ではほとんど聞こえない。
 そんなある日のことだった。
「もうそろそろ、ですかね。」
「ああ、もういいだろう。ついにこの日がやってきたのか。」
 ボクに向けられた音。次いで、今まで閉ざされていた水槽の天井が外される。
 ――何をされるのだろうか。
 毎日ボクに向かって音を発していた生物が、ボクの体に触れる。水の外へと出されて、息が出来なくなる。
 台の上に載せられて、体中を触られた。
「小型センサー、取り付け完了しました。」
「了解。それにしても、こいつは俺らがこんなに触っても全然暴れないんだな。」
 今までとは少し違った雰囲気の音。そんなことはどうでも良かった。どう頑張っても息が出来ない。苦しい。
 口をパクパクさせ、えらを精一杯動かしていると、彼らはやっとボクを水槽の中に戻してくれた。いつもの水の中に入り、一安心する。だが、それもつかの間。
「水深五十メートル。ここでこいつを放します。」
「よし。それじゃあ、いくぞ。」
 聞き慣れた音が聞こえたと思ったら、今度は床が外れる。また何かされるのかな。そう思うと、ここから動きたくなくなる。
「――動きませんねえ。」
「大丈夫。ちゃんと動くはずだから。」
 遠くから、そんな音が聞こえる。外された床の外の世界を見てみると、そこには見たことも無い綺麗な世界が広がっていた。ボクの仲間みたいな、けどボクの仲間たちなんか比べものにならないくらい綺麗な者たちが楽しそうに泳いでいる。
 ――――美しい。
 気づいたら、ボクはその世界へと飛び出していた。


 その世界は、光に満ち溢れていた。囚われる以前にボクがいた世界とは大違いだ。
 ボクにはまだ少し眩しくて、目を閉じる。それでも美しい世界がみたくて、また目を開ける。
 そんなことを繰り返しているとだんだん光に目が慣れていって、すぐに目を開けて自由に泳げるようになった。
 こんな美しいところを泳ぎまわれるなんて、こんな素晴らしいことはなかった。
 銀色の群れが目の前を通り過ぎ、青い群れは踊りまわる。
 どうやらこの世界には明るい時間と暗い時間があるみたいだから、明るいときは泳ぎまわり暗いときは眠った。
 ここにもプランクトンはいたから、食べものには困らなかった。
 この世の全ての美しいものを集めたような世界で暮らす、幸せな日々。
 だが、その幸せも長くは続かなかった。


 何度か眠ったある日のこと。ボクはこの美しい世界に一匹だけ、ボクの仲間みたいな汚い者がいることに気づいた。奴は決まって人間が落としていったぴかぴかの板のところで、なぜかボクと同じ動きをする。ボクはそいつが嫌い、出来るだけそこにいかないようにしていた。
 もうひとつ、気づいたことがある。誰もボクに近づこうとはしないのだ。他の奴らは群れになっていたり、楽しそうに二匹でいたりするのに、ボクだけはいつも一人だ。たまに現れる美しい者を襲う怖い者でさえ、ボクのもとへ近づこうとはしなかった。少しずつ不安になってくる。
 どうしてみんなボクから離れてゆくの? ボクが外から来た奴だから?
 もしかしたら、ボクは――――――


 気づいたらいけないことに気づいたとき、ボクは本能的に暗い暗い海の底へと泳いでいた。


 とにかく底へ向かっていた。そこがボクの居場所だと本能的に感じた。あの世界はボクの居るべき世界ではないのだと。
 だから、とにかく底へ。
 なぜだかだんだん体が重くなってくる。苦しい。
 だがいくら苦しくても、底へ、暗い世界へ。
 上には溢れていた光がだんだん弱くなり、音が聞こえなくなる。昔はほんの少しの光でも明るくて、音もよく聞こえたはずなのに。
 だんだん苦しくなって、耐え切れなくなる。何かに上から押さえつけられる感覚。
 そして終に、ボクの意識は完全に途切れた。


「間一髪でしたね。」
「もう少しで、水圧で押しつぶされて死んでしまうところだったからな……。センサーをつけておいて正解だったか。」
 遠くから聞き慣れた、どこか懐かしいような声が聞こえる。
 目を開けようとするが――おかしい。目が開かない。
「目はやられてしまったようですね。」
「ああ……だがどうして海底に戻ろうとしたのだろう?」
「その辺はもう少し研究が必要かと。」
 ボクはまた彼らに捕らえられたらしい。鉄の塊がプロペラで水をかき回す音は聞こえなかったけど。
「それにしてもすごいですね、博士。浅海でも生きる深海魚。遺伝子操作などは一切しておらず、餌と水圧操作だけでそんな奴を生み出すなんてノーベル賞モノですよ!」
「何を言う、まだこれからだよ。我々の目標は『浅海でも深海でも生きられる魚』を生み出すこと、さ。さて、今度はもう一度深海で生きられるよう、徐々に水圧を上げていくぞ。」
「はい。」

 以前何度も感じてきたものにも似た違和感が、ボクを襲った。

【小説】clock worker/空集合

2013年08月15日
 店を辞めてから十年余り。僕は一サラリーマンとして暮らしていた。朝起きて、出社して、働いて、帰宅して、風呂に入って。そうして一日が終わる。時計のように規則正しく短調な生活にはもう飽きてしまったが、こればかりは仕方がない。
 明日は日曜日か。久々に時計屋にでも行ってみようかな――と、そんなことを考えながら、今日も平坦な一日を終えた。

*  *  *

 最近では、街の時計屋もすっかり少なくなってしまった。僕が店をやっていたときはもう少し多かった気がするのだが……。昔のことを思い返したところで、そこに戻れるわけでは決してないのだが。
 久々に、時計屋に入る。店主のおじいちゃんが、俺を見て「ああ、君か」と嬉しそうに微笑んでくれた。
「はい、お久しぶりです」
 僕も微笑み返す。このおじいちゃんは、俺が店を出しているときも随分親切にしてくれたっけ。時計屋に来ると、どうしても過去のことを思い出してしまう。
 色々なことを思い出しながら店内を見回していると、ドアの開く音がした。
俺以外の客がくるなんて珍しい。
 そちらに目をやると、大学生と思われる男性と目があった。
「あっ、あなたはっ……!」
 若者がこんなところへ来たことよりも、相手のその反応に驚いた。相手は僕を知っているみたいだが、僕に大学生の知り合いなんていない。
 僕が固まっていると、相手は一方的に話を進めてきた。
「朝霧さんっ! 俺です、俺っ。ハルキです!」
「ハルキ……?」
 俺の知り合いにハルキなんて名前の人、いたっけ。
「あー……えっと、これ見ても思い出しませんか?」
 そう言ってハルキと名乗った男は、懐中時計を差し出す。一目みただけで、大事に使われてきたのがわかった。よく見たら、上蓋に“To Haruki”と刻印されていた。
 それで、思い出した。
「ハルキって……あの春輝君っ!?」
 僕が店をやっていたとき、六歳くらいの男の子がおじいちゃんに連れられて店にやってきたことがあった。その子供は店のことがひどく気に入ってしまったらしく、それから毎日のように来てくれたことがあったのだ。
 その子供は引越しをしなければならなくなったらしく、俺のところに来てわんわん泣きじゃくるものだから、俺は懐中時計をプレゼントしたのだ。
 そして、その懐中時計がこれだ。
「うん、俺だよ。春輝だよ。六歳のときに、朝霧さんの時計屋さんに通っていた」
「へぇー、懐かしいな。どうしてここに?」
「大学に進学するのにまた戻ってきたんですよ。だから久々に朝霧さんに会いに行こうと思って。でも、よく考えたら俺、お店の場所覚えてなくって……だから、色んな時計屋さんを回ってたんです。朝霧さんこそ、なんで? お店、今日休みなんですか?」
「えっと、それは……」
 いきなり現実を突きつけられた気がした。当然のことながら、春輝君は僕が店をやめたことは知らない。
 横目でちらりと時計屋のおじいちゃんを見る。おじいちゃんは、心配そうな瞳でこちらの様子を伺っていた。
「……立ち話もなんだから、カフェにでも行こうか」
 これ以上おじいちゃんを心配させるわけにはいかないと思った。

*  *  *

「えっ、朝霧さん、時計屋さんやめちゃったんですか……!?」
「うん。僕の母親が急に倒れちゃってね。お金が必要になって。やっぱり、時計屋じゃ生活していくのがやっとだったんだよ。それで、やむを得ずサラリーマンになったんだ」
「……そうですか」
 春輝君が俯きがちに言う。僕はなんと声をかけていいか分からず、沈黙が場を支配する。
「……あの、朝霧さん」
 しばらくして、春輝君が口を開いた。
「俺、時計屋さんを目指してるんです。なので、朝霧さんが暇なときでいいので、いろいろと教えてくれませんか……?」
「ぼ、僕が……?」
 急な申し出で少し驚いた。僕は一向に構わないが、ひとつだけ不安な点がある。
「今のご時世、時計屋なんて大変だよ? みんな携帯で事足りちゃってるし」
「それでもやりたいんです! バイトとかでお金もちゃんと貯めてますし……お願いしますっ!」
 その言葉を聞いて、なんだか嬉しくなった。今時こんなまっすぐ夢を終える若者もいるんだ。
 やはり彼の将来に多少の不安はあるものの、彼を応援したい、と心から思った。
「……じゃあいいよ。僕の住所と携帯教えるから」

*  *  *

 春輝くんは週に一回、土曜日の夜に来ることになった。時間が遅くなることも多く、そのときは春輝君が僕の家に泊まっていく。
 時計のようなつまらない毎日から、開放された気がした。
――時計がきっかけに、「時計のような」日々から開放されるだなんて、おかしな話だ。いや、もしかしたら「時計のような」なんて形容詞は間違っていたのかもしれない。時計はつまらないものなんかではないのだ。
 何はともあれ、僕は週一回、春輝君とこうやって時計のことを話し合ったり、時計を修理したりする時間が楽しくて、その時間が待ち遠しかった。

*  *  *

 土曜日の夜。インターフォンが鳴る。出ると、春輝君が大きな鞄を提げて立っていた。
「こんばんは。さ、早く入って」
 僕がそう促すと、春輝君は失礼します、と礼儀よく僕の部屋に入る。いつまでたっても居心地が悪そうに正座する春輝君に、コーヒーを差し出した。
「さて、今日は何をしようか」
「あっ、俺、家から時計持ってきたんです。古い時計なんですけど、直りますかね……?」
 そう言うと、春輝君は鞄から四角い時計を取り出した。確かに、相当年季が入っているのが見て取れる。こういう時計を見ると少し気持ちが高揚してしまうのは、最早天性なのだろう。
「朝霧さん、どうですかね……?」
「どうですかねって、これから春輝君が直すんでしょ? さ、やってみてよ」
「はっ、はいっ!」
 春輝君が時計裏のネジを外す。すると、時計の動力が見えた。思っていたものよりも古い型らしく、現在のものよりも大分前の動力だ。
「朝霧さん、これ……」
 見たことのない動力に、彼は動揺しているらしい。僕はというと、歓喜に震えていた。こんな時計、久々に見た。まだ見る機会があったなんて……
「ああ、これはね」
 春輝くんに説明をする。それと同時に、僕の手は時計へと伸びていた。

*  *  *

 時刻は午前一時。結局、四時間も掛かってしまった――まあ、僕が調子に乗って色んなところをいじりすぎてしまったせいもあるのだが――。
 時計がカチ、カチと時を刻む。どうやらちゃんと機能しているらしい。
「うわぁ……!」
 僕の作業工程を隣でずっと見ていた春輝君が、声をあげる。
「結局全部朝霧さんに任せちゃいましたね。ごめんなさい」
「いや、全然いいよ。僕も久々にこの型の時計をいじれて楽しかったし」
「そう言って貰えると、俺も嬉しいです」
 二人でははっ、と笑いあう。ああ、本当に僕は時計が好きなんだなぁ、と実感した。
 その後、眠る気にもなれず二人で酒を飲みながら――とはいっても、春輝くんはまだ未成年だからオレンジジュースだったが――色々な話を始めた。
 そのとき、不意に春輝君がこんなことを口走った。
「いやぁ、朝霧さんって本当に時計好きですよね。あんなのいじるだけで、すごいテンション上がっちゃうんだから」
「『あんなの』じゃないよ! あれは相当古い型だから今はなになか見ることができなくて……!」
「ほらーっ! そういうところとか、本当時計好き」
「ははっ! 所詮時計から引いた身だけどね」
 酔いが回ってきて、好きしいい気分になる。自虐的に言っても、心が痛くなることはない。
「……どうして、時計屋さんやめちゃったんですか? 本当に、勿体無いです」
「だーかーらーっ、それは前に説明したでしょ?」
 春輝君の真剣な訴えも、届いてこなかった。
「でも……どうして再開しようと思わないんです? お金は十分あるんじゃないですか?」
 その一言も冷静に受け取る事は出来ず、今度は怒りが押し寄せてきた。もう自分ではどうしようもない。
「……春輝君は何もわかってないね。今時大変なんだよ?」
 少し嘲笑気味になっていたのかもしれない。春輝君の顔にも怒りが広がるのがわかった。
「……わかってないのはどっちですか。本当は時計やりたいんでしょう? やりたいことやって何が悪いんですかっ!!」
 彼の怒鳴り声が、うるさい。
「やりたいことだけやってればいいってわけじゃねえんだよ!」
 気づいたら、口論になっていた。
「だからって夢を捨てるのも良くないと思います!」
「これだからお子様は。気楽でいいよな! 世の中なんて、所詮金なんだよっ。今時時計屋に人なんざ来ないんだよっ!」
「じゃあ朝霧さんは時計嫌いなんですかっ!?」
「んなわけねーだろ! 大好きだよっ!!」
「じゃあ時計屋さんやればいいじゃないですか!」
「っるせーよっ!」
――パシンッ……!
 何かを叩く音が、遠くから聞こえた。その音にはっとし、ふと我に帰る。その音は、自分が春輝君の頬を叩いた音だと気づくのには時間が掛かった。
「あっ……ごめん……」
 怒りで我を忘れていた。他人をひっぱいてしまった。どっと後悔が押し寄せる。春輝君の顔が、まともに見れない。
「すみません。俺、勝手なこと言いすぎました。帰ります」
 春輝くんは、淡々とここから出る準備を始めている。
 僕にはそれを止める権利なんてない。
「……ありがとうございました」
午前三時、春輝君が僕の家から飛び出した。
「本当、僕って最低……っ!」
 傷つけた。彼は僕のことを思ってくれていたのに。
 頬を叩いた右手が、じんじんと疼く。
――朝霧さんは時計嫌いなんですかっ!?
――じゃあ時計屋さんやればいいじゃないですか!
 春輝君の声が、脳内で反響する。
 その後、眠れない夜をどう過ごしたかは覚えていない。

*  *  *

 結局日曜日も何もせず、そのまま月曜日を迎えた。あれから、ずっと時計屋のことを考えていた。
 思い出すのは楽しかった記憶。あの頃に戻りたくないといえば嘘になるが、脱サラして時計屋になる勇気なんて僕にあるだろうか?
 色々なことを考えてはみるものの、何か答えが出るわけでもなく。サラリーマンの僕は会社へと向かった。
 平坦な机。平坦な画面。平坦な空間。
――時計のような、けれど時計とは明らかに違うこんな日々に、何の意味がある?
 自問しても、答えなんて出なかった。
 人知れずため息をつく。そのときだった。
 マナーモードにしている携帯が震えているのがわかった。メールだ。誰からだろう? 見てみると、そこには“春輝君”の文字。
 春輝君が……? 急いでメールを確認する。
『件名:ごめんなさい
 本文:朝霧さん、先日は本当にごめんなさい。
    でも俺、朝霧さんに時計屋さんを続けて欲しいって、心からそう思ってるんです。
    土曜日の夜、また朝霧さんの家に行ってもいいですか?』
 決して長くはないメール。それでも、僕の心は少し軽くなった気がした。
 春輝君と話せば、何か変わるかもしれない、なんて思ってしまったのだ。

*  *  *

 土曜日。あのメールに『こちらこそごめんなさい。是非来てください』といった返事をしたから、今日は春輝君がやってくるだろう。今までと変わらない訪問な筈なのに、今日ばかりはやけに緊張感を覚えた。
 ドキドキしながら待っていると、不意にインターフォンの音が聞こえた。ぱたぱたと急ぎ足で玄関に向かう。
「はーい」
「あの、先日は本当にごめんなさいっ!」
 扉を開けるなり、春輝君が頭を下げていて驚いた。
「とっ、取り敢えず中に入って……!」
 と促す。部屋に入っても、やはり彼は居心地が悪そうだ。
「本当にごめんなさい……」
 そんなに謝られた、こちらも困ってしまう。本当に謝らなければいけないのは僕の方なのに。
「俺、朝霧さんのこと何も考えてなくて……」
「ちょっと待って」
 流石にこれ以上謝られたらたまったもんじゃない。
「本当に謝らなきゃいけないのは僕の方だよ。春輝くんは僕のことを考えてくれていたのに……。挙句の果てにはひっぱたいちゃって。本当、申し訳なかったと思う。ごめんなさい」
 僕が謝ると、春輝君の顔は更に曇っていった。
「でも……」
 そう言って、黙り込んでしまう。
 この沈黙は何を意味しているのだろう? ただ、何となくこの沈黙を壊してはいけない気がして、ただ黙っていた。
 しばらくして、彼が重たい口を開く。
「俺っ……朝霧さんに時計屋さんをまたやって欲しいんです! 時計に関わってる朝霧さんは本当に楽しそうで……。けど、俺がここに帰ってきて初めて朝霧さんに会って、カフェで話したとき……。あのときの朝霧さんは、なんというか、俺の知ってる朝霧さんじゃなくて……。その時思ったんです。ああ。俺は時計と一緒にいる朝霧さんが好きなんだなあ、この人と一緒に働きたいなあ、って」
「俺と、一緒に……?」
 驚いた。春輝君が俺と働きたいと思ってくれていたなんて。春輝君を見てみると、顔が真っ赤だ。どうやらそこまで言うつもりはなかったらしい。
「あっ……はいっ……朝霧さんと一緒に働くのが、僕の夢だったんです……! でっ、でも、迷惑とかは全然かけませんし……」
 真っ赤になって言う姿がなんだか可愛らしくて。
「そっか……ははっ」
 思わず笑いがこみ上げてくる。
 こんなにも楽しいのは、時計があったから春輝君がいてくれたから。春輝君と時計が僕を救ってくれた。だから、僕は。
「じゃあ、少しだけ考えてみるよ」
「本当ですかっ……!?」
 春輝君と働きたいと思った。
「その代わり、今までみたいに毎週来てくれる? 一緒に時計触りたい」
「もちろんですっ!」
 春輝君が大学を卒業したら、時計屋を再開しようかな、と思った。そのときまで、春輝君が時計を愛してくれて、僕と一緒に働きたいと言ってくれたなら。
 まあ、今の彼を見ていたら、そんなことは容易にこなしてしまうと思えるのだが。
――春輝君が卒業するまでに、僕が脱サラする勇気をつける方が大変かな。
 そんなことを思った。