旭川東高校文芸部 http://kyokutoubungei.grupo.jp/ ja 旭川東高校文芸部 http://kyokutoubungei.grupo.jp/ 「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」 http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1581560 「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」旭川東三年柳元佑太田中裕明は、岸本尚毅や櫂未知子、長谷川櫂や小澤實らと共に活躍した、いわゆる昭和三十年代俳人の一人である。一九五九年、大阪市生まれ。高校生のころ島田牙城に誘われ「青」に入会し、波多野爽波の選を受け、京都大学在学中に、史上最年少二十二歳で角川賞を獲る。二〇〇四年の十二月三十日、骨髄性白血病による肺炎で、四十五歳という若さで逝去した。(『セレクション俳人田中裕明集』収録「田中裕明略歴」/二刷を参照)裕明には、句柄の転換期があると評されることがあり、岸本尚毅の「句集解題・それぞれの句集について」(『田中裕明全句集』)でも前期と後期に分けて語られている。前期は、第一句集『山信』第二句集『花間一壺』第三句集『桜姫譚』の、二十代から三十にかけて。後期は、第四句集『先生から手紙』、死後に刊行された第五句集『夜の客人』の、三十から四十代にかけての、晩年と呼べるような時期にあたる。前期は、豊富な型と凝ったレトリック、後期は、平明かつ明るい詩情によって特徴づけられるように思う。ぼくは、前期と後期どちらが好きかと問われると、結構困ってしまう。ミーハーめいたことをいうと、前期も後期も好きなのだ。ただ、おそらくぼくは、前期と後期の句をそれぞれ異なるやり方で面白がっているのではなくて、裕明の句のなかに一貫して流れている何かを好んでいるゆえ、前期の句も、後期の句も好きなのだと思う。裕明評にはこれからも何度も挑戦するつもりなので、一貫して流れる何かについては、少しずつその水脈を辿っていきたい。まず今回はその序章として、『セレクション俳人田中裕明集』から第二句集『花間一壺』を鑑賞してみる。『花間一壺』は、牧羊社から一九八五年に刊行された句集で、裕明の二十一歳から二十五歳の時期にあたる。角川賞を獲った「童子の夢」五十句からも、〈春昼の壺盗人の酔ふてゐる〉〈あゆみきし涅槃の雪のくらさかな〉などの十一句が収録されている句集でもある。『花間一壺』には、平面で澄んだ詩情といった後期の裕明の句の文脈では掬い取れない面白さがあるので、本論ではそこを掘り下げて見ていきたい。裕明は取り合わせを中心に語られることが多い。『花間一壺』にも、惚れ惚れするような取合わせの句がいくつもある。天道蟲宵の電車の明るくて桐一葉入江かはらず寺はなく雪舟は多くのこらず秋螢夏やなぎ湯を出て肩の匂ひけり鋭きものを恐るる病ひ更衣どれもぼくの愛唱句だ。一句目には、明るい〈宵の電車〉と取合わせられた、〈天道虫〉の生活感のある儚さがあるし、二句目には、緩やかで無常な空間がある。三句目は長い時間を経た〈雪舟〉と〈秋螢〉が時間をはるけきものにする。どの句も裕明の代表句といって良いはずだ。ただ、これらは『花間一壺』のなかでは割に平明で、語りやすい句だ。そして、平明ではなく、語りにくい句が、『花間一壺』にはたくさん見受けられる。むしろ『花間一壺』を特徴づけるのは、そのような句であるようにも思うのだ。それらを鑑賞するために、今回は取合わせではなく、裕明の独特な助詞に注目してみたい。裕明の助詞のなにが独特なのかというと、一句を文法的に切らない助詞を、積極的に選ぶという点である。『セレクション俳人田中裕明集』収録の、小澤實による「平安の壺」と銘打つ『花間一壺』評のなかでも、〈ぐだくだと一行が続いていく。すっきりしない。短歌的な印象がある。〉とやや否定的な側面から、そのことについて触れられている。小澤が引用している句を引いてみる。この旅も半ばは雨の夏雲雀たしかにこの句はある種、短歌的だという指摘を受け付ける。それはおそらく、中七の最後の助詞「の」に起因する。旅の最中、雨が降り出してきた。振り返れば前回の旅も雨だったはずで、またしても旅の半ばは雨だ。そんな思いを抱いたとき、どこからか夏雲雀の声が聞こえる、あるいは夏雲雀が横切った——句意はこれくらいだろう。この句意を鑑みるに、措辞と〈夏雲雀〉との取り合わせであるから、中七に意味としての断絶を持つはずであり、前述の指摘を避けるには〈この旅も半ばは雨よ夏雲雀〉とでもすればよいはずである。しかしながら裕明はここを「の」で繋ぐ。ぼくには、これが成功しているか失敗しているかは分からないけれど、少なくとも短歌的だ、などとして簡単に失敗と言い切ってはいけない何かがあることも、同時に思う。短歌的であるというのはあくまでも副次的なものであり、裕明にとってのメインパーパス、意図したところはこれではなかったように思うのである。ではその意図するところはなんであったのかというと、それは非常に言語化しづらくて、ひとまずぼくが考え得るところを記す。この助詞「の」は、文法により、断絶されるべき二者のスキマティックな結びつきを強めることで、二者があたかも意味上の断絶を乗り越えて、意味としてすら結びついているような感覚を生み出しているのではないだろうか。(以後、語彙と文法により理解される句の意味を「本来的な句意」、文法による裏打ちしか持たないスキマティックな句の意味を「文法的な句意」と呼ぶ)抽象的になってしまったので、この句において換言してみる。〈この旅も半ばは雨〉と〈夏雲雀〉は、意味の上では断絶を持つはずの取り合わせであるにも関わらず、その二者が切れを挟んで対等な関係として並置されないように、助詞「の」で繋がれる。「文法的な句意」の獲得により、二者が意味とは別の空間——文法の空間——で、相互に関わり合う。それにより、〈この旅は半ばは雨の〉というイメージを引き受けた〈夏雲雀〉が「本来的な句意」の裏側、意味で回収しきれないねじれの位置に潜むことになるのである。おそらくぼくたちのプリミティブな読みにおいて、「本来的な句意」と「文法的な句意」は、互いを排斥する関係にはない。もちろん最後は「本来的な句意」に「文法的な句意」は回収されると思うのだけれど、その回収された分の情報が、「本来的な句意」に言語化されない詩情として、影響を及ぼすのではないか。あるいは、それが「本来的な句意」によって回収されないことによって、「本来的な句意」を回収したにも関わらず、まだ句がなんらかの詩情を含有しているような感覚が生じるのではないか。上五中七のイメージを多分に受け止めた〈夏雲雀〉の淡い明るさが、ぼくは好きなのである。このような使い方の助詞が現れている句は『花間一壺』において、他にもある。いちにちをあるきどほしの初櫻〈いちにちをあるきどほし〉という措辞と〈初櫻〉が並置される関係を超えて結びつく。〈いちにちをあるきどほし〉である主体は〈わたし〉であるにも関わらず、文法的に主体になり得る可能性を秘めた〈初櫻〉がこの句においては主体のように振る舞う。この時、一瞬ぼくたちは歩きどおしで疲れのある〈わたし〉の身体と、春先でまだ冷たい幹を持てる〈初櫻〉が重なるような身体感覚を引き受ける。裕明特有の助詞「の」の使用法は、〈意味における切れ〉と〈文法における切れ〉をずらすことにより、単純明快な二者の振幅の構造により理解されることを拒む。意味でないところで二者の結びつけを強め、多層的な質感を演出するのだ。そういえば昔、祖父母の家に行くと、なぜだか分からないけれど、大量のセロファン紙があった。赤、青、黄、緑。どれも半透明で、何色重ねてもぼやっと向こう側のひかりが見える。小さい頃のぼくは、そのひかりにドキドキした。裕明の助詞「の」は、これに似ていると思う。その向こうからやってくるひかりを遮らずに、様々なイメージを幾重にも重ね合わせ、詩情に重層性を持たせるのである。思ひ出せぬ川のなまへに藻刈舟さだまらぬ旅のゆくへに盆の波また、助詞「に」も、独特の使い方がされている。「に」で繋がれている二者も、一般的には取合わせとして書くべき内容であるはずのものなのである。一句目と二句目ともに、中七で切れを伴うのが普通だ。しかしながら裕明は、これも緩やかに助詞を用いて繋いでゆく。このように使われる助詞「に」は〈概念を場所化する〉とでも言おうか。句において具体的に換言してみる。一句目、〈思ひ出せぬ川のなまへ〉というわたし的な概念を「に」によって場所化し、水がたゆたうぼんやりとした空間として立ち上げる。そしてこれにより〈藻刈舟〉が浮かぶことができる空間を確保する。意味としては概念を書いているにも関わらず、テクニカルな助詞により、〈川に舟が浮かんでいる〉という景を具象的に喚起するという、非常に技巧的なことが起きている。二句目もそうだ。〈さだまらぬ旅のゆくへ〉という概念を、助詞「に」によって、さもそれが物質的な空間であるかのように立ち上げる。そしてそこには〈盆の波〉が寄せては引いていく。裕明の助詞「に」は、概念のなかに現実を引き入れ、概念を現実と同じ段階のように見せるのだ。探梅やここも人住むぬくさにて午後もまた山影あはし幟の日この旅も半ばは雨の夏雲雀月もまた七種いろに出でしかな山茱萸の道も三日を経にけるや柳散る夜もうるはし上京はまひるまも倉橋山の枇杷の花影もまたひとり酔へるか春の月今度は、『花間一壺』において助詞「も」が見られる句を引いてみた。この句数を見ればわかる通り、助詞「も」を含む型は、とりわけ裕明が好んで使うものの一つだ。そういえば第一句集『山信』に収められている初期の代表句〈大学も葵祭のきのふけふ〉にも、この助詞が見られる。そう言った意味で助詞「も」は、裕明の志向がよく表出しているものなのではないかと思う。二句目。〈午後もまた〉という措辞の前提にあるのは、「午後以外の時間」だ。ぼくたちがこの句に時間の流れを感じるのは、ひとえにこの助詞の効果である。七句目〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉もそうだ。〈まひるまも〉の措辞の背景にある淡さは〈まひるま以外の時間〉によって裏打ちされている。〈倉橋山〉という固有名詞のゆかしさや閉鎖性も相まって、現実から乖離した永遠性の明るさが、そこに現れる。しかしながら、助詞「も」は写生という概念と相性が悪い。眼前にあるものを言葉で写し取ろうとするとき、写し取ろうとする対象とは別のものの存在を添加する「も」は、写生にとっては過分な情報であるからだ。写生の理論の反対を向いているという点では、助詞「の」、助詞「に」の使い方にもこれは通じるだろう。なぜ裕明はこのような助詞を使うのか。それは、裕明が写生よりも詩情を優先する俳人であったからである。ゆえに、写生の考えが制限をかけるテリトリーを侵してでも、技巧的な手段を用いて詩情を生み出そうとする。晩年に創刊、主宰した「ゆう」の創刊の言葉には、「写生と季語の本意を基本に詩情を大切にする」とある。ぼくには、これは詩情を「主」とし、写生を「従」とする、という宣言にすら聞こえる。前期、後期ともに、なによりも詩情を重んじるという姿勢を裕明は貫いているのだ。その意識が、前期においては、複雑な助詞——写生でなく詩情を重視した結果——として、現れているのではないか。輪郭をくっきりと描きとるのではなく、ぼんやりとした水彩画のような滲みを生む助詞こそ、裕明が詩情を描き出すための方法、レパートリーのひとつだったのである。といっても、この詩情というのは先に挙げた〈天道虫宵の電車の明るくて〉〈桐一葉入江かはらず寺はなく〉とは、やはり異なる手触りを持つ。〈この度も半ばは雨の夏雲雀〉〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉にはもっとなにか言語的な、抽象的ななにかを感じるのである。それは、これまで示してきたように、一句が、助詞や難しい切れという「言語的な装置」を備えているから、というのが一つの理由であろう。そして、その「言語的な装置」は、個人の体験としての〈その夏雲雀〉ではなくて、歴史の中で言葉が引き受けてきた、体系としてのイメージの〈夏雲雀〉へと、ぼくたちを誘う。そこは、体験を媒介として必要としない、直接的な言語イメージの世界なのである。そしてそのような読まれ方を、おそらく裕明は了解済みだ。そのうえで、どのように良質な詩情を醸し出すことが出来るか、ということが、『花間一壺』における裕明の一つの挑戦であったように思える。(あとがき)高校二年の夏、第十八回松山俳句甲子園で森賀まりさんとご縁があり、そして『セレクション俳人田中裕明集』に出会った。白状すると、裕明の句の魅力はその頃、全然わからなかった。(今も分かっているかはだいぶ怪しいけれど)ただ、気になった句には印を付けながら読むことにしているので、そのときぼくが裕明のどんな句を喜んでいたかはわかる。そして今、その頃と俳句観がかなり変わったなかで、裕明の句集を再び読み直している。しかしながら、現在ぼくが好きな裕明の句の一つに、あのころのぼくはきちんと印をつけていて、ちょっと不思議な気持ちになった。野分雲悼みてことばうつくしく死を悼めば、そのことばがうつくしい、というのは、あるいは抒情過多かもしれない。でも、これはぼくの中で一生大切にされる句であるような予感がとても、する。この感覚を信じることができるから、ぼくは俳句を書いてこれたし、これからもたぶん書ける。今回の論はかなり理屈っぽかったが、結局のところ、俳句をやっていけるかどうかは、このように思える句を、どれほど心の中に持てるかだと思う。そして、そのように思える句に高校生のうちに出会えたことを、本当に嬉しく思う。そういった意味で、俳句甲子園がぼくに俳句の入り口を開いてくれたことを感謝しなければならない。ついでなので、ちょっとだけ俳句甲子園について書くと、「俳句甲子園が俳句の全てじゃない」ということを俳句甲子園自体が教えてくれる存在であったおかげで、ぼくはちょっとだけ人より多く成長できた気がする。俳句甲子園を終えたぼくには、俳句が残った。俳句甲子園は良い場所だなと思う。話を戻そう。裕明の句は、飴玉が溶け出すように、少しずつ素敵なところに気づける。そんなところも、好きだ。それはぼくが単に鈍感なだけなのかもしれないけれど。ただ、だいぶ前に舐めたその飴玉は、今もまだ、ぼくの口の中にある。全然舐め終わらないうえに、そもそも何の味なのか、舐めている今も実はよくわかっていない。困った。*句は正字表記ですが、都合により一部新字としています。(参考文献)『セレクション俳人田中裕明集』邑書林/二〇〇三『田中裕明全句集』ふらんす堂/二〇〇七 2016-12-30T10:33:00+09:00 「助詞から『花間一壺』を見晴るかす」旭川東三年柳元佑太田中裕明は、岸本尚毅や櫂未知子、長谷川櫂や小澤實らと共に活躍した、いわゆる昭和三十年代俳人の一人である。一九五九年、大阪市生まれ。高校生のころ島田牙城に誘われ「青」に入会し、波多野爽波の選を受け、京都大学在学中に、史上最年少二十二歳で角川賞を獲る。二〇〇四年の十二月三十日、骨髄性白血病による肺炎で、四十五歳という若さで逝去した。(『セレクション俳人田中裕明集』収録「田中裕明略歴」/二刷を参照)裕明には、句柄の転換期があると評されることがあり、岸本尚毅の「句集解題・それぞれの句集について」(『田中裕明全句集』)でも前期と後期に分けて語られている。前期は、第一句集『山信』第二句集『花間一壺』第三句集『桜姫譚』の、二十代から三十にかけて。後期は、第四句集『先生から手紙』、死後に刊行された第五句集『夜の客人』の、三十から四十代にかけての、晩年と呼べるような時期にあたる。前期は、豊富な型と凝ったレトリック、後期は、平明かつ明るい詩情によって特徴づけられるように思う。ぼくは、前期と後期どちらが好きかと問われると、結構困ってしまう。ミーハーめいたことをいうと、前期も後期も好きなのだ。ただ、おそらくぼくは、前期と後期の句をそれぞれ異なるやり方で面白がっているのではなくて、裕明の句のなかに一貫して流れている何かを好んでいるゆえ、前期の句も、後期の句も好きなのだと思う。裕明評にはこれからも何度も挑戦するつもりなので、一貫して流れる何かについては、少しずつその水脈を辿っていきたい。まず今回はその序章として、『セレクション俳人田中裕明集』から第二句集『花間一壺』を鑑賞してみる。『花間一壺』は、牧羊社から一九八五年に刊行された句集で、裕明の二十一歳から二十五歳の時期にあたる。角川賞を獲った「童子の夢」五十句からも、〈春昼の壺盗人の酔ふてゐる〉〈あゆみきし涅槃の雪のくらさかな〉などの十一句が収録されている句集でもある。『花間一壺』には、平面で澄んだ詩情といった後期の裕明の句の文脈では掬い取れない面白さがあるので、本論ではそこを掘り下げて見ていきたい。裕明は取り合わせを中心に語られることが多い。『花間一壺』にも、惚れ惚れするような取合わせの句がいくつもある。天道蟲宵の電車の明るくて桐一葉入江かはらず寺はなく雪舟は多くのこらず秋螢夏やなぎ湯を出て肩の匂ひけり鋭きものを恐るる病ひ更衣どれもぼくの愛唱句だ。一句目には、明るい〈宵の電車〉と取合わせられた、〈天道虫〉の生活感のある儚さがあるし、二句目には、緩やかで無常な空間がある。三句目は長い時間を経た〈雪舟〉と〈秋螢〉が時間をはるけきものにする。どの句も裕明の代表句といって良いはずだ。ただ、これらは『花間一壺』のなかでは割に平明で、語りやすい句だ。そして、平明ではなく、語りにくい句が、『花間一壺』にはたくさん見受けられる。むしろ『花間一壺』を特徴づけるのは、そのような句であるようにも思うのだ。それらを鑑賞するために、今回は取合わせではなく、裕明の独特な助詞に注目してみたい。裕明の助詞のなにが独特なのかというと、一句を文法的に切らない助詞を、積極的に選ぶという点である。『セレクション俳人田中裕明集』収録の、小澤實による「平安の壺」と銘打つ『花間一壺』評のなかでも、〈ぐだくだと一行が続いていく。すっきりしない。短歌的な印象がある。〉とやや否定的な側面から、そのことについて触れられている。小澤が引用している句を引いてみる。この旅も半ばは雨の夏雲雀たしかにこの句はある種、短歌的だという指摘を受け付ける。それはおそらく、中七の最後の助詞「の」に起因する。旅の最中、雨が降り出してきた。振り返れば前回の旅も雨だったはずで、またしても旅の半ばは雨だ。そんな思いを抱いたとき、どこからか夏雲雀の声が聞こえる、あるいは夏雲雀が横切った——句意はこれくらいだろう。この句意を鑑みるに、措辞と〈夏雲雀〉との取り合わせであるから、中七に意味としての断絶を持つはずであり、前述の指摘を避けるには〈この旅も半ばは雨よ夏雲雀〉とでもすればよいはずである。しかしながら裕明はここを「の」で繋ぐ。ぼくには、これが成功しているか失敗しているかは分からないけれど、少なくとも短歌的だ、などとして簡単に失敗と言い切ってはいけない何かがあることも、同時に思う。短歌的であるというのはあくまでも副次的なものであり、裕明にとってのメインパーパス、意図したところはこれではなかったように思うのである。ではその意図するところはなんであったのかというと、それは非常に言語化しづらくて、ひとまずぼくが考え得るところを記す。この助詞「の」は、文法により、断絶されるべき二者のスキマティックな結びつきを強めることで、二者があたかも意味上の断絶を乗り越えて、意味としてすら結びついているような感覚を生み出しているのではないだろうか。(以後、語彙と文法により理解される句の意味を「本来的な句意」、文法による裏打ちしか持たないスキマティックな句の意味を「文法的な句意」と呼ぶ)抽象的になってしまったので、この句において換言してみる。〈この旅も半ばは雨〉と〈夏雲雀〉は、意味の上では断絶を持つはずの取り合わせであるにも関わらず、その二者が切れを挟んで対等な関係として並置されないように、助詞「の」で繋がれる。「文法的な句意」の獲得により、二者が意味とは別の空間——文法の空間——で、相互に関わり合う。それにより、〈この旅は半ばは雨の〉というイメージを引き受けた〈夏雲雀〉が「本来的な句意」の裏側、意味で回収しきれないねじれの位置に潜むことになるのである。おそらくぼくたちのプリミティブな読みにおいて、「本来的な句意」と「文法的な句意」は、互いを排斥する関係にはない。もちろん最後は「本来的な句意」に「文法的な句意」は回収されると思うのだけれど、その回収された分の情報が、「本来的な句意」に言語化されない詩情として、影響を及ぼすのではないか。あるいは、それが「本来的な句意」によって回収されないことによって、「本来的な句意」を回収したにも関わらず、まだ句がなんらかの詩情を含有しているような感覚が生じるのではないか。上五中七のイメージを多分に受け止めた〈夏雲雀〉の淡い明るさが、ぼくは好きなのである。このような使い方の助詞が現れている句は『花間一壺』において、他にもある。いちにちをあるきどほしの初櫻〈いちにちをあるきどほし〉という措辞と〈初櫻〉が並置される関係を超えて結びつく。〈いちにちをあるきどほし〉である主体は〈わたし〉であるにも関わらず、文法的に主体になり得る可能性を秘めた〈初櫻〉がこの句においては主体のように振る舞う。この時、一瞬ぼくたちは歩きどおしで疲れのある〈わたし〉の身体と、春先でまだ冷たい幹を持てる〈初櫻〉が重なるような身体感覚を引き受ける。裕明特有の助詞「の」の使用法は、〈意味における切れ〉と〈文法における切れ〉をずらすことにより、単純明快な二者の振幅の構造により理解されることを拒む。意味でないところで二者の結びつけを強め、多層的な質感を演出するのだ。そういえば昔、祖父母の家に行くと、なぜだか分からないけれど、大量のセロファン紙があった。赤、青、黄、緑。どれも半透明で、何色重ねてもぼやっと向こう側のひかりが見える。小さい頃のぼくは、そのひかりにドキドキした。裕明の助詞「の」は、これに似ていると思う。その向こうからやってくるひかりを遮らずに、様々なイメージを幾重にも重ね合わせ、詩情に重層性を持たせるのである。思ひ出せぬ川のなまへに藻刈舟さだまらぬ旅のゆくへに盆の波また、助詞「に」も、独特の使い方がされている。「に」で繋がれている二者も、一般的には取合わせとして書くべき内容であるはずのものなのである。一句目と二句目ともに、中七で切れを伴うのが普通だ。しかしながら裕明は、これも緩やかに助詞を用いて繋いでゆく。このように使われる助詞「に」は〈概念を場所化する〉とでも言おうか。句において具体的に換言してみる。一句目、〈思ひ出せぬ川のなまへ〉というわたし的な概念を「に」によって場所化し、水がたゆたうぼんやりとした空間として立ち上げる。そしてこれにより〈藻刈舟〉が浮かぶことができる空間を確保する。意味としては概念を書いているにも関わらず、テクニカルな助詞により、〈川に舟が浮かんでいる〉という景を具象的に喚起するという、非常に技巧的なことが起きている。二句目もそうだ。〈さだまらぬ旅のゆくへ〉という概念を、助詞「に」によって、さもそれが物質的な空間であるかのように立ち上げる。そしてそこには〈盆の波〉が寄せては引いていく。裕明の助詞「に」は、概念のなかに現実を引き入れ、概念を現実と同じ段階のように見せるのだ。探梅やここも人住むぬくさにて午後もまた山影あはし幟の日この旅も半ばは雨の夏雲雀月もまた七種いろに出でしかな山茱萸の道も三日を経にけるや柳散る夜もうるはし上京はまひるまも倉橋山の枇杷の花影もまたひとり酔へるか春の月今度は、『花間一壺』において助詞「も」が見られる句を引いてみた。この句数を見ればわかる通り、助詞「も」を含む型は、とりわけ裕明が好んで使うものの一つだ。そういえば第一句集『山信』に収められている初期の代表句〈大学も葵祭のきのふけふ〉にも、この助詞が見られる。そう言った意味で助詞「も」は、裕明の志向がよく表出しているものなのではないかと思う。二句目。〈午後もまた〉という措辞の前提にあるのは、「午後以外の時間」だ。ぼくたちがこの句に時間の流れを感じるのは、ひとえにこの助詞の効果である。七句目〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉もそうだ。〈まひるまも〉の措辞の背景にある淡さは〈まひるま以外の時間〉によって裏打ちされている。〈倉橋山〉という固有名詞のゆかしさや閉鎖性も相まって、現実から乖離した永遠性の明るさが、そこに現れる。しかしながら、助詞「も」は写生という概念と相性が悪い。眼前にあるものを言葉で写し取ろうとするとき、写し取ろうとする対象とは別のものの存在を添加する「も」は、写生にとっては過分な情報であるからだ。写生の理論の反対を向いているという点では、助詞「の」、助詞「に」の使い方にもこれは通じるだろう。なぜ裕明はこのような助詞を使うのか。それは、裕明が写生よりも詩情を優先する俳人であったからである。ゆえに、写生の考えが制限をかけるテリトリーを侵してでも、技巧的な手段を用いて詩情を生み出そうとする。晩年に創刊、主宰した「ゆう」の創刊の言葉には、「写生と季語の本意を基本に詩情を大切にする」とある。ぼくには、これは詩情を「主」とし、写生を「従」とする、という宣言にすら聞こえる。前期、後期ともに、なによりも詩情を重んじるという姿勢を裕明は貫いているのだ。その意識が、前期においては、複雑な助詞——写生でなく詩情を重視した結果——として、現れているのではないか。輪郭をくっきりと描きとるのではなく、ぼんやりとした水彩画のような滲みを生む助詞こそ、裕明が詩情を描き出すための方法、レパートリーのひとつだったのである。といっても、この詩情というのは先に挙げた〈天道虫宵の電車の明るくて〉〈桐一葉入江かはらず寺はなく〉とは、やはり異なる手触りを持つ。〈この度も半ばは雨の夏雲雀〉〈まひるまも倉橋山の枇杷の花〉にはもっとなにか言語的な、抽象的ななにかを感じるのである。それは、これまで示してきたように、一句が、助詞や難しい切れという「言語的な装置」を備えているから、というのが一つの理由であろう。そして、その「言語的な装置」は、個人の体験としての〈その夏雲雀〉ではなくて、歴史の中で言葉が引き受けてきた、体系としてのイメージの〈夏雲雀〉へと、ぼくたちを誘う。そこは、体験を媒介として必要としない、直接的な言語イメージの世界なのである。そしてそのような読まれ方を、おそらく裕明は了解済みだ。そのうえで、どのように良質な詩情を醸し出すことが出来るか、ということが、『花間一壺』における裕明の一つの挑戦であったように思える。(あとがき)高校二年の夏、第十八回松山俳句甲子園で森賀まりさんとご縁があり、そして『セレクション俳人田中裕明集』に出会った。白状すると、裕明の句の魅力はその頃、全然わからなかった。(今も分かっているかはだいぶ怪しいけれど)ただ、気になった句には印を付けながら読むことにしているので、そのときぼくが裕明のどんな句を喜んでいたかはわかる。そして今、その頃と俳句観がかなり変わったなかで、裕明の句集を再び読み直している。しかしながら、現在ぼくが好きな裕明の句の一つに、あのころのぼくはきちんと印をつけていて、ちょっと不思議な気持ちになった。野分雲悼みてことばうつくしく死を悼めば、そのことばがうつくしい、というのは、あるいは抒情過多かもしれない。でも、これはぼくの中で一生大切にされる句であるような予感がとても、する。この感覚を信じることができるから、ぼくは俳句を書いてこれたし、これからもたぶん書ける。今回の論はかなり理屈っぽかったが、結局のところ、俳句をやっていけるかどうかは、このように思える句を、どれほど心の中に持てるかだと思う。そして、そのように思える句に高校生のうちに出会えたことを、本当に嬉しく思う。そういった意味で、俳句甲子園がぼくに俳句の入り口を開いてくれたことを感謝しなければならない。ついでなので、ちょっとだけ俳句甲子園について書くと、「俳句甲子園が俳句の全てじゃない」ということを俳句甲子園自体が教えてくれる存在であったおかげで、ぼくはちょっとだけ人より多く成長できた気がする。俳句甲子園を終えたぼくには、俳句が残った。俳句甲子園は良い場所だなと思う。話を戻そう。裕明の句は、飴玉が溶け出すように、少しずつ素敵なところに気づける。そんなところも、好きだ。それはぼくが単に鈍感なだけなのかもしれないけれど。ただ、だいぶ前に舐めたその飴玉は、今もまだ、ぼくの口の中にある。全然舐め終わらないうえに、そもそも何の味なのか、舐めている今も実はよくわかっていない。困った。*句は正字表記ですが、都合により一部新字としています。(参考文献)『セレクション俳人田中裕明集』邑書林/二〇〇三『田中裕明全句集』ふらんす堂/二〇〇七 高校生らしさを考える http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1248428 「高校生らしさ」について思うこと(柳元佑太)「高校生らしさ」という言葉は、反感を憶えていた言葉のひとつだった。とまあ、過去形であるのは、既に自分の中で折り合いの付いている言葉であるからだ。ようするにそんなことを気にしなければ良いのだ。ぼくは書きたいものを書く。けれども「高校生らしさ」という言葉自体に、そのままにしておけないあやふやさは未だに感じている。それに、「高校生らしさ」について高校生が語るという、青臭い面白さを見過ごすことはできない。どうせ高校生のときにしか当事者問題とならないのだし、少し書いてみようと思う。北国の高校生の独り言くらいに思ってほしい。まず、ぼくは「高校生らしい良さ」というのは、誰がなんと言おうと存在すると思っている。俳句甲子園の入賞句や、これまでの高校生を対象にしたコンテストの大賞句なんかを引けば、理屈なしに分かるはずだ。○キャンバスに赤といふ意思秋澄みぬ(川村貴子)これは二千十四年の神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀句だ。キャンバスには赤。それは意思であり、キャンバスに対峙する強さだ。澄みぬ、という一瞬の把握、素敵だ。○号砲や飛び出す一塊の日焼(兵頭輝)これは第十八回の俳句甲子園の最優秀句。号砲が鳴り、めいっぱい飛び出していく日焼けした身体。そのほんのコンマ何秒。一塊の日焼、なんて把握も省略と客体化が効いていて気持ち良い。○向日葵が全校生徒より多い(山下真)これも第十八回俳句甲子園より。散文的であることがなにかしらの切実さを生み、詩性を打ち出す。言葉に無理をさせない作りながら、隙がない。三句しか引かなかったが、きっと十分すぎるだろう。そこには彼らの実感があって、青春の息遣いのようなものが確かにある。確かで伸びやかな感覚がびったり定型に嵌ったときの強さなんかには本当にため息をつきたくなる。こんな句作れるものなら作ってみたい。そしてこの場合の「高校生らしさ」というのは、そのときにしかない瞬間性や実感、すなわち得難いリアリティ——それに読む側の、青春という切なさを求める気持ちを少し投影したもの——なんて言い換えることが出来るんじゃないだろうか。しかしである。この意味の「高校生らしさ」というのは一つの属性でしかないはずだ。当たり前だけれど、俳句を評価する観点のひとつ、たとえば「丁寧な写生だね」だとか「うおお、すごい二物衝撃だ」だとか「ふふふ、これは俳諧性があるなぁ」だとかと同じものではないだろうか。つまり必ずしも全てを満たす必要はなく(写生と二物衝撃なんて両立しないだろうし)、その中の幾つかを満たすことで句としての魅力を獲得する。「高校生らしさ」ということも句を構成する一つの魅力ではあるが、句の魅力を構成する全てではない。必ずしも必要な条件ではないのである。よって、その要素を持つ句に対して高校生らしさという観点を鑑賞することは出来ても、すべての句に高校生らしさを求めることは出来ないのではないかなぁと思っている。語気に覇気がないのは、背景に複雑な問題がある気がしているからで、それは作者を作品に反映させるかどうか、つまり俳句に十七音以外の要素を認めるかどうかということだ。たとえば子規の絶筆三句はそのままでも面白いけれど、でも子規に関する背景を知っている方が絶対に分かりがよい。このことには、書くべきことを持つ世代と持たない世代の意識差なんかも絡むと思うのだけれど、手に負えないのでここでは割愛しようと思う。とりあえずぼくは一句はその十七音で完結するべきだと思っているので、十七音以外の要素がそれに干渉する形で魅力を求められても、簡単には諾えない。それに、周りを見てみれば素敵な高校生らしい俳句が、今この一瞬に切実さを覚えないくらいにはたくさんある。高校生からすればそれは結構重要で、高校生らしさがあるというだけでは高校生のなかではアイデンディティたり得ないと思うのだ。高校生が対象の俳句賞は、おそらく「高校生らしさ」がキーワードなのは言うまでもない。「高校生らしさ」についてあれこれネガティヴなニュアンスの発言をしてきた訳だけれど、でもぼくはそれをどうしてほしいというわけではないし、むしろそれはそのままで良いんじゃないかと思う。高校生らしさは、ぼくらの砦だ。書きたいことがあるのに技巧が追いついていかない、高校生の俳句はそんな句がきっと、多い。そんな句を掬いあげてくれるのが「高校生らしさ」でもあるんじゃないだろうか。そうして掬いあげて貰うことで「俳句って楽しいな、勉強してみよう」くらいに思う人がいるならば、それは十分すぎるほど価値がある。そして、ぼくたちは気づく。いずれその砦を出なければならない。しかもその砦は時が流れるにつれ、自然とぼくたちの周りから消えてしまう。そして砦の外では、内容をより面白く伝えるためのそれ相応の技巧が必要だ。十の面白さを伝える適切な技巧が十だとするならば、八でも十二でもない技巧を身につけることがきっと、必要になる。気づけばもう高三になる。振り返れば、砦の中では書きたいものがあまり見つからなかったので、そろそろ砦を出る準備を始めようかな、なんて、思ひゐし。 2016-03-18T18:39:00+09:00 「高校生らしさ」について思うこと(柳元佑太)「高校生らしさ」という言葉は、反感を憶えていた言葉のひとつだった。とまあ、過去形であるのは、既に自分の中で折り合いの付いている言葉であるからだ。ようするにそんなことを気にしなければ良いのだ。ぼくは書きたいものを書く。けれども「高校生らしさ」という言葉自体に、そのままにしておけないあやふやさは未だに感じている。それに、「高校生らしさ」について高校生が語るという、青臭い面白さを見過ごすことはできない。どうせ高校生のときにしか当事者問題とならないのだし、少し書いてみようと思う。北国の高校生の独り言くらいに思ってほしい。まず、ぼくは「高校生らしい良さ」というのは、誰がなんと言おうと存在すると思っている。俳句甲子園の入賞句や、これまでの高校生を対象にしたコンテストの大賞句なんかを引けば、理屈なしに分かるはずだ。○キャンバスに赤といふ意思秋澄みぬ(川村貴子)これは二千十四年の神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀句だ。キャンバスには赤。それは意思であり、キャンバスに対峙する強さだ。澄みぬ、という一瞬の把握、素敵だ。○号砲や飛び出す一塊の日焼(兵頭輝)これは第十八回の俳句甲子園の最優秀句。号砲が鳴り、めいっぱい飛び出していく日焼けした身体。そのほんのコンマ何秒。一塊の日焼、なんて把握も省略と客体化が効いていて気持ち良い。○向日葵が全校生徒より多い(山下真)これも第十八回俳句甲子園より。散文的であることがなにかしらの切実さを生み、詩性を打ち出す。言葉に無理をさせない作りながら、隙がない。三句しか引かなかったが、きっと十分すぎるだろう。そこには彼らの実感があって、青春の息遣いのようなものが確かにある。確かで伸びやかな感覚がびったり定型に嵌ったときの強さなんかには本当にため息をつきたくなる。こんな句作れるものなら作ってみたい。そしてこの場合の「高校生らしさ」というのは、そのときにしかない瞬間性や実感、すなわち得難いリアリティ——それに読む側の、青春という切なさを求める気持ちを少し投影したもの——なんて言い換えることが出来るんじゃないだろうか。しかしである。この意味の「高校生らしさ」というのは一つの属性でしかないはずだ。当たり前だけれど、俳句を評価する観点のひとつ、たとえば「丁寧な写生だね」だとか「うおお、すごい二物衝撃だ」だとか「ふふふ、これは俳諧性があるなぁ」だとかと同じものではないだろうか。つまり必ずしも全てを満たす必要はなく(写生と二物衝撃なんて両立しないだろうし)、その中の幾つかを満たすことで句としての魅力を獲得する。「高校生らしさ」ということも句を構成する一つの魅力ではあるが、句の魅力を構成する全てではない。必ずしも必要な条件ではないのである。よって、その要素を持つ句に対して高校生らしさという観点を鑑賞することは出来ても、すべての句に高校生らしさを求めることは出来ないのではないかなぁと思っている。語気に覇気がないのは、背景に複雑な問題がある気がしているからで、それは作者を作品に反映させるかどうか、つまり俳句に十七音以外の要素を認めるかどうかということだ。たとえば子規の絶筆三句はそのままでも面白いけれど、でも子規に関する背景を知っている方が絶対に分かりがよい。このことには、書くべきことを持つ世代と持たない世代の意識差なんかも絡むと思うのだけれど、手に負えないのでここでは割愛しようと思う。とりあえずぼくは一句はその十七音で完結するべきだと思っているので、十七音以外の要素がそれに干渉する形で魅力を求められても、簡単には諾えない。それに、周りを見てみれば素敵な高校生らしい俳句が、今この一瞬に切実さを覚えないくらいにはたくさんある。高校生からすればそれは結構重要で、高校生らしさがあるというだけでは高校生のなかではアイデンディティたり得ないと思うのだ。高校生が対象の俳句賞は、おそらく「高校生らしさ」がキーワードなのは言うまでもない。「高校生らしさ」についてあれこれネガティヴなニュアンスの発言をしてきた訳だけれど、でもぼくはそれをどうしてほしいというわけではないし、むしろそれはそのままで良いんじゃないかと思う。高校生らしさは、ぼくらの砦だ。書きたいことがあるのに技巧が追いついていかない、高校生の俳句はそんな句がきっと、多い。そんな句を掬いあげてくれるのが「高校生らしさ」でもあるんじゃないだろうか。そうして掬いあげて貰うことで「俳句って楽しいな、勉強してみよう」くらいに思う人がいるならば、それは十分すぎるほど価値がある。そして、ぼくたちは気づく。いずれその砦を出なければならない。しかもその砦は時が流れるにつれ、自然とぼくたちの周りから消えてしまう。そして砦の外では、内容をより面白く伝えるためのそれ相応の技巧が必要だ。十の面白さを伝える適切な技巧が十だとするならば、八でも十二でもない技巧を身につけることがきっと、必要になる。気づけばもう高三になる。振り返れば、砦の中では書きたいものがあまり見つからなかったので、そろそろ砦を出る準備を始めようかな、なんて、思ひゐし。 旭東文芸部ジャンケン最弱王決定戦(?) http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1242180 先日、部誌『月』の製本作業中に、「旭東文芸部ジャンケン最弱王決定戦」を行いました(……とは言っても部員6人中4人しかいなかったのですが)。最弱王は即興で作句し発表、という部長の思いつきにより、1年生の堤の句を発表致します。字題は部誌名にちなんで「月」です。病院の天井は白春の月(1年堤)近いうちに部員全員でもう一度行いたいものです。短歌発表でも楽しいかもしれませんね。 2016-03-13T21:14:00+09:00 先日、部誌『月』の製本作業中に、「旭東文芸部ジャンケン最弱王決定戦」を行いました(……とは言っても部員6人中4人しかいなかったのですが)。最弱王は即興で作句し発表、という部長の思いつきにより、1年生の堤の句を発表致します。字題は部誌名にちなんで「月」です。病院の天井は白春の月(1年堤)近いうちに部員全員でもう一度行いたいものです。短歌発表でも楽しいかもしれませんね。 新しいワンピース/紫隈亮介 http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1147561 かおりちゃんはこう言うの新しいワンピースかならず最初は学校よいっぱい人がいるんだもの考えるのよまっさきに誰がほめてくれるのかしら向かいのゆきちゃん後ろのふみちゃん隣のクラスのまことくん考えるのよまっさきに何をほめてくれるのかしら襟のリボンピンクのボタン裾のふんわり白レースみんな見てるわ私のことをちょうちょのような私のことをみんながほめてくれるからかならず最初は学校なのよそこでわたしはこう言うの新しいワンピースかならず最初はお家なのだあれも人がいないんだもの訊いてみるのよパパとママわたしにこれがにあうのかしらおおきくない目まんまるなかおすらっとしてない手と足に訊いてみるのよパパとママおかしいところはないかしらリボンのほつれボタンのはずれ白いレースのしみなんかみんな見るのよ私のことをあひるのような私のことをかわいいよって言われたらそれからやっとお外に出るの 2015-12-30T03:06:00+09:00 かおりちゃんはこう言うの新しいワンピースかならず最初は学校よいっぱい人がいるんだもの考えるのよまっさきに誰がほめてくれるのかしら向かいのゆきちゃん後ろのふみちゃん隣のクラスのまことくん考えるのよまっさきに何をほめてくれるのかしら襟のリボンピンクのボタン裾のふんわり白レースみんな見てるわ私のことをちょうちょのような私のことをみんながほめてくれるからかならず最初は学校なのよそこでわたしはこう言うの新しいワンピースかならず最初はお家なのだあれも人がいないんだもの訊いてみるのよパパとママわたしにこれがにあうのかしらおおきくない目まんまるなかおすらっとしてない手と足に訊いてみるのよパパとママおかしいところはないかしらリボンのほつれボタンのはずれ白いレースのしみなんかみんな見るのよ私のことをあひるのような私のことをかわいいよって言われたらそれからやっとお外に出るの 堤×藤田(恋の句対談) http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1147556 部内対談企画です。今回は一年生の堤葉月と二年生の藤田そらです。(藤)はい、では今回の対談は「恋の句」ということで、えーと…メンバーがメンバーですね…!(意味深)(編者注:堤、藤田は互いにドロドロした恋愛観を持ち合わせています)(堤)そうですねwどんな対談になるか…暴走(意味深)しないように気をつけていきたいと思います!(藤)それでは、まず私の鑑賞したい句から入らせていただいてよろしいですかな…?(堤)はい、大丈夫です!(藤)逢ふことも過失のひとつ薄暑光大高翔(『キリトリセン』より)(堤)?!(どうしよう、被ったっ…!)(藤)あらら、すごい偶然(堤)こんなこと、あるんですね……(震え)(藤)ではさっき言ってた他の候補から出すかな~(編者注:同じ句を選んでしまう可能性を考慮して2句選んでおこうという話をしていました)(堤)お、お願いします……(藤)恋ふたつレモンはうまく切れません松本恭子(『檸檬の街で』より)(編者注:後に判明したのですが、堤はこの句も対談候補に入れていたそうです。句集を指定していなかったのにも関わらず2句ともかぶってしまうという偶然……)どういう景というか、うん、どんな句だと思いました?(堤)初恋の相手と両片想いだったのを数年越しに知って、でも今はお互い違う相手がいて、なんだか悔しいようなやるせないような……っていう景なのかなって思いました。(藤)なるほど。自分は、(初恋は普通ひとつだけれども)同時にふたりに初恋をしてしまって、どっちも好きだし初恋だし割り切れない…みたいな景を想像しました。なんていうか概念多めだから読む人によって結構異なりますよね…。ただ(言葉同士が近いとしても)レモンと恋→初恋は想像してしまいますよね(堤)そうですね。よく「初恋はレモンの味」とも言いますしね~(藤)そして「春は恋の季節」とか言うのにレモンは秋の季語という(堤)そう、レモンは秋の季語なんですよね。初恋で酸っぱくて秋って、なんというかそれだけでこの恋は叶わなかったのかなって思ってしまったんですが、先輩はこの恋、どうなったと思いますか?(藤)一兎を追うものは二兎を得ず……嗚呼…手に入れたかった訳ではないのにね……、と言っても恋は常にどこかで求めているものだけれども。レモンが染みる……(堤)彼女(でいいのかな)は本当にどっちも好きだったんでしょうね……凄くつらみを感じます……そう考えるとレモンの酸っぱさ、痛そうですね(藤)また堤さんの考えた景だと、自分と相手で(ひとつになれるはずだったけれども)ふたつの恋で終わってしまった…という後悔というか甘酸っぱい思い出というか…みたいな感じですかね…それもそれで痛い…(堤)どのみち痛い……レモンもう少し酸っぱさ抑えてあげてっ…!(藤)なんとなく思ったことは、今恋をしているのか昔の恋の回想なのか、レモンは実際にあるのか比喩なのか(取り合わせだとは思うのだけれど一応)、それと、レモンを切った後なのか切ろうとしている時なのか(「レモンってうまく切れないものなんだよね」と切る前に思っているのか、ということ)。レモンは実物があるのかな~と思っているのだけれど(堤)私の解釈だと、昔の恋の回想で、レモンは実際目の前にあって切ろうとしている、ですかね……(藤)なるほど。自分は、現在の恋でレモンを切る前だと思いました。今ふたりを好きだけれども、レモンはうまく(半分に)切れないもので…みたいな(堤)レモンってうまく切れないんですかね……(レモンを切らないからわからない)私はレモンは切りやすい部類だと思っているので、過去の恋でレモンは進行形で切っているのだと思いました。両片想いだったって知らなければすっぱり忘れられたのに変に知っちゃったからうぐぅ……あの時勇気を出していれば……とか後悔しちゃって、いつもならうまく切れるレモンも今はうまく切れない、みたいな。人間欲深い生き物ですから、一度知ってしまったらどんなに切りたくても切れないもの、沢山ありそうじゃないですか(藤)深いですね…。……時間も時間だし次の句いきますか…?(ぶった切り)さっきの薄暑光の句で……(堤)そうですね、じゃあ改めて逢ふことも過失のひとつ薄暑光大高翔(『キリトリセン』より)ど、どちらからいきますか……?(藤)うーんと、では私から。まず季語の「薄暑」は、初夏の少し暑さを覚えるくらいになった気候、だから「薄暑光」は若葉が青葉に変わるときくらいの木漏れ日の強さくらいの日差しかなあ、と。なんだか希望に満ちてくる。君に逢って恋煩いなんかしてるのもひとつの間違いだったのかもしれないけれども、嫌いじゃないよこの気持ち。みたいな感じですかね…。痛々しいポエムのようになってしまった…(堤)あっ、明るい感じだ!!!「薄暑光」、私は「薄暑」からじりじりと確実に焼いてくる感じの日差しかな、と。そこから「浮気かな……」って思いました(藤)なるほど、生活上過失浮気罪(適当)(堤)生活上過失浮気罪、ありそう。初夏っていうこれから夏に向かっていくっていう明るさと浮気っていう後ろめたい恋の対比で、隠しきれていると思いたいけれど、心のどこかでもうバレ始めていることに気が付いていて、その上薄暑光がサーチライト的な感じで暴きにかかってくる、みたいな……お天道様はなんでもお見通しなんだよって、怖いですね……(藤)「逢ふ」は「出逢う」に近い意味でどっちも解釈していますね。それが単なる恋なのか浮気なのか、つまり既に相手がいるかいないかが異なるということで…(堤)そうですね。「逢ふ」はやはりそのイメージが強いと思います。あと私はこの字だと運命って言葉も後ろにちょこちょこついてくる感じがあります……何故……(藤)ほんとにそれ。運命感じますよねその字。「出逢ったことも過失のひとつであり運命のひとつなんだ」って感じがしますよね。なぜか「出逢う」ではなく「出逢った」と過去形にしたくなるのもきっと「逢」の漢字の運命感のせい…(堤)この運命感が上五中七を「逢うことさえも間違っているってわかっているけれど、それでも逢わずにはいられない」というふうに捉えさせるのかなあ……(藤)何となくだけれども、この句の主人公は逢う相手に一目惚れしてそう。なにかの間違いで出逢ってしまった…みたいな。出逢ってはいけないふたりが出逢ってしまった…って話はよくありますね(堤)もう少しタイミングが早ければ幸せになれたかもしれなかったふたりだったのに、もう遅い……みたいな。出逢ってはいけなかったのは何故なのか、ってところに想像が膨らみますねっ…!(藤)前世で心中したからかもしれない。神様か仏様か誰かの「悪戯」なのか「過失」なのかでも異なってきますよね(堤)前世で心中したんだとしたら「悪戯」かもしれない(藤)前世で殺しあった相手と兄弟になるとか言うから、前世で心中した相手、特に「来世で一緒になろうね」なんて言っていた相手とは出逢ってはいけなさそう(堤)でも結局何かの手違いで出逢ってしまってまた同じことを繰り返す、なんていう無限ループの可能性を考えてみる(藤)無限ループ、大好き。そもそも「過失」をプラスと取るかマイナスと取るかで大分句の雰囲気が変わってきますし(堤)「来世では一緒になろうね」は呪いっぽいところありません?私の中での「過失」はプラスマイナスの間を揺れているイメージですね。葛藤、みたいな(藤)「嬉しい偶然」を嫌味っぽくというか僻んで「過失」なんて言ってしまった、という何となく可愛い人なのかもしれないし(堤)素直に嬉しいって言えない、ツンデレ……?まさかのwwwww(藤)うー、収拾つかなくなってきました!そろそろお開きにしましょうか!(ぶった切り)(堤)そうですね、これ以上やるともっと収拾がつかなくなりそう(藤)この2句は想像が広がる分、読み手によって景が様々になってくるから…えっと、小説にでもしましょう!(堤)小説にしてしまう!その発想はなかった!!!!(藤)それなら思う存分アワーワールズを表現できるのでは!(何となく)(堤)名案っ…!!!!!どちらの句で書いても普通に一つの作品できますね!(どれだけ書く気)(藤)……ということで、今日は楽しかったです!ありがとうございました!!(流れを読むのが下手)(堤)私も楽しかったです!!ありがとうございました!!(流れとか読めない)以上で終了となります。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。 2015-12-30T02:45:00+09:00 部内対談企画です。今回は一年生の堤葉月と二年生の藤田そらです。(藤)はい、では今回の対談は「恋の句」ということで、えーと…メンバーがメンバーですね…!(意味深)(編者注:堤、藤田は互いにドロドロした恋愛観を持ち合わせています)(堤)そうですねwどんな対談になるか…暴走(意味深)しないように気をつけていきたいと思います!(藤)それでは、まず私の鑑賞したい句から入らせていただいてよろしいですかな…?(堤)はい、大丈夫です!(藤)逢ふことも過失のひとつ薄暑光大高翔(『キリトリセン』より)(堤)?!(どうしよう、被ったっ…!)(藤)あらら、すごい偶然(堤)こんなこと、あるんですね……(震え)(藤)ではさっき言ってた他の候補から出すかな~(編者注:同じ句を選んでしまう可能性を考慮して2句選んでおこうという話をしていました)(堤)お、お願いします……(藤)恋ふたつレモンはうまく切れません松本恭子(『檸檬の街で』より)(編者注:後に判明したのですが、堤はこの句も対談候補に入れていたそうです。句集を指定していなかったのにも関わらず2句ともかぶってしまうという偶然……)どういう景というか、うん、どんな句だと思いました?(堤)初恋の相手と両片想いだったのを数年越しに知って、でも今はお互い違う相手がいて、なんだか悔しいようなやるせないような……っていう景なのかなって思いました。(藤)なるほど。自分は、(初恋は普通ひとつだけれども)同時にふたりに初恋をしてしまって、どっちも好きだし初恋だし割り切れない…みたいな景を想像しました。なんていうか概念多めだから読む人によって結構異なりますよね…。ただ(言葉同士が近いとしても)レモンと恋→初恋は想像してしまいますよね(堤)そうですね。よく「初恋はレモンの味」とも言いますしね~(藤)そして「春は恋の季節」とか言うのにレモンは秋の季語という(堤)そう、レモンは秋の季語なんですよね。初恋で酸っぱくて秋って、なんというかそれだけでこの恋は叶わなかったのかなって思ってしまったんですが、先輩はこの恋、どうなったと思いますか?(藤)一兎を追うものは二兎を得ず……嗚呼…手に入れたかった訳ではないのにね……、と言っても恋は常にどこかで求めているものだけれども。レモンが染みる……(堤)彼女(でいいのかな)は本当にどっちも好きだったんでしょうね……凄くつらみを感じます……そう考えるとレモンの酸っぱさ、痛そうですね(藤)また堤さんの考えた景だと、自分と相手で(ひとつになれるはずだったけれども)ふたつの恋で終わってしまった…という後悔というか甘酸っぱい思い出というか…みたいな感じですかね…それもそれで痛い…(堤)どのみち痛い……レモンもう少し酸っぱさ抑えてあげてっ…!(藤)なんとなく思ったことは、今恋をしているのか昔の恋の回想なのか、レモンは実際にあるのか比喩なのか(取り合わせだとは思うのだけれど一応)、それと、レモンを切った後なのか切ろうとしている時なのか(「レモンってうまく切れないものなんだよね」と切る前に思っているのか、ということ)。レモンは実物があるのかな~と思っているのだけれど(堤)私の解釈だと、昔の恋の回想で、レモンは実際目の前にあって切ろうとしている、ですかね……(藤)なるほど。自分は、現在の恋でレモンを切る前だと思いました。今ふたりを好きだけれども、レモンはうまく(半分に)切れないもので…みたいな(堤)レモンってうまく切れないんですかね……(レモンを切らないからわからない)私はレモンは切りやすい部類だと思っているので、過去の恋でレモンは進行形で切っているのだと思いました。両片想いだったって知らなければすっぱり忘れられたのに変に知っちゃったからうぐぅ……あの時勇気を出していれば……とか後悔しちゃって、いつもならうまく切れるレモンも今はうまく切れない、みたいな。人間欲深い生き物ですから、一度知ってしまったらどんなに切りたくても切れないもの、沢山ありそうじゃないですか(藤)深いですね…。……時間も時間だし次の句いきますか…?(ぶった切り)さっきの薄暑光の句で……(堤)そうですね、じゃあ改めて逢ふことも過失のひとつ薄暑光大高翔(『キリトリセン』より)ど、どちらからいきますか……?(藤)うーんと、では私から。まず季語の「薄暑」は、初夏の少し暑さを覚えるくらいになった気候、だから「薄暑光」は若葉が青葉に変わるときくらいの木漏れ日の強さくらいの日差しかなあ、と。なんだか希望に満ちてくる。君に逢って恋煩いなんかしてるのもひとつの間違いだったのかもしれないけれども、嫌いじゃないよこの気持ち。みたいな感じですかね…。痛々しいポエムのようになってしまった…(堤)あっ、明るい感じだ!!!「薄暑光」、私は「薄暑」からじりじりと確実に焼いてくる感じの日差しかな、と。そこから「浮気かな……」って思いました(藤)なるほど、生活上過失浮気罪(適当)(堤)生活上過失浮気罪、ありそう。初夏っていうこれから夏に向かっていくっていう明るさと浮気っていう後ろめたい恋の対比で、隠しきれていると思いたいけれど、心のどこかでもうバレ始めていることに気が付いていて、その上薄暑光がサーチライト的な感じで暴きにかかってくる、みたいな……お天道様はなんでもお見通しなんだよって、怖いですね……(藤)「逢ふ」は「出逢う」に近い意味でどっちも解釈していますね。それが単なる恋なのか浮気なのか、つまり既に相手がいるかいないかが異なるということで…(堤)そうですね。「逢ふ」はやはりそのイメージが強いと思います。あと私はこの字だと運命って言葉も後ろにちょこちょこついてくる感じがあります……何故……(藤)ほんとにそれ。運命感じますよねその字。「出逢ったことも過失のひとつであり運命のひとつなんだ」って感じがしますよね。なぜか「出逢う」ではなく「出逢った」と過去形にしたくなるのもきっと「逢」の漢字の運命感のせい…(堤)この運命感が上五中七を「逢うことさえも間違っているってわかっているけれど、それでも逢わずにはいられない」というふうに捉えさせるのかなあ……(藤)何となくだけれども、この句の主人公は逢う相手に一目惚れしてそう。なにかの間違いで出逢ってしまった…みたいな。出逢ってはいけないふたりが出逢ってしまった…って話はよくありますね(堤)もう少しタイミングが早ければ幸せになれたかもしれなかったふたりだったのに、もう遅い……みたいな。出逢ってはいけなかったのは何故なのか、ってところに想像が膨らみますねっ…!(藤)前世で心中したからかもしれない。神様か仏様か誰かの「悪戯」なのか「過失」なのかでも異なってきますよね(堤)前世で心中したんだとしたら「悪戯」かもしれない(藤)前世で殺しあった相手と兄弟になるとか言うから、前世で心中した相手、特に「来世で一緒になろうね」なんて言っていた相手とは出逢ってはいけなさそう(堤)でも結局何かの手違いで出逢ってしまってまた同じことを繰り返す、なんていう無限ループの可能性を考えてみる(藤)無限ループ、大好き。そもそも「過失」をプラスと取るかマイナスと取るかで大分句の雰囲気が変わってきますし(堤)「来世では一緒になろうね」は呪いっぽいところありません?私の中での「過失」はプラスマイナスの間を揺れているイメージですね。葛藤、みたいな(藤)「嬉しい偶然」を嫌味っぽくというか僻んで「過失」なんて言ってしまった、という何となく可愛い人なのかもしれないし(堤)素直に嬉しいって言えない、ツンデレ……?まさかのwwwww(藤)うー、収拾つかなくなってきました!そろそろお開きにしましょうか!(ぶった切り)(堤)そうですね、これ以上やるともっと収拾がつかなくなりそう(藤)この2句は想像が広がる分、読み手によって景が様々になってくるから…えっと、小説にでもしましょう!(堤)小説にしてしまう!その発想はなかった!!!!(藤)それなら思う存分アワーワールズを表現できるのでは!(何となく)(堤)名案っ…!!!!!どちらの句で書いても普通に一つの作品できますね!(どれだけ書く気)(藤)……ということで、今日は楽しかったです!ありがとうございました!!(流れを読むのが下手)(堤)私も楽しかったです!!ありがとうございました!!(流れとか読めない)以上で終了となります。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。 『海藻標本』『君に目があり見開かれ』を読む http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1145436 対談企画、「『海藻標本』『君に目があり見開かれ』(佐藤文香)を読む」です。柳元佑太(旭川東)×吉川創揮(広島)の第二弾!拙い鑑賞ですが、どうぞご高覧ください。柳)今回のテーマは『海藻標本』『君に目があり見開かれ』を読むってことで、よしことお話できることをとっても楽しみにしてました。よろしくお願いします。では早速話していきたいのだけれど、まずは『海藻標本』の句から話していってもよいかな?○少女みな紺の水着を絞りけり○スケートの靴熱きまま仕舞はるる○青に触れ紫に触れ日記買ふ俺はこのあたりの句がひとつの『海藻標本』らしい句なのかな、と思いました。隙のない、日常のトリビアルなところを新鮮な感覚で捉えている感じで。少女みなは有名な句だけど、やっぱりこれ、すごいよね。入り込む余地が無くて、圧倒されてしまう。日記の句も、日記を手に取るというありふれた動作のはずなのに、それ以上の絵画みたいな美しさがある。よしこはどんな風に思う?(吉)こちらこそ、楽しみにしてました!よろしくお願いします。四つとも好きな句です。『海藻標本』の一句目を飾る「少女みな」の句はうっとりさせられる句。個人的には、景がすごく鮮やかでキメ細やかなモノクロで浮かびます。言葉が美しい佇まいで一句に収まっている感じがあるな、と。「日記買ふ」の句は、色んな日記を手に取ってどれを買おうか迷っている、これから日記を書く楽しみがある、すごく心も体も動的な風景を、すごく静的に切り取っているのが印象的だな。感情が少し切り離されたような感じが絵画的な雰囲気を感じさせるのかも。『海藻標本』らしさのひとつとしてトリビアル、と言ってくれたけど、自分はトリビアルという程の細やかさはあまり感じなかったなー。確かに繊細な部分を切り取っているんだけど、なんとなく言葉にゆとり、広がりというか、伸びやかさがあるからなのかも。「日記買ふ」の句も、〈青に触れ紫に触れ〉が、色で捉えるという大まかな把握だと自分は思うし。新鮮な感覚とも言ってくれたけど、それは強く感じたところではあります。(柳)そうだね、トリビアルは言い過ぎたかもしれない。言ってくれた通り、題材は日常だと思うのだけど、それを文字に起こして「はい、トリビアルな句だよ」で満足してる感じじゃないよね。このあたりとか。○ガラス器に鬼灯ひとつひとつ哉○行く春の聞くは醤油のありどころそれがよしこの言ってくれた言葉のゆとり、広がりや伸びやかさというところなのかも。詩的な広がりがあって、単語がそれ自体の意味として終わっていない感じが、トリビアルと言ったときの違和の正体なのかな?「日記買ふ」を静的に切り取っているというのはなるほど、と思った。俺はこの句、わくわくじゃなくて、なんか艶かしいくらいな感じがするんだよね。子供じゃなくて、大人の女性が白い手が選んでいる感じがして。それがなんでかわからなかったのだけど、なんとなく腑に落ちた。それと、「新鮮」は読んでいく上でなんとなくキーワードな感じがする。類想のなさをすごく意識されている感じがするし、そこが次の『君に目があり見開かれ』に出てくる「私」という書き方に繋がるのかな、と思った。客観的な視点で物事を読む上では類想の避け方って、大きく分けて題材の選び方とその書き方の二つだと思うんだ。けど、主観的な書き方をするなら、私を句に落とし込むことで類想を回避できるのかなぁと。(吉)そう。トリビアルの本意ではないのは承知してるけど、自分はトリビアルと聞くと、物がそのまま物としてあるようなイメージがあるから、ちょっと引っかかったんだと思う。「日記買ふ」の句、青や紫という色のチョイスからだけじゃなくて、サラッとした詠みぶりが、また大人の女性像をイメージさせるよね。類想の回避か、なるほど。『海藻標本』において、〇待たされて美しくなる春の馬は、題材の選び方によるもの。〇緋目高の目のひとつある左側は、書き方による類想の回避となるのかな?その、類想の回避の方法が変化した結果が『君に目があり見開かれ』っていうの、面白い。確かに「私」は誰とも全く異なる唯一の存在だから、句に「私」を取り入れれば確かに、句は完全に類想を回避できる。オリジナリティを出しやすくなるわけか。まぁ、佐藤文香さん自身が『君に目があり見開かれ』の後書きで『ときに、わたしの心までが、わたしから出てきて見えるというのも、ふしぎで、ダサくて、素敵だ。』って言ってるから、順序的には逆で、句を詠んでいく中で「私」が徐々に表れてきた結果、の類想の回避なのかもしれないけど。佐藤文香さんは、十七音の中でも独りよがりにならない上手い塩梅で、「私」を句に落とし込んでいるなぁと思います。世界の外側に傍観者としていた『海藻標本』から、私の外側を見る(または外側を通して私を見る)『君に目があり見開かれ』への変化はおもしろい。いろいろ、言ったけどやなぎーの、類想の回避という観点から見るのアリだと思う。(柳)そうだね、順序は確かに逆だ。(笑)類想の回避を求めた結果ではないだろうし、色々な要素があって『君に目があり見開かれ』的な書き方になり、その結果類想がなくなったって言うのが正しい捉え方だと思う。海藻標本の○忘るるにつかふ一日を蔦茂るなんかはどちらかと言うと『君に目があり見開かれ』っぽい感じだと思うし、端正な「少女みな」のような句とこういう句が並存してるのが面白いよね。色々試してるというか、どうやったら俳句形式を自分が(この世代に生まれた自分が)フルで使えるのかみたいな感じにも見えて。佐藤文香さんの独りよがりにならないような「私」での読み方の感覚っていうのはすごく不思議なバランスだよね。「私はこうだったの、追体験してー!!!」みたいな感覚はまったくなくて、よむにつれて佐藤文香さんが分かっていくような(作中主体と作者が同一と捉えるとして)感じがする。世界の外側に傍観者としていた『海藻標本』から、私の外側を見る(または外側を通して私を見る)ことが『君に目があり見開かれ』への変化である、というのはまさにそう思います。うまく言葉にできないけど、豊かになった感じがする。(吉)あぁ、その『君に目があり見開かれ』な感じ分かる。がっつり「私」の句だね。私は〇人を離れて手花火を闇に消すなんか「君に目があり見開かれ」な雰囲気を感じる。どことなく寂しそうだし、詠み方自体は端正だけど、「私」と「私の外側」が見える。『海藻標本』は客観的で低エネルギーな感情が薄い句集と捉えられがち(と勝手に思ってる)だけど、確かに色んなタイプの句が並存してる。〇海に着くまで西瓜の中の音聴きぬ〇国破れて三階で見る大花火一句目の、俳句では歓迎されないであろう「聴く」を使うところとか、二句目の漢詩の「春望」の本歌取りとか、本当にさまざま。意外にチャレンジャブルな句集だと思う。佐藤文香さんは、俳句に本当に向き合ってる人だよね。(失礼で個人的な見方だけど)俳句を詠むことで、たましひを削ってそう。バランス感覚は本当に優れてる。『君に目があり見開かれ』は本当に、一句にとどまらず、句集を通して佐藤文香さんの描く世界全体に没頭しちゃう。後書きからも、その変化はけっこう表れてて、『海藻標本』の後書きでは、言葉に対する話だったのに対して、『君に目があり見開かれ』では、自分と、その周りの話になってるんだよね。『海藻標本』について、他に思ったことあるかな?今までの話と少しかぶるけど、句集全体を通して、温度がないというか、確かな、手で掴めるようなそういう存在感(景色や人の)があまりないなぁと思いましたね。感覚的な話だけど、ね。(柳)あ、俺もその花火の句好き。なるほど。たしかに変化を読み取れる気がする。「私」の存在の濃さがわかるね。それと、「句集全体を通して、温度がないというか、確かな、手で掴めるようなそういう存在感(景色や人の)があまりない」ってところは少しだけ肯うことができないというか、少しだけ字足らずな感じがするかも。むしろ、詠みこまれているものの安定した存在感は海藻標本の方があると俺は感じたんだー。ただし、これはなんていうのかな、向こうの世界というか。綻びがなくて入っていけない、というところがよしこのいう、「温度の無さ」とか「手で掴めなさ」なのかなー、と思ったよ。(あくまで『君に目があり見開かれ』での書き方と比べて、の話だけど)そして『君に目があり見開かれ』の方が、物が詠まれるときにそれを感じている作者を一枚通すから、それにより逆説的に、もの自体がリアルに、より確かになる…ってことなのかな。僕らが普段ものを感じている深いところの温度と同じ温度で書かれているから。主観を除く写生とは逆の手法ながら、リアルさの追求という点では方向性が同じなのかも、と少し思いました。この方向性も、人が不変と考えれば、普遍性や耐久性もあるんじゃないかとも思えるし。(普段使わない難しい言葉を連発しているので、いま俺はぜーぜー言ってる)(吉)まぁ、あとがきを根拠に話をするのは句を語る上では良くはないと思うから、あくまでも参考にだけどね。私がなんとなくで言った事を真剣に考えてくれてありがとう。すまんね。考えて喋る癖をつけねばなぁ……。そして、指摘された通り言葉足らずです。ただ、上手く言葉を補えないので、一旦、保留。『海藻標本』の方が『君に目があり見開かれ』より確実に存在感、手ごたえはある、のは分かる。自分があげた「緋目高」の句とかを読めばそれは明らか。それ故に、句の景色が完成されているが故に、「手で掴めなさ」を感じると、やなぎーは解釈したのか。それは一理あるかも。句に対して、読者の私が入り込む余地がないから、温度も手ごたえも感じれずに、ただ見てるだけなのかも。(この話は引き続き、私の中の問題として考えときます。解釈ありがとう)『君に目があり見開かれ』へのやなぎーの意見はめちゃくちゃおもしろい。句に人間の心が通っているから、読み手の人間と共鳴しやすい、ってことか。こう見ると、『海藻標本』も『君に目があり見開かれ』もリアリティーある作品だなぁ。やなぎーが言ってることで十分なので、コメントすることない(笑)無理させてごめんよ!!(柳)いやいや、俺もあんまり句に基づいて話せていなくて、机上の印象論ぽくなってしまって、申し訳ないー。『海藻標本』には完成した感じの句以外にも、読む余地のある楽しい句もあるから一概には言えないと思うのだけれど。それに、どちらの作り方もそれぞれの良さ、楽しさがあると思うし、佐藤文香さんの場合はさ、あんなに端正な瑞々しい句を作れるのに、私を主体とした句になっていくのが、俺には本当に興味深いし、本当に尊敬しちゃうよね。ここからは『君に目があり見開かれ』の話になってしまうと思うけれど、この、「なにが書かれているかわからないけれど、でもなんだか好き」の豊かさみたいなのがあると思うなー。『君に目があり見開かれ』の○これもあげるわしやぼん玉吹く道具○星がある見てきた景色とは別にこのあたりはさ、一見何の意図で書いていて、何が書かれているか取りづらいじゃない。考えてみるとおぼろげながら分かった気になるけど、手応えはなくて。でも確実に面白いなぁ、って分かる。(分かるというか、思う)よしこは『君に目があり見開かれ』のどんな句が気になった?(吉)毎回、話のフリがなくて申し訳ない。『海藻標本』も一言でくくれるような単純な句集じゃないものね。全体を通して、論を語れないのはしかたないことだと思う。〇祭まで駆けて祭を駆けぬけてなんて元気の塊みたいな句も紛れてる。佐藤文香さん、まず第一句集に俳句甲子園最優秀賞の句を載せないっていうのが凄いし、そこから『海藻標本』の完成度から離れて、角川俳句賞とかでも勝負してるのが本当にかっこいい。そう、分からないって魅力の要素だよね(笑)俳句はそこがおもしろい。『君に目があり見開かれ』はそんな魅力にあふれてる。(勿論、これも一概には言えなくて意味が分かる故におもしろい句もあるけど)この二句、好きだな。特に「これもあげるわ」の句、好き。ただ、しゃぼん玉を吹く道具をあげてるだけ、で余白の広がりがいい。あげる物が特別なにか利益が生まれる物じゃないのが意味深で、深読みするけど、結局その意味がはっきりしなくても好き、だと思えてくる。咀嚼しようとしてもできないのに、どんどん好きになる句が『君に目があり見開かれ』には多い気がする。全然、句の意図が見えない句の中で好きなのは、〇土手のぼくらの背景にある煙〇雲流す仕掛に蝶が来てゐるよ意味が分からないながらに、寂しくなる。なんとなく寂しげな気配を全体的に感じるのも、自分には魅力的。どうだろうか??(柳)○夕立の一粒源氏物語(俳句甲子園最優秀句)これを捨てたのはすごいよな。今ちょうど古典が源氏物語なんだけど、学べば学ぶほどこの二物衝撃が響き合う感じがして興奮してる。(笑)祭りの句も、めっちゃ良いよな。音のリズムや母音、句またがりなどもあってどんどん加速してくもの。そしてね、あーーーーめっちゃ分かるよ、すごく共感できる、わからないの魅力。しゃぼん玉吹く道具の句はさ、それ以前に同様に何かが受け渡されていたことがわかるけど、じゃあそれは何なのだろうと気になっちゃってさ。考えた結果、俺は「名前のないもの」を受け渡しているんじゃないかなぁって思った。(笑)「しゃぼん玉吹く道具」ってさ、それ自体に価値があるわけじゃなくて、「しゃぼん玉」に価値があるから価値がでてくるものでさ、「しゃぼん玉」があるから「しゃぼん玉吹く道具」って呼ぶことができるわけで。こういうものを集めてるのかなぁ、「私」、なんて思ってさ。白くて、さみしい感じがする。俺は、○星がある見てきた景色とは別にも好きだな。海藻標本に、○春日傘閉ぢてはじめの空あかるしという句があるけど、佐藤文香さんはこういう見方ができるんだなぁってすごく感動しちゃう。ずっとあるものに順番をつけたり、別々にしたり。うんうん、その二句は完全に意味を離れちゃってるような感じがする。○土手のぼくらの背景にある煙普通さ、助詞の「の」ってこんな風に使わないよね。大きい名詞からそれに所属してる小さい名詞に繋ぐときに「の」を使うと分かりがよいと思うのだけど、「土手」の「ぼくら」の「背景」って言われると(おそらく「土手」の「ぼくらの背景」だと思われるが)どこがどこにかかっているのかわからなくて、単純にそのフレーズの持つイメージをぐるぐるさせた感じのまま、煙に収束しちゃう。するとなんだか不思議な理解があるんだよな。(笑)意味が分かりづらい句の系統の他にも、いろんな句があるよね。たとえばこの『君に目があり見開かれ』、恋愛句集と銘打たれているけれど、そのあたりはどうかな?(吉)なんか、突然テンション上がってない?(笑)私も、今回堅苦しくしすぎたから、少し力を抜こう。「名前のない物」を渡してる、か。なるほど。しゃぼん玉を吹く道具は、シャボン玉っていうすぐ壊れてしまう、「無」を生む道具で普通、子供にしか価値がないものな気がする。だから、大人になりかけの私が近所の子供に渡して、去っていく……。みたいな、自身の子供時代との別れみたいなものも感じたのね。だから、他にはビー玉とかあげてる気がする。やっぱり、しゃぼん玉とかビー玉とか綺麗だから純粋だった頃を思わせるというか……。言葉足らずなんだけど、これ以上上手く言えない。と、ここまで書いて、こんな解釈するのは心がボロボロでカピカピの雑巾の私だけだな、と思った(苦笑)白くて、さみしい感じがするってのは分かる。物を渡したこの人はこの白さの中に溶け込んでいくんだろうな、とも思う。「土手のぼくらの」の句、といい、かかっていく先が分からなくなっていく句は、確かにある。この句の魅力、すごく柔らかい言葉で写生してることだと、思うけど。レンアイ句集、と銘打たれてるのはすごく興味深いポイントだよね。私の中ではレンアイ句集がただの恋愛だけを指すものではないと思うけど、それはさておき、とりあえず恋愛句っぽいものをあげると……〇また嘘を君が笑って蛾が痛む〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよとか、どちらかというと恋を詠んだ句は、満たされていない、完全に幸せではない句が多い気がする。ただ単純に、俳句という枠で、甘い、幸せな恋を詠むのが難しいだけかもしれないけど。一句目は、下五でかなり飛躍して蛾にいくことで、複雑な感情を表現できてるし、二句目はもう、一句が一つのすごく切実なフレーズになってる。あえてカタカナのレンアイなのは、恋とか好きだとか、そう一言でくくれない、切実な感情を句に詠んだからなのかな、と思ったりするけど上手く言えないし、漠然とした感想であって根拠は上手く言えないや。恋愛句ではないけれど、〇風はもう冷たくない乾いてもいない〇ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふなんかは、人相手の時とはまた違った切実な感情を感じる。これは人相手ではなく、自分の外側に対するレンアイなのかな?とこれまた漠然と思ったりする。(本日二回目の、ぼんやり発言ごめん)まぁ、後は、「私」と「私の周り」を詠んだ句集だから、『海藻標本』の時、一歩離れて傍観していた時とは違って「私」と「私の周り」の感情のやりとりがあるので、そのことをレンアイと呼んだのかな?まぁ、一度も恋を経験したことがない(片想いすらない)私にはレンアイを語るのは少し酷です(言い訳)私、よりもレンアイ経験が豊富であろう、やなぎーどうでしょう??(柳)いや俺レンアイ経験豊富じゃないからー!やめてくれー(笑)テンションは上がってるけど。うんうん、レンアイについて、外に対する興味のようなものも含まれるというのは、俺もそう思うな。俺はこの句集、それぞれの句の幸せに関する距離や捉え方みたいなものが、書いているその時々の書き手のテンションがそのまま出てるというか感じられる気がするなー。その浮き沈みの感じが、俺はすごく恋愛だな、と思って納得できたよ。主体がいる以上、当然といっちゃ当然なのだけれども。○花に夕焼スパゲティを巻いてなほ○雨の日の水澄むことのほんたうに○歩く鳥世界には喜びがあるこの辺りは、世界は幸せなんだって疑いもないような、そんなピュアな感じがする。「花に夕焼」の句は、すごく満ち足りている感じがする。それに対して、○焼林檎ゆつくりと落ち込んでゆく○やはやはの毛布を干せばかなしみの○Tシャツをまた着て幸せな一日この辺りはすごく辛そうな、悲しい感じがする。でもなんていうのかな、幸せが存在するからこその不安だったり、悲しみであることをわかっている雰囲気がある。いつかくる幸せのことをわかっているというか。○冬木立しんじれば日のやはらかさ○干草や笑つておけば愉快な日この二つの「ば」は、自分が頑張れ「ば」だよね。この辺りが幸せな感じの句と辛い感じの句の中間の気がする。作者のモットーというか、作者はこうやって生きてきたのかな、なんて思うと、他の句の読みも自ずと変わってくる。○セーターをたたんで頬をさはられて○さしあたりぬくし押し倒されやすし○Tシャツをまた着て幸せな一日この辺りも興味深い。すごく際どいラインを詠んでる。受け身な、弱さや脆さみたいなものを感じる。三句目は読みに自信がないからここに入れてよいのかわからないけど、一日に何度も、好きな人と行為をしている日曜日みたいな感じがするし。そう読むと「幸せな一日」のフレーズが、自分に言い聞かせるような感じにもとれる。○月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふこれも恋だろうなぁ。どの句も、読めば読むほど、困惑してしまうほど恋愛な感じがしてくるのだけれど、これは俺だけなのかもしれないな。(笑)(吉)それは失礼いたしました(笑)自分が、満たされていない云々言ったけれど、勿論、感情には波があって、幸せな時も落ち込んでる時もいろいろありますね。ただ、今、もう一度読み返しても、全編を通して満ち足りていない感覚は感じるのね。それは句の意味が要因ではなくて、形式にとどまらない不安定で壊れそうな句の形と文体によるものだと思うけれど。「歩く鳥」の句なんか、しあわせがある。とまで言い切ってるしね。確かに、幸せの只中の句。この句は本当に好きな句です。「花に夕焼」の句は一句の中に「私」と「世界」がはっきりと並列に存在にしてるところからも満ち足りてる感じしますね。ここらへんの句は「私」が「世界」に対する違和感を持ってなくて、素直に受容してる印象を受けます。ただ自分は〇雨の日の水澄むことのほんたうには幸せではないと感じてしまう。ピュアというか、真直ぐに世界を見つめる視線は感じるけどね。最後に「ほんたうに」と言ってしまうあたりから、触れると切れそうな痛々しさのようなものを感じる。なんとなく「ほんたうに」が怖いんだよね、自分。まぁ、これは私の感覚の問題だ。逆に悲しい句として挙げられた句を、やなぎーは幸せと隣り合わせの悲しみと捉えた、と。同意。また、文体の話するけど、『君に目があり見開かれ』の文体の不安定さは、切実さも、説得力の低さもどちらもある生むと思うんだよね。やなぎーが例にあげた〇やはやはの毛布を干せばかなしみの「ば」の接続の流れを無視したように出てくる下五の「かなしみの」の唐突さ、最後に持ってくることによって生まれる言葉の重みが、なにか言いたくて伝えたくてしかたがない、そんな衝動、切実さを生んでる、と思う。と、同時にその唐突さ、文体の不安定さで読者の中で完全に意味が通らないことによって、「かなしみの」がズバッと心に切り込んできても、一句全体は心の中で完全に着地できない。だから、読者の感覚に句は響くんだけど、説得はできないから、悲しみのどん底にいるような、もう絶望しかないようなそんな深刻さを読者は印象として持たないのかな。思考じゃなく、感覚が句にと共鳴するというか。まぁ、後季語が「毛布」だったり、「焼林檎」だったり、日常の幸せの中にあってもおかしくない季語が取り合わされてるからっていうのもあるかな。これは全編通して思うことでもあって、「私」は日常の中の悲しみも幸せも、全部自分で消化しきれてないうちに、言葉にしてるような印象を受ける。だから生の感情の強さと、意味が頭で結ばない傾向があるのだろう。文体の不安定さ、壊れやすさから、思うことね。(ただ、これは佐藤文香さんの計算の中なんだろう)○冬木立しんじれば日のやはらかさ○干草や笑つておけば愉快な日この二句はかなり好きな句なんだけど、自分が頑張れ「ば」、っていう共通点があったのか。なるほど。ありのままの自分では、幸せを手に入れられないっていうのが、本当に切ない。この二句は、「私」と「世界」のズレ、違和感を確かに感じているんだね。世界との「ズレ」は〇風はもう冷たくない乾いてもいない〇ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふからも感じること。自分が立ち止まっていると、「冬」も、「千鳥」も過ぎ去ってしまう。この二句はやなぎーが挙げた句ほど、感情があらわになってはいないけど、切ない。(この一言でくくるのはよくないけど)たしかにここらはきわどい句群。弱さ、脆さは確かに感じる。すごく受け身だね。「歩く鳥」のような幸せを受容してる時とはまた違う受け身の姿勢。ただ、自分はTシャツの句は、そういう風に解釈しなかったかな。平凡な日常の連続を詠んでるのだと思った。ここらは人とのレンアイだし、男女の関係なのだろうけど、恋愛とは書き表したくない独特の雰囲気を感じるな。恋愛と書けるほど、俗ではないカンジ……?いや、安っぽくないカンジ……?〇月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふもまた、好きな句。これもまた、俗じゃない感じがする切実な感情が見える。むしろ、読者の私が触れるのはいけない気もする、二人だけの世界を感じる。たしかに、レンアイ句集と言われると、なんでもレンアイの句に見えてしまうよね(笑)『海藻標本』と違って、『君に目があり見開かれ』は句集を通して一つの作品っていう意識が高い気がする。その演出のひとつとして、レンアイ句集と銘打ったのかな、と思うけど、まさにその術中にはまってますな、自分もやなぎーも。今日、読み直して最後の白紙のページ数枚をぼーっと見て、ここまで独特な空気感を持った句集はないなぁと思った。メランコリックというか、なんというか。(柳)うむ、「やはやはの毛布」などの句のよしこの読みに感心してしまった。(笑)文体の不安定さっていうのは、俳句形式と馴染みにくいように思われる「口語」と「意味が一般的な感覚では機能しにくい言葉の順序、組み合わせ」、「句またがり、破調」ってところだろうか。「生の感情」「全部自分で消化しきれてないうちに、言葉にしてるような印象を受ける」ってところ、すごく共感できる。おそらく、佐藤文香さんのいうところの「超口語」っていうのは、〈口に出して使う言葉〉を〈もっともっとプリミティブな言葉〉(つまり、言葉として口に出てくるか出てこないかのギリギリの部分の、言葉をなす前の感情の固まりみたいなもの)に近いのかもしれない、と言ったら言い過ぎな気がしたけれど。おそらくそれが、意味を為しているように思いにくい、説得力はあまり思えないが深く何かを感じるところの正体であるのかも。作風の変化があったということは、少なくともこのような超口語を意図して使って、句集としてまとめているのだろうけれど、このような句はどうすれば作れるのかすごく不思議。作る道筋が見えないというか。(見えたらそれは超口語ではないのだから当たり前だけど)よしこの言うとおり、『君に目があり見開かれ』は全体に統一性があるよね。そこによしこはメランコリックさを感じとったのか。なるほどなぁ。俺はもちろん、その側面もすごく感じるのだけど、句集としてはやっぱり幸せさを感じるんだよなぁ。悲しみや哀しみ、切なさのなかの幸せというか。まあこれは、感覚の問題だね、好きなように読めばよいよね。他に『君に目があり見開かれ』で感じたところはあるかな?(吉)うん、自分の思う文体の不安定さは、そういったものかな。定義づけありがとう。佐藤文香さん、「超口語」なんて話をしてたの??勉強不足です。知らないなぁ。自分は(つまり、言葉として口に出てくるか出てこないかのギリギリの部分の、言葉をなす前の感情の固まりみたいなもの)っていうのは言い過ぎとまでは思わないよ。部員と『君に目があり見開かれ』の句を部員と話した時、辞書に載ってる言葉では表現できない句が多いね、って話した事あるし。すごく納得がいく。俳句で感情を表現するのは難しいってよく言われるのは、事実だけど、感情は言葉にすればするほど本質、「生の感情」から離れていくから、十七音という短さで余白に任せる俳句だからこそ、表現できる感情もあるのだなぁ、とも思った。いや、この句集、本当にすごいよね。本当にどういう思考回路にすればこんな句が、言葉が出てくるのかまるで分からない。更にすごいのがその難しさのようなものを、読者に感じさせないことだよね。口語だからってのもあるだろうけど、本当にスルリと簡単に言葉になったような印象を受けてしまう。メランコリックって言ったのは忘れて(笑)意味もあんまり知らないくせに使っちゃった。「憂鬱」とかが意味なのね。そういう意図ではなくてもっとパステルカラーで、夢を見てるような感覚っていうのを言いたかったの。ちょうど、『君に目があり見開かれ』の紙の薄いピンク色を思う。見る角度、見る人の気分によっては喜びにも幸せにも切なくも悲しくも映る、そんなパステルピンク。あと、読者の日常の地続きにあるような句集だと思う。他に気になったところを挙げると、やっぱり、目についたのは無季句。〇ひかりからくさりかいしてぼくのきず〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよのように、感情が無季句では更に強く押し出されてる印象がありました。あと、有季の句でもどこか無季っぽさがあるな、という印象も〇やはやはの毛布を干せばかなしみの○歩く鳥世界には喜びがある○Tシャツをまた着て幸せな一日こういった句から受けました。ただ単に、季語が年中生活になじんでいて季感が薄い季語を取り合わせているからといった理由だけでは、この無季感はなんとなく片付けられない気がする。やなぎーはこの無季句、無季っぽい句、どう思います??(柳)そうだね、句の色がパステルカラーっていうのはとてもわかるぞ。黄色、ピンク、オレンジ、そのあたりだよね。「見る角度、見る人の気分によっては喜びにも幸せにも切なくも悲しくも映る」っていうのにも共感。ゆるく書かれていてぼくらに読みが制限されない分、すとんと落ちてくるのかも。無季の句、実をいうと俺は一回通して読んだときに無季であることに気づかなかったんだよね。(笑)それは有季の句の季節感が薄く感じられて、だから無季の句でもその中に紛れ込めたからなのかな、と思った。まず、季感の薄い有季の句で言えるのは、季語の持つ情緒とか、そういうものを感じさせないように書いているからかな、と思う。(やはやはの毛布、Tシャツ、とか)季語をただ単に物として、そこにあるものとして書いているからかな、と。もちろんそうでない、季語を季節感を感じさせる語として使っている句もたくさんあるけれどね。季語も、季語じゃない言葉も、同じように物として読む。だから無季も生まれるんじゃないかな。それに、季語を入れるよりも優先すべき書くことがあるんだろうし、季語が無い句の特徴として感情が更に強く押し出されているといってくれたけど、それはある種当然の結果なのかもしれないね。この方向性をより強く進めた句(感情だとか、自分を強く読むとき)には、季語が必要ないのかも。かえって邪魔というか。(吉)あぁ、分かるかも。自分もあんまり季節を感じながら読まなかったし、無季句が多いな、って思ったのも読後だし。感情を俳句っていう器で表現するっていうことをしたいから、季語を入れるっていう枠にはとらわれていないんだろうな。さっきあげた無季句の中で一番好きなのは〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよかな。一度、気持ちが落ち着いたかと思ったら、また何故か泣きだしてしまう、っていうその心情、シチュエーションはすごく分かるし、この人は独りぼっちで泣いてるんじゃなくて、傍に頼りたい、寄り添ってほしい人がいるっていうのが素敵だなと。そして、もっと素敵だと思うのが、この人が自分の弱くて、醜くて仕方がない泣いている姿を他人に見せれる人だ、って事。自分とは正反対なその姿がいいな、って思った。(すごく個人的な事情だけどね)そして、無季っぽい句も好きだけど、有季感ある句もすごい好きなんだよね。ただ、同じ有季でも『海藻標本』とは異なる雰囲気をまとった句が多い。『君に目があり見開かれ』が、ただ感情や、「私」を押し出しただけではなく、世界を見つめるまなざしのもある句集だというのが、ここらへんの句群から分かる気がする。そして、『君に目があり見開かれ』がただポエティックな俳句ではなくて、ちゃんと俳句だな、と自分が思えるのもここらへんの句群がさりげなく入ってるからだろうな。〇春深しみどりの池に木は倒れ〇木ずらつとそこが朧で夜を呼べる目についたのをザッと挙げてみたけど、意外と雰囲気が違う句が並んだなぁ。一句目には、永遠のような時間の流れを、二句目には、主観の鋭さ、それぞれ『海藻標本』にはない感覚を感じた。やなぎーはどうだろうか??やなぎーの好きな有季の句は他にある?(柳)うんうん好きな句、あるある。海藻標本からみても、本当にバリエーション豊かな書き方のできる人だなぁって思う。あっちからみたりこっちからみたり、主体を変えてみたり、幼く書いてみたり。無季の句ではないけれど、○吸入器君が寝言に我が名あれこれめっちゃめっちゃ良い。『君に目があり見開かれ』のなかでもとっても推したい、お気に入りの句。喘息持ちなんだろうな、私が。夜中にぴゅーぴゅー呼吸が苦しくなったりしてさ。そんなときにさえも、君には私のことを思っていてほしいっていうすごく人間的な欲求というか。純粋で、きゅんとしてしまった。いやー、これはほんとに良い。○春深しみどりの池に木は倒れ俺もこれ好きだなー!全ての言葉が少しずつ意味の重なり合う繋がり方をしていて、メルヘンチックなしりとりをしている感覚になる。○冬の日や浅瀬の鳩のうむ水輪○谷に日のあたる時間や春の鳥ここらも、平明な、なんてことの無い句だけれど、安心する句だよね。二句目なんて、こんなに「時間」を堂々と置けるものだよなぁ。その緩い感じに「春の鳥」を付けると、もっと緩くなりそうな感じがするけれど、ああ、確かだなぁって感じる。○夏蜜柑のぼりきれば坂せんぶ見える最高に爽やか。夏蜜柑の季語がすごく効いているよね。俺もこんな風にいくつかあげてみたけど、どの句ものびのびとしていて、開放感があるよね。鬱屈なことを書いている句もすごく素直に、開けっぴろげに書いているし、幼く書いている感じがする。『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』の違いは、すごく感覚的に言うとさ、海藻標本はボールペンなどの鋭利な筆記用具で、精密に細部まで書き込まれているけれど、『君に目があり見開かれ』はクレヨンとか、水彩画で太く、大きく大胆に書かれている感じ。そう考えるとさ、『君に目があり見開かれ』は、もちろん良い意味で子供が書いた絵みたいな側面もあるのかもしれない。(こんなことをいったら怒られるてしまうだろうけれど)(吉)いや、ほんとに何がすごいって、『海藻標本』のような句が詠めなくなったわけではなくて、詠まないってことだよね。俳句の色んな可能性にチャレンジしてて、かっこいいい。○吸入器君が寝言に我が名あれは私も好きな句。ただ、最近まで「吸入器」が季語ってことを知らなくて、無季の句だと思ってたけど(笑)人間らしい、句だよね。自分の事を思っていて欲しいと願う、その気持ちは素敵。だけど、その願いは自分からの一方的な思いで、愛の重さの天秤が完全に「私」に傾いているように思えて、切ない。こういう時に穿った見方をしてしまう、自分があまり好きではないけれど、一応寝ているから状態は落ち着いているんだろうけど、さっきまで苦しんでいた「君」に思う事が、私の名前を呼んでほしいっていう願いなのは、醜さといったら言い過ぎだけど人間の弱さも表れてるとも思っちゃう。全部含めて、胸は確かにきゅんとした。こういう場面、漫画とかでもありそうな雰囲気だけど、そういうフィクションさがなくて、切実な感情が伝わってくるのが好き。○冬の日や浅瀬の鳩のうむ水輪なんかは『海藻標本』に入っていてもおかしくない、と思ったりもしたけど、でも『海藻標本』に入るなら季語は「冬の日」ではないだろうな、と思ったり。悶々としております。○谷に日のあたる時間や春の鳥そう、「時間」ね。自分も感心しながら読んだ。「時間」と「春の鳥」の持つ広がりが、「谷」っていう閉塞感のある場所の空気を明るくのびのびと広げてて気持ち良い。○夏蜜柑のぼりきれば坂せんぶ見えるなんかは、季語の上手さも相まって、広島県民としては瀬戸内海だと思ってしまう。見下ろせば、坂の道が一筋、瀬戸内海に向かってるなんて本当に気持ち良い。確かにのびのびとしてるなぁ。鬱屈とした句も。言葉の一つ一つが確かにこちらに向かってきてる感覚は『君に目があり見開かれ』にある。『海藻標本』は言葉がそれぞれにつながって一つのパズルの絵をなしている感じだろうか。その絵の例え、分からんでもない、というか感覚的にしっくりくる。怒られるっていうか、佐藤文香さん困っちゃう気がするけど。でも、今の私達に子供の頃のような絵って絶対書けないじゃない。あんな風に気が向くままに、自分の思いをしっかりと乗せて描くこともできないし、何より、一見見苦しいから、描こうと思わない。家庭科で習ったあの「頭足人」とか(笑)だから、きっちりとした絵が描けるようになった上で、子供のような絵を描けるってのはすっごい事だと思うよ。あの子供の絵独特の大胆な構図とか色使いとかやろうと思って、できるもんじゃないからね。あと、周りからの理解が得られにくくなる方向にチャレンジするところもすごい。と、より佐藤文香さんに失礼な方向に話を持っていってしまった。(柳)そうか、吸入器の句は、「わたし」が使っていたと思ったのだけど、よしこは「君」が使っていたと思ったのか。うーん、そっちの読みの方が自然で良いなぁ、俺もその読みに宗旨替えしちゃおう。夏蜜柑の句が瀬戸内海ってのは俺も思ったよ。瀬戸内海見たことがないけれど。(と書いて、松山に行ったときに飛行機から少し見たことを思い出す)気持ち良いよねぇ。登りきれば海全部見える、じゃなくて自分が歩いてきた坂が全部見える、というところなのもめっちゃ良いよねぇ。絵の話、フォローしてくれてありがとう。(笑)そうなのさ、大人になってしまうと、戻れないんだよね。成長するにつれて周りとの差異を埋めるように平均的、常識的な絵になると思うのだけれど、子供が描く絵は、純粋に自分の世界を投影していて、すごく大雑把に捉えているけれど、ものごとの根底をなす部分はちゃんと掬えていると思うんだよね。頭足人も然りで。さとあやさんはそれと似たようなことを意識的にやってるのかな、と思った(ほんとにどんどん失礼な方にいってしまう)さて、15000字ほどになったことをよしこが先ほど教えてくれたので、そろそろお開きにしましょうか。あまり新しい観点からの話は出来なかったかもしれないけど、たくさん好きかって話せて楽しかったー!またよろしくお願いします!(吉)いやいや、私の穿った見方はしないでね(笑)そっか旭川東は遠すぎるから、もう飛行機でくるのね。私達、船だから、瀬戸内海をちょうど渡ったよ。勿論、坂なのがいいんだよね。自分が歩いてきた道のりが全部視界におさまる、気持ちよさ。絵の話は、もはやフォローしてないというか、乗っかってしまった(笑)申し訳ない。佐藤文香さんには、更に申し訳ない。でも、おもしろい例えだと思う。こんな事を『君に目があり見開かれ』を読んで思ったのは、やなぎーしかいないでしょ。多分。自分も楽しかったー!!この企画は、私が、ちょっとハードル高すぎないか?っとビビってた企画なんですけど、やってよかった。当たって砕けた感はすごいあるけど(笑)実際に言葉に出してみたり、やなぎーと話を交わしたりすることで、自分の至らなさに改めて気づけるから、勉強になりました。ただ、佐藤文香論を語ることは、一人でもできるけど、こうやって二人で話すからこその発見も私にとってはあったし。ありがとうございました!!そして、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。もし、その中で『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』を読んだことがない方がいれば、是非、お買い上げいただければと思います。(旭川東のHPでこんなことやっていいのかな笑)私の拙い鑑賞なんてすっぱり忘れて、是非お読みください。どちらも、言葉では表現しきれない程、良い句集ですので。最後に、『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』から一句ずつ、一番好きな句(気分によって変わるけど)を紹介して終わりにしてもよいかな?〇待たされて美しくなる春の馬『海藻標本』〇風はもう冷たくない乾いてもいない『君に目があり見開かれ』(柳)そうだね(笑)なかなかハードル高そうだったし高かったけど、同じ年代の人とこうやって句について話せるのは本当に楽しいし貴重だし、嬉しかったー!これからもよろしくお願いします。そう、そう、どちらも本当に素敵な句集なのでぜひぜひ皆さん、お買い求めください。旭川東のホームページはこういうことして良い場だと思う、大丈夫。僕の好きな句は○ヨットより出でゆく水を夜といふ『海藻標本』○吸入器君が寝言に我が名あれ『君に目があり見開かれ』かなぁ。気分により変わるというのはすごく同意できるな。これにて対談は終了となります。ここまで読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございました! 2015-12-27T18:55:00+09:00 対談企画、「『海藻標本』『君に目があり見開かれ』(佐藤文香)を読む」です。柳元佑太(旭川東)×吉川創揮(広島)の第二弾!拙い鑑賞ですが、どうぞご高覧ください。柳)今回のテーマは『海藻標本』『君に目があり見開かれ』を読むってことで、よしことお話できることをとっても楽しみにしてました。よろしくお願いします。では早速話していきたいのだけれど、まずは『海藻標本』の句から話していってもよいかな?○少女みな紺の水着を絞りけり○スケートの靴熱きまま仕舞はるる○青に触れ紫に触れ日記買ふ俺はこのあたりの句がひとつの『海藻標本』らしい句なのかな、と思いました。隙のない、日常のトリビアルなところを新鮮な感覚で捉えている感じで。少女みなは有名な句だけど、やっぱりこれ、すごいよね。入り込む余地が無くて、圧倒されてしまう。日記の句も、日記を手に取るというありふれた動作のはずなのに、それ以上の絵画みたいな美しさがある。よしこはどんな風に思う?(吉)こちらこそ、楽しみにしてました!よろしくお願いします。四つとも好きな句です。『海藻標本』の一句目を飾る「少女みな」の句はうっとりさせられる句。個人的には、景がすごく鮮やかでキメ細やかなモノクロで浮かびます。言葉が美しい佇まいで一句に収まっている感じがあるな、と。「日記買ふ」の句は、色んな日記を手に取ってどれを買おうか迷っている、これから日記を書く楽しみがある、すごく心も体も動的な風景を、すごく静的に切り取っているのが印象的だな。感情が少し切り離されたような感じが絵画的な雰囲気を感じさせるのかも。『海藻標本』らしさのひとつとしてトリビアル、と言ってくれたけど、自分はトリビアルという程の細やかさはあまり感じなかったなー。確かに繊細な部分を切り取っているんだけど、なんとなく言葉にゆとり、広がりというか、伸びやかさがあるからなのかも。「日記買ふ」の句も、〈青に触れ紫に触れ〉が、色で捉えるという大まかな把握だと自分は思うし。新鮮な感覚とも言ってくれたけど、それは強く感じたところではあります。(柳)そうだね、トリビアルは言い過ぎたかもしれない。言ってくれた通り、題材は日常だと思うのだけど、それを文字に起こして「はい、トリビアルな句だよ」で満足してる感じじゃないよね。このあたりとか。○ガラス器に鬼灯ひとつひとつ哉○行く春の聞くは醤油のありどころそれがよしこの言ってくれた言葉のゆとり、広がりや伸びやかさというところなのかも。詩的な広がりがあって、単語がそれ自体の意味として終わっていない感じが、トリビアルと言ったときの違和の正体なのかな?「日記買ふ」を静的に切り取っているというのはなるほど、と思った。俺はこの句、わくわくじゃなくて、なんか艶かしいくらいな感じがするんだよね。子供じゃなくて、大人の女性が白い手が選んでいる感じがして。それがなんでかわからなかったのだけど、なんとなく腑に落ちた。それと、「新鮮」は読んでいく上でなんとなくキーワードな感じがする。類想のなさをすごく意識されている感じがするし、そこが次の『君に目があり見開かれ』に出てくる「私」という書き方に繋がるのかな、と思った。客観的な視点で物事を読む上では類想の避け方って、大きく分けて題材の選び方とその書き方の二つだと思うんだ。けど、主観的な書き方をするなら、私を句に落とし込むことで類想を回避できるのかなぁと。(吉)そう。トリビアルの本意ではないのは承知してるけど、自分はトリビアルと聞くと、物がそのまま物としてあるようなイメージがあるから、ちょっと引っかかったんだと思う。「日記買ふ」の句、青や紫という色のチョイスからだけじゃなくて、サラッとした詠みぶりが、また大人の女性像をイメージさせるよね。類想の回避か、なるほど。『海藻標本』において、〇待たされて美しくなる春の馬は、題材の選び方によるもの。〇緋目高の目のひとつある左側は、書き方による類想の回避となるのかな?その、類想の回避の方法が変化した結果が『君に目があり見開かれ』っていうの、面白い。確かに「私」は誰とも全く異なる唯一の存在だから、句に「私」を取り入れれば確かに、句は完全に類想を回避できる。オリジナリティを出しやすくなるわけか。まぁ、佐藤文香さん自身が『君に目があり見開かれ』の後書きで『ときに、わたしの心までが、わたしから出てきて見えるというのも、ふしぎで、ダサくて、素敵だ。』って言ってるから、順序的には逆で、句を詠んでいく中で「私」が徐々に表れてきた結果、の類想の回避なのかもしれないけど。佐藤文香さんは、十七音の中でも独りよがりにならない上手い塩梅で、「私」を句に落とし込んでいるなぁと思います。世界の外側に傍観者としていた『海藻標本』から、私の外側を見る(または外側を通して私を見る)『君に目があり見開かれ』への変化はおもしろい。いろいろ、言ったけどやなぎーの、類想の回避という観点から見るのアリだと思う。(柳)そうだね、順序は確かに逆だ。(笑)類想の回避を求めた結果ではないだろうし、色々な要素があって『君に目があり見開かれ』的な書き方になり、その結果類想がなくなったって言うのが正しい捉え方だと思う。海藻標本の○忘るるにつかふ一日を蔦茂るなんかはどちらかと言うと『君に目があり見開かれ』っぽい感じだと思うし、端正な「少女みな」のような句とこういう句が並存してるのが面白いよね。色々試してるというか、どうやったら俳句形式を自分が(この世代に生まれた自分が)フルで使えるのかみたいな感じにも見えて。佐藤文香さんの独りよがりにならないような「私」での読み方の感覚っていうのはすごく不思議なバランスだよね。「私はこうだったの、追体験してー!!!」みたいな感覚はまったくなくて、よむにつれて佐藤文香さんが分かっていくような(作中主体と作者が同一と捉えるとして)感じがする。世界の外側に傍観者としていた『海藻標本』から、私の外側を見る(または外側を通して私を見る)ことが『君に目があり見開かれ』への変化である、というのはまさにそう思います。うまく言葉にできないけど、豊かになった感じがする。(吉)あぁ、その『君に目があり見開かれ』な感じ分かる。がっつり「私」の句だね。私は〇人を離れて手花火を闇に消すなんか「君に目があり見開かれ」な雰囲気を感じる。どことなく寂しそうだし、詠み方自体は端正だけど、「私」と「私の外側」が見える。『海藻標本』は客観的で低エネルギーな感情が薄い句集と捉えられがち(と勝手に思ってる)だけど、確かに色んなタイプの句が並存してる。〇海に着くまで西瓜の中の音聴きぬ〇国破れて三階で見る大花火一句目の、俳句では歓迎されないであろう「聴く」を使うところとか、二句目の漢詩の「春望」の本歌取りとか、本当にさまざま。意外にチャレンジャブルな句集だと思う。佐藤文香さんは、俳句に本当に向き合ってる人だよね。(失礼で個人的な見方だけど)俳句を詠むことで、たましひを削ってそう。バランス感覚は本当に優れてる。『君に目があり見開かれ』は本当に、一句にとどまらず、句集を通して佐藤文香さんの描く世界全体に没頭しちゃう。後書きからも、その変化はけっこう表れてて、『海藻標本』の後書きでは、言葉に対する話だったのに対して、『君に目があり見開かれ』では、自分と、その周りの話になってるんだよね。『海藻標本』について、他に思ったことあるかな?今までの話と少しかぶるけど、句集全体を通して、温度がないというか、確かな、手で掴めるようなそういう存在感(景色や人の)があまりないなぁと思いましたね。感覚的な話だけど、ね。(柳)あ、俺もその花火の句好き。なるほど。たしかに変化を読み取れる気がする。「私」の存在の濃さがわかるね。それと、「句集全体を通して、温度がないというか、確かな、手で掴めるようなそういう存在感(景色や人の)があまりない」ってところは少しだけ肯うことができないというか、少しだけ字足らずな感じがするかも。むしろ、詠みこまれているものの安定した存在感は海藻標本の方があると俺は感じたんだー。ただし、これはなんていうのかな、向こうの世界というか。綻びがなくて入っていけない、というところがよしこのいう、「温度の無さ」とか「手で掴めなさ」なのかなー、と思ったよ。(あくまで『君に目があり見開かれ』での書き方と比べて、の話だけど)そして『君に目があり見開かれ』の方が、物が詠まれるときにそれを感じている作者を一枚通すから、それにより逆説的に、もの自体がリアルに、より確かになる…ってことなのかな。僕らが普段ものを感じている深いところの温度と同じ温度で書かれているから。主観を除く写生とは逆の手法ながら、リアルさの追求という点では方向性が同じなのかも、と少し思いました。この方向性も、人が不変と考えれば、普遍性や耐久性もあるんじゃないかとも思えるし。(普段使わない難しい言葉を連発しているので、いま俺はぜーぜー言ってる)(吉)まぁ、あとがきを根拠に話をするのは句を語る上では良くはないと思うから、あくまでも参考にだけどね。私がなんとなくで言った事を真剣に考えてくれてありがとう。すまんね。考えて喋る癖をつけねばなぁ……。そして、指摘された通り言葉足らずです。ただ、上手く言葉を補えないので、一旦、保留。『海藻標本』の方が『君に目があり見開かれ』より確実に存在感、手ごたえはある、のは分かる。自分があげた「緋目高」の句とかを読めばそれは明らか。それ故に、句の景色が完成されているが故に、「手で掴めなさ」を感じると、やなぎーは解釈したのか。それは一理あるかも。句に対して、読者の私が入り込む余地がないから、温度も手ごたえも感じれずに、ただ見てるだけなのかも。(この話は引き続き、私の中の問題として考えときます。解釈ありがとう)『君に目があり見開かれ』へのやなぎーの意見はめちゃくちゃおもしろい。句に人間の心が通っているから、読み手の人間と共鳴しやすい、ってことか。こう見ると、『海藻標本』も『君に目があり見開かれ』もリアリティーある作品だなぁ。やなぎーが言ってることで十分なので、コメントすることない(笑)無理させてごめんよ!!(柳)いやいや、俺もあんまり句に基づいて話せていなくて、机上の印象論ぽくなってしまって、申し訳ないー。『海藻標本』には完成した感じの句以外にも、読む余地のある楽しい句もあるから一概には言えないと思うのだけれど。それに、どちらの作り方もそれぞれの良さ、楽しさがあると思うし、佐藤文香さんの場合はさ、あんなに端正な瑞々しい句を作れるのに、私を主体とした句になっていくのが、俺には本当に興味深いし、本当に尊敬しちゃうよね。ここからは『君に目があり見開かれ』の話になってしまうと思うけれど、この、「なにが書かれているかわからないけれど、でもなんだか好き」の豊かさみたいなのがあると思うなー。『君に目があり見開かれ』の○これもあげるわしやぼん玉吹く道具○星がある見てきた景色とは別にこのあたりはさ、一見何の意図で書いていて、何が書かれているか取りづらいじゃない。考えてみるとおぼろげながら分かった気になるけど、手応えはなくて。でも確実に面白いなぁ、って分かる。(分かるというか、思う)よしこは『君に目があり見開かれ』のどんな句が気になった?(吉)毎回、話のフリがなくて申し訳ない。『海藻標本』も一言でくくれるような単純な句集じゃないものね。全体を通して、論を語れないのはしかたないことだと思う。〇祭まで駆けて祭を駆けぬけてなんて元気の塊みたいな句も紛れてる。佐藤文香さん、まず第一句集に俳句甲子園最優秀賞の句を載せないっていうのが凄いし、そこから『海藻標本』の完成度から離れて、角川俳句賞とかでも勝負してるのが本当にかっこいい。そう、分からないって魅力の要素だよね(笑)俳句はそこがおもしろい。『君に目があり見開かれ』はそんな魅力にあふれてる。(勿論、これも一概には言えなくて意味が分かる故におもしろい句もあるけど)この二句、好きだな。特に「これもあげるわ」の句、好き。ただ、しゃぼん玉を吹く道具をあげてるだけ、で余白の広がりがいい。あげる物が特別なにか利益が生まれる物じゃないのが意味深で、深読みするけど、結局その意味がはっきりしなくても好き、だと思えてくる。咀嚼しようとしてもできないのに、どんどん好きになる句が『君に目があり見開かれ』には多い気がする。全然、句の意図が見えない句の中で好きなのは、〇土手のぼくらの背景にある煙〇雲流す仕掛に蝶が来てゐるよ意味が分からないながらに、寂しくなる。なんとなく寂しげな気配を全体的に感じるのも、自分には魅力的。どうだろうか??(柳)○夕立の一粒源氏物語(俳句甲子園最優秀句)これを捨てたのはすごいよな。今ちょうど古典が源氏物語なんだけど、学べば学ぶほどこの二物衝撃が響き合う感じがして興奮してる。(笑)祭りの句も、めっちゃ良いよな。音のリズムや母音、句またがりなどもあってどんどん加速してくもの。そしてね、あーーーーめっちゃ分かるよ、すごく共感できる、わからないの魅力。しゃぼん玉吹く道具の句はさ、それ以前に同様に何かが受け渡されていたことがわかるけど、じゃあそれは何なのだろうと気になっちゃってさ。考えた結果、俺は「名前のないもの」を受け渡しているんじゃないかなぁって思った。(笑)「しゃぼん玉吹く道具」ってさ、それ自体に価値があるわけじゃなくて、「しゃぼん玉」に価値があるから価値がでてくるものでさ、「しゃぼん玉」があるから「しゃぼん玉吹く道具」って呼ぶことができるわけで。こういうものを集めてるのかなぁ、「私」、なんて思ってさ。白くて、さみしい感じがする。俺は、○星がある見てきた景色とは別にも好きだな。海藻標本に、○春日傘閉ぢてはじめの空あかるしという句があるけど、佐藤文香さんはこういう見方ができるんだなぁってすごく感動しちゃう。ずっとあるものに順番をつけたり、別々にしたり。うんうん、その二句は完全に意味を離れちゃってるような感じがする。○土手のぼくらの背景にある煙普通さ、助詞の「の」ってこんな風に使わないよね。大きい名詞からそれに所属してる小さい名詞に繋ぐときに「の」を使うと分かりがよいと思うのだけど、「土手」の「ぼくら」の「背景」って言われると(おそらく「土手」の「ぼくらの背景」だと思われるが)どこがどこにかかっているのかわからなくて、単純にそのフレーズの持つイメージをぐるぐるさせた感じのまま、煙に収束しちゃう。するとなんだか不思議な理解があるんだよな。(笑)意味が分かりづらい句の系統の他にも、いろんな句があるよね。たとえばこの『君に目があり見開かれ』、恋愛句集と銘打たれているけれど、そのあたりはどうかな?(吉)なんか、突然テンション上がってない?(笑)私も、今回堅苦しくしすぎたから、少し力を抜こう。「名前のない物」を渡してる、か。なるほど。しゃぼん玉を吹く道具は、シャボン玉っていうすぐ壊れてしまう、「無」を生む道具で普通、子供にしか価値がないものな気がする。だから、大人になりかけの私が近所の子供に渡して、去っていく……。みたいな、自身の子供時代との別れみたいなものも感じたのね。だから、他にはビー玉とかあげてる気がする。やっぱり、しゃぼん玉とかビー玉とか綺麗だから純粋だった頃を思わせるというか……。言葉足らずなんだけど、これ以上上手く言えない。と、ここまで書いて、こんな解釈するのは心がボロボロでカピカピの雑巾の私だけだな、と思った(苦笑)白くて、さみしい感じがするってのは分かる。物を渡したこの人はこの白さの中に溶け込んでいくんだろうな、とも思う。「土手のぼくらの」の句、といい、かかっていく先が分からなくなっていく句は、確かにある。この句の魅力、すごく柔らかい言葉で写生してることだと、思うけど。レンアイ句集、と銘打たれてるのはすごく興味深いポイントだよね。私の中ではレンアイ句集がただの恋愛だけを指すものではないと思うけど、それはさておき、とりあえず恋愛句っぽいものをあげると……〇また嘘を君が笑って蛾が痛む〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよとか、どちらかというと恋を詠んだ句は、満たされていない、完全に幸せではない句が多い気がする。ただ単純に、俳句という枠で、甘い、幸せな恋を詠むのが難しいだけかもしれないけど。一句目は、下五でかなり飛躍して蛾にいくことで、複雑な感情を表現できてるし、二句目はもう、一句が一つのすごく切実なフレーズになってる。あえてカタカナのレンアイなのは、恋とか好きだとか、そう一言でくくれない、切実な感情を句に詠んだからなのかな、と思ったりするけど上手く言えないし、漠然とした感想であって根拠は上手く言えないや。恋愛句ではないけれど、〇風はもう冷たくない乾いてもいない〇ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふなんかは、人相手の時とはまた違った切実な感情を感じる。これは人相手ではなく、自分の外側に対するレンアイなのかな?とこれまた漠然と思ったりする。(本日二回目の、ぼんやり発言ごめん)まぁ、後は、「私」と「私の周り」を詠んだ句集だから、『海藻標本』の時、一歩離れて傍観していた時とは違って「私」と「私の周り」の感情のやりとりがあるので、そのことをレンアイと呼んだのかな?まぁ、一度も恋を経験したことがない(片想いすらない)私にはレンアイを語るのは少し酷です(言い訳)私、よりもレンアイ経験が豊富であろう、やなぎーどうでしょう??(柳)いや俺レンアイ経験豊富じゃないからー!やめてくれー(笑)テンションは上がってるけど。うんうん、レンアイについて、外に対する興味のようなものも含まれるというのは、俺もそう思うな。俺はこの句集、それぞれの句の幸せに関する距離や捉え方みたいなものが、書いているその時々の書き手のテンションがそのまま出てるというか感じられる気がするなー。その浮き沈みの感じが、俺はすごく恋愛だな、と思って納得できたよ。主体がいる以上、当然といっちゃ当然なのだけれども。○花に夕焼スパゲティを巻いてなほ○雨の日の水澄むことのほんたうに○歩く鳥世界には喜びがあるこの辺りは、世界は幸せなんだって疑いもないような、そんなピュアな感じがする。「花に夕焼」の句は、すごく満ち足りている感じがする。それに対して、○焼林檎ゆつくりと落ち込んでゆく○やはやはの毛布を干せばかなしみの○Tシャツをまた着て幸せな一日この辺りはすごく辛そうな、悲しい感じがする。でもなんていうのかな、幸せが存在するからこその不安だったり、悲しみであることをわかっている雰囲気がある。いつかくる幸せのことをわかっているというか。○冬木立しんじれば日のやはらかさ○干草や笑つておけば愉快な日この二つの「ば」は、自分が頑張れ「ば」だよね。この辺りが幸せな感じの句と辛い感じの句の中間の気がする。作者のモットーというか、作者はこうやって生きてきたのかな、なんて思うと、他の句の読みも自ずと変わってくる。○セーターをたたんで頬をさはられて○さしあたりぬくし押し倒されやすし○Tシャツをまた着て幸せな一日この辺りも興味深い。すごく際どいラインを詠んでる。受け身な、弱さや脆さみたいなものを感じる。三句目は読みに自信がないからここに入れてよいのかわからないけど、一日に何度も、好きな人と行為をしている日曜日みたいな感じがするし。そう読むと「幸せな一日」のフレーズが、自分に言い聞かせるような感じにもとれる。○月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふこれも恋だろうなぁ。どの句も、読めば読むほど、困惑してしまうほど恋愛な感じがしてくるのだけれど、これは俺だけなのかもしれないな。(笑)(吉)それは失礼いたしました(笑)自分が、満たされていない云々言ったけれど、勿論、感情には波があって、幸せな時も落ち込んでる時もいろいろありますね。ただ、今、もう一度読み返しても、全編を通して満ち足りていない感覚は感じるのね。それは句の意味が要因ではなくて、形式にとどまらない不安定で壊れそうな句の形と文体によるものだと思うけれど。「歩く鳥」の句なんか、しあわせがある。とまで言い切ってるしね。確かに、幸せの只中の句。この句は本当に好きな句です。「花に夕焼」の句は一句の中に「私」と「世界」がはっきりと並列に存在にしてるところからも満ち足りてる感じしますね。ここらへんの句は「私」が「世界」に対する違和感を持ってなくて、素直に受容してる印象を受けます。ただ自分は〇雨の日の水澄むことのほんたうには幸せではないと感じてしまう。ピュアというか、真直ぐに世界を見つめる視線は感じるけどね。最後に「ほんたうに」と言ってしまうあたりから、触れると切れそうな痛々しさのようなものを感じる。なんとなく「ほんたうに」が怖いんだよね、自分。まぁ、これは私の感覚の問題だ。逆に悲しい句として挙げられた句を、やなぎーは幸せと隣り合わせの悲しみと捉えた、と。同意。また、文体の話するけど、『君に目があり見開かれ』の文体の不安定さは、切実さも、説得力の低さもどちらもある生むと思うんだよね。やなぎーが例にあげた〇やはやはの毛布を干せばかなしみの「ば」の接続の流れを無視したように出てくる下五の「かなしみの」の唐突さ、最後に持ってくることによって生まれる言葉の重みが、なにか言いたくて伝えたくてしかたがない、そんな衝動、切実さを生んでる、と思う。と、同時にその唐突さ、文体の不安定さで読者の中で完全に意味が通らないことによって、「かなしみの」がズバッと心に切り込んできても、一句全体は心の中で完全に着地できない。だから、読者の感覚に句は響くんだけど、説得はできないから、悲しみのどん底にいるような、もう絶望しかないようなそんな深刻さを読者は印象として持たないのかな。思考じゃなく、感覚が句にと共鳴するというか。まぁ、後季語が「毛布」だったり、「焼林檎」だったり、日常の幸せの中にあってもおかしくない季語が取り合わされてるからっていうのもあるかな。これは全編通して思うことでもあって、「私」は日常の中の悲しみも幸せも、全部自分で消化しきれてないうちに、言葉にしてるような印象を受ける。だから生の感情の強さと、意味が頭で結ばない傾向があるのだろう。文体の不安定さ、壊れやすさから、思うことね。(ただ、これは佐藤文香さんの計算の中なんだろう)○冬木立しんじれば日のやはらかさ○干草や笑つておけば愉快な日この二句はかなり好きな句なんだけど、自分が頑張れ「ば」、っていう共通点があったのか。なるほど。ありのままの自分では、幸せを手に入れられないっていうのが、本当に切ない。この二句は、「私」と「世界」のズレ、違和感を確かに感じているんだね。世界との「ズレ」は〇風はもう冷たくない乾いてもいない〇ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふからも感じること。自分が立ち止まっていると、「冬」も、「千鳥」も過ぎ去ってしまう。この二句はやなぎーが挙げた句ほど、感情があらわになってはいないけど、切ない。(この一言でくくるのはよくないけど)たしかにここらはきわどい句群。弱さ、脆さは確かに感じる。すごく受け身だね。「歩く鳥」のような幸せを受容してる時とはまた違う受け身の姿勢。ただ、自分はTシャツの句は、そういう風に解釈しなかったかな。平凡な日常の連続を詠んでるのだと思った。ここらは人とのレンアイだし、男女の関係なのだろうけど、恋愛とは書き表したくない独特の雰囲気を感じるな。恋愛と書けるほど、俗ではないカンジ……?いや、安っぽくないカンジ……?〇月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふもまた、好きな句。これもまた、俗じゃない感じがする切実な感情が見える。むしろ、読者の私が触れるのはいけない気もする、二人だけの世界を感じる。たしかに、レンアイ句集と言われると、なんでもレンアイの句に見えてしまうよね(笑)『海藻標本』と違って、『君に目があり見開かれ』は句集を通して一つの作品っていう意識が高い気がする。その演出のひとつとして、レンアイ句集と銘打ったのかな、と思うけど、まさにその術中にはまってますな、自分もやなぎーも。今日、読み直して最後の白紙のページ数枚をぼーっと見て、ここまで独特な空気感を持った句集はないなぁと思った。メランコリックというか、なんというか。(柳)うむ、「やはやはの毛布」などの句のよしこの読みに感心してしまった。(笑)文体の不安定さっていうのは、俳句形式と馴染みにくいように思われる「口語」と「意味が一般的な感覚では機能しにくい言葉の順序、組み合わせ」、「句またがり、破調」ってところだろうか。「生の感情」「全部自分で消化しきれてないうちに、言葉にしてるような印象を受ける」ってところ、すごく共感できる。おそらく、佐藤文香さんのいうところの「超口語」っていうのは、〈口に出して使う言葉〉を〈もっともっとプリミティブな言葉〉(つまり、言葉として口に出てくるか出てこないかのギリギリの部分の、言葉をなす前の感情の固まりみたいなもの)に近いのかもしれない、と言ったら言い過ぎな気がしたけれど。おそらくそれが、意味を為しているように思いにくい、説得力はあまり思えないが深く何かを感じるところの正体であるのかも。作風の変化があったということは、少なくともこのような超口語を意図して使って、句集としてまとめているのだろうけれど、このような句はどうすれば作れるのかすごく不思議。作る道筋が見えないというか。(見えたらそれは超口語ではないのだから当たり前だけど)よしこの言うとおり、『君に目があり見開かれ』は全体に統一性があるよね。そこによしこはメランコリックさを感じとったのか。なるほどなぁ。俺はもちろん、その側面もすごく感じるのだけど、句集としてはやっぱり幸せさを感じるんだよなぁ。悲しみや哀しみ、切なさのなかの幸せというか。まあこれは、感覚の問題だね、好きなように読めばよいよね。他に『君に目があり見開かれ』で感じたところはあるかな?(吉)うん、自分の思う文体の不安定さは、そういったものかな。定義づけありがとう。佐藤文香さん、「超口語」なんて話をしてたの??勉強不足です。知らないなぁ。自分は(つまり、言葉として口に出てくるか出てこないかのギリギリの部分の、言葉をなす前の感情の固まりみたいなもの)っていうのは言い過ぎとまでは思わないよ。部員と『君に目があり見開かれ』の句を部員と話した時、辞書に載ってる言葉では表現できない句が多いね、って話した事あるし。すごく納得がいく。俳句で感情を表現するのは難しいってよく言われるのは、事実だけど、感情は言葉にすればするほど本質、「生の感情」から離れていくから、十七音という短さで余白に任せる俳句だからこそ、表現できる感情もあるのだなぁ、とも思った。いや、この句集、本当にすごいよね。本当にどういう思考回路にすればこんな句が、言葉が出てくるのかまるで分からない。更にすごいのがその難しさのようなものを、読者に感じさせないことだよね。口語だからってのもあるだろうけど、本当にスルリと簡単に言葉になったような印象を受けてしまう。メランコリックって言ったのは忘れて(笑)意味もあんまり知らないくせに使っちゃった。「憂鬱」とかが意味なのね。そういう意図ではなくてもっとパステルカラーで、夢を見てるような感覚っていうのを言いたかったの。ちょうど、『君に目があり見開かれ』の紙の薄いピンク色を思う。見る角度、見る人の気分によっては喜びにも幸せにも切なくも悲しくも映る、そんなパステルピンク。あと、読者の日常の地続きにあるような句集だと思う。他に気になったところを挙げると、やっぱり、目についたのは無季句。〇ひかりからくさりかいしてぼくのきず〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよのように、感情が無季句では更に強く押し出されてる印象がありました。あと、有季の句でもどこか無季っぽさがあるな、という印象も〇やはやはの毛布を干せばかなしみの○歩く鳥世界には喜びがある○Tシャツをまた着て幸せな一日こういった句から受けました。ただ単に、季語が年中生活になじんでいて季感が薄い季語を取り合わせているからといった理由だけでは、この無季感はなんとなく片付けられない気がする。やなぎーはこの無季句、無季っぽい句、どう思います??(柳)そうだね、句の色がパステルカラーっていうのはとてもわかるぞ。黄色、ピンク、オレンジ、そのあたりだよね。「見る角度、見る人の気分によっては喜びにも幸せにも切なくも悲しくも映る」っていうのにも共感。ゆるく書かれていてぼくらに読みが制限されない分、すとんと落ちてくるのかも。無季の句、実をいうと俺は一回通して読んだときに無季であることに気づかなかったんだよね。(笑)それは有季の句の季節感が薄く感じられて、だから無季の句でもその中に紛れ込めたからなのかな、と思った。まず、季感の薄い有季の句で言えるのは、季語の持つ情緒とか、そういうものを感じさせないように書いているからかな、と思う。(やはやはの毛布、Tシャツ、とか)季語をただ単に物として、そこにあるものとして書いているからかな、と。もちろんそうでない、季語を季節感を感じさせる語として使っている句もたくさんあるけれどね。季語も、季語じゃない言葉も、同じように物として読む。だから無季も生まれるんじゃないかな。それに、季語を入れるよりも優先すべき書くことがあるんだろうし、季語が無い句の特徴として感情が更に強く押し出されているといってくれたけど、それはある種当然の結果なのかもしれないね。この方向性をより強く進めた句(感情だとか、自分を強く読むとき)には、季語が必要ないのかも。かえって邪魔というか。(吉)あぁ、分かるかも。自分もあんまり季節を感じながら読まなかったし、無季句が多いな、って思ったのも読後だし。感情を俳句っていう器で表現するっていうことをしたいから、季語を入れるっていう枠にはとらわれていないんだろうな。さっきあげた無季句の中で一番好きなのは〇泣きやんで泣いて泣きやむまでゐてよかな。一度、気持ちが落ち着いたかと思ったら、また何故か泣きだしてしまう、っていうその心情、シチュエーションはすごく分かるし、この人は独りぼっちで泣いてるんじゃなくて、傍に頼りたい、寄り添ってほしい人がいるっていうのが素敵だなと。そして、もっと素敵だと思うのが、この人が自分の弱くて、醜くて仕方がない泣いている姿を他人に見せれる人だ、って事。自分とは正反対なその姿がいいな、って思った。(すごく個人的な事情だけどね)そして、無季っぽい句も好きだけど、有季感ある句もすごい好きなんだよね。ただ、同じ有季でも『海藻標本』とは異なる雰囲気をまとった句が多い。『君に目があり見開かれ』が、ただ感情や、「私」を押し出しただけではなく、世界を見つめるまなざしのもある句集だというのが、ここらへんの句群から分かる気がする。そして、『君に目があり見開かれ』がただポエティックな俳句ではなくて、ちゃんと俳句だな、と自分が思えるのもここらへんの句群がさりげなく入ってるからだろうな。〇春深しみどりの池に木は倒れ〇木ずらつとそこが朧で夜を呼べる目についたのをザッと挙げてみたけど、意外と雰囲気が違う句が並んだなぁ。一句目には、永遠のような時間の流れを、二句目には、主観の鋭さ、それぞれ『海藻標本』にはない感覚を感じた。やなぎーはどうだろうか??やなぎーの好きな有季の句は他にある?(柳)うんうん好きな句、あるある。海藻標本からみても、本当にバリエーション豊かな書き方のできる人だなぁって思う。あっちからみたりこっちからみたり、主体を変えてみたり、幼く書いてみたり。無季の句ではないけれど、○吸入器君が寝言に我が名あれこれめっちゃめっちゃ良い。『君に目があり見開かれ』のなかでもとっても推したい、お気に入りの句。喘息持ちなんだろうな、私が。夜中にぴゅーぴゅー呼吸が苦しくなったりしてさ。そんなときにさえも、君には私のことを思っていてほしいっていうすごく人間的な欲求というか。純粋で、きゅんとしてしまった。いやー、これはほんとに良い。○春深しみどりの池に木は倒れ俺もこれ好きだなー!全ての言葉が少しずつ意味の重なり合う繋がり方をしていて、メルヘンチックなしりとりをしている感覚になる。○冬の日や浅瀬の鳩のうむ水輪○谷に日のあたる時間や春の鳥ここらも、平明な、なんてことの無い句だけれど、安心する句だよね。二句目なんて、こんなに「時間」を堂々と置けるものだよなぁ。その緩い感じに「春の鳥」を付けると、もっと緩くなりそうな感じがするけれど、ああ、確かだなぁって感じる。○夏蜜柑のぼりきれば坂せんぶ見える最高に爽やか。夏蜜柑の季語がすごく効いているよね。俺もこんな風にいくつかあげてみたけど、どの句ものびのびとしていて、開放感があるよね。鬱屈なことを書いている句もすごく素直に、開けっぴろげに書いているし、幼く書いている感じがする。『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』の違いは、すごく感覚的に言うとさ、海藻標本はボールペンなどの鋭利な筆記用具で、精密に細部まで書き込まれているけれど、『君に目があり見開かれ』はクレヨンとか、水彩画で太く、大きく大胆に書かれている感じ。そう考えるとさ、『君に目があり見開かれ』は、もちろん良い意味で子供が書いた絵みたいな側面もあるのかもしれない。(こんなことをいったら怒られるてしまうだろうけれど)(吉)いや、ほんとに何がすごいって、『海藻標本』のような句が詠めなくなったわけではなくて、詠まないってことだよね。俳句の色んな可能性にチャレンジしてて、かっこいいい。○吸入器君が寝言に我が名あれは私も好きな句。ただ、最近まで「吸入器」が季語ってことを知らなくて、無季の句だと思ってたけど(笑)人間らしい、句だよね。自分の事を思っていて欲しいと願う、その気持ちは素敵。だけど、その願いは自分からの一方的な思いで、愛の重さの天秤が完全に「私」に傾いているように思えて、切ない。こういう時に穿った見方をしてしまう、自分があまり好きではないけれど、一応寝ているから状態は落ち着いているんだろうけど、さっきまで苦しんでいた「君」に思う事が、私の名前を呼んでほしいっていう願いなのは、醜さといったら言い過ぎだけど人間の弱さも表れてるとも思っちゃう。全部含めて、胸は確かにきゅんとした。こういう場面、漫画とかでもありそうな雰囲気だけど、そういうフィクションさがなくて、切実な感情が伝わってくるのが好き。○冬の日や浅瀬の鳩のうむ水輪なんかは『海藻標本』に入っていてもおかしくない、と思ったりもしたけど、でも『海藻標本』に入るなら季語は「冬の日」ではないだろうな、と思ったり。悶々としております。○谷に日のあたる時間や春の鳥そう、「時間」ね。自分も感心しながら読んだ。「時間」と「春の鳥」の持つ広がりが、「谷」っていう閉塞感のある場所の空気を明るくのびのびと広げてて気持ち良い。○夏蜜柑のぼりきれば坂せんぶ見えるなんかは、季語の上手さも相まって、広島県民としては瀬戸内海だと思ってしまう。見下ろせば、坂の道が一筋、瀬戸内海に向かってるなんて本当に気持ち良い。確かにのびのびとしてるなぁ。鬱屈とした句も。言葉の一つ一つが確かにこちらに向かってきてる感覚は『君に目があり見開かれ』にある。『海藻標本』は言葉がそれぞれにつながって一つのパズルの絵をなしている感じだろうか。その絵の例え、分からんでもない、というか感覚的にしっくりくる。怒られるっていうか、佐藤文香さん困っちゃう気がするけど。でも、今の私達に子供の頃のような絵って絶対書けないじゃない。あんな風に気が向くままに、自分の思いをしっかりと乗せて描くこともできないし、何より、一見見苦しいから、描こうと思わない。家庭科で習ったあの「頭足人」とか(笑)だから、きっちりとした絵が描けるようになった上で、子供のような絵を描けるってのはすっごい事だと思うよ。あの子供の絵独特の大胆な構図とか色使いとかやろうと思って、できるもんじゃないからね。あと、周りからの理解が得られにくくなる方向にチャレンジするところもすごい。と、より佐藤文香さんに失礼な方向に話を持っていってしまった。(柳)そうか、吸入器の句は、「わたし」が使っていたと思ったのだけど、よしこは「君」が使っていたと思ったのか。うーん、そっちの読みの方が自然で良いなぁ、俺もその読みに宗旨替えしちゃおう。夏蜜柑の句が瀬戸内海ってのは俺も思ったよ。瀬戸内海見たことがないけれど。(と書いて、松山に行ったときに飛行機から少し見たことを思い出す)気持ち良いよねぇ。登りきれば海全部見える、じゃなくて自分が歩いてきた坂が全部見える、というところなのもめっちゃ良いよねぇ。絵の話、フォローしてくれてありがとう。(笑)そうなのさ、大人になってしまうと、戻れないんだよね。成長するにつれて周りとの差異を埋めるように平均的、常識的な絵になると思うのだけれど、子供が描く絵は、純粋に自分の世界を投影していて、すごく大雑把に捉えているけれど、ものごとの根底をなす部分はちゃんと掬えていると思うんだよね。頭足人も然りで。さとあやさんはそれと似たようなことを意識的にやってるのかな、と思った(ほんとにどんどん失礼な方にいってしまう)さて、15000字ほどになったことをよしこが先ほど教えてくれたので、そろそろお開きにしましょうか。あまり新しい観点からの話は出来なかったかもしれないけど、たくさん好きかって話せて楽しかったー!またよろしくお願いします!(吉)いやいや、私の穿った見方はしないでね(笑)そっか旭川東は遠すぎるから、もう飛行機でくるのね。私達、船だから、瀬戸内海をちょうど渡ったよ。勿論、坂なのがいいんだよね。自分が歩いてきた道のりが全部視界におさまる、気持ちよさ。絵の話は、もはやフォローしてないというか、乗っかってしまった(笑)申し訳ない。佐藤文香さんには、更に申し訳ない。でも、おもしろい例えだと思う。こんな事を『君に目があり見開かれ』を読んで思ったのは、やなぎーしかいないでしょ。多分。自分も楽しかったー!!この企画は、私が、ちょっとハードル高すぎないか?っとビビってた企画なんですけど、やってよかった。当たって砕けた感はすごいあるけど(笑)実際に言葉に出してみたり、やなぎーと話を交わしたりすることで、自分の至らなさに改めて気づけるから、勉強になりました。ただ、佐藤文香論を語ることは、一人でもできるけど、こうやって二人で話すからこその発見も私にとってはあったし。ありがとうございました!!そして、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。もし、その中で『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』を読んだことがない方がいれば、是非、お買い上げいただければと思います。(旭川東のHPでこんなことやっていいのかな笑)私の拙い鑑賞なんてすっぱり忘れて、是非お読みください。どちらも、言葉では表現しきれない程、良い句集ですので。最後に、『海藻標本』と『君に目があり見開かれ』から一句ずつ、一番好きな句(気分によって変わるけど)を紹介して終わりにしてもよいかな?〇待たされて美しくなる春の馬『海藻標本』〇風はもう冷たくない乾いてもいない『君に目があり見開かれ』(柳)そうだね(笑)なかなかハードル高そうだったし高かったけど、同じ年代の人とこうやって句について話せるのは本当に楽しいし貴重だし、嬉しかったー!これからもよろしくお願いします。そう、そう、どちらも本当に素敵な句集なのでぜひぜひ皆さん、お買い求めください。旭川東のホームページはこういうことして良い場だと思う、大丈夫。僕の好きな句は○ヨットより出でゆく水を夜といふ『海藻標本』○吸入器君が寝言に我が名あれ『君に目があり見開かれ』かなぁ。気分により変わるというのはすごく同意できるな。これにて対談は終了となります。ここまで読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございました! 柳元 × 萩原 (天文季語) http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1123675 部内対談企画です。今回は一年生の萩原海と二年生の柳元佑太です。これから少しずつこのような企画をブログに載せていきたいと思いますので、お時間があれば是非のぞいてみてください。(柳)天文部も兼部している萩原との対談ということで、天体というテーマで鑑賞会をしたいと思います。はぎー、まずは好きな句を教えてください!(萩)新月や昨日インコの死んだこと(第18回俳句甲子園公式作品集より)今年の俳句甲子園で済美平成が敗者復活で出した句です。(柳)うんうん、これは作者の実感がすごく溢れた句だね。このことを詠むのはすごく大変というか、一種の昇華みたいな感じで。はぎーの考えるこの句の魅力ってどんなものかな?(萩)そうですね。作者のインコへの愛がしみじみと伝わってきます。でも、あまり感情が文面に出過ぎていないところ、新月が代わりに作者の思いを代弁しているところがこの句の魅力だと思います。(柳)うん、「ーなこと」みたいな風に突き放して詠んでるから、余計に痛々しいというか。作者が感傷的にならないように句にしようとしているのが伝わって、さらに句に悲しさが滲んでいる感じがあるよね。心象的な季語の使い方をしている感じだ。俺もこの月の使い方は面白い(といったら不謹慎だね)なと思ったよ。この季語のこの句における効果をもう少し教えてほしいな。(萩)そうですね。新月という神秘的な響きのする季語が「死」という一種の生命の神秘というところに共鳴しているところや、これは実際に済美平成さんが敗者復活で言っていたことなんですが、新月はまた再び満月に向かって満ちていきますが、死んだインコはもう戻らないという再生するものと再生しないものの対比も生み出しているのではないかと思います(柳)うんうん、そうだね。新月ってさ、なにも見えない闇に「月」を見たもので、終わりでもあるけど、始まりでもあるんだよね。満ちていき、また欠けていく。生命の循環の象徴みたいで。済美平成さんが言った通り、そういう対比もあるかもしれないね。ちょっとこの季語って付きすぎじゃなぁい?って思ったけれど、平明な言葉の中七下五の冷静さでバランスが取れてるのかもしれないね。意味だけじゃなくて、詠み方を気にしたのが成功の要因かもね。(萩)柳本先輩はどんな句を選んだんですか?(柳)部長の名前間違ったから減点な。(笑)まったくもうー!!俺はとっても悲しいぞう。ということで、象の句です。月光の象番にならぬかといふ飯島晴子(『春の蔵』より)この句を鑑賞したいなぁ。はぎー、さきに鑑賞してくれるかな?(萩)漢字間違ってました...。すみません柳元先輩...。サーカスの句でしょうか?月光に照らされながら象が出番を待っているという句だと僕は思いました。象の大きな背中が月光に照らされている様子がはっきりと浮かんできます。(柳)大丈夫だよー。なるほど、月光の象/番にならぬかといふと読んだのか。それは面白いな。ピエロも一輪車乗りも出番を待っているなかで象も出番を待っているって、童話の世界みたいだね。それでもうすぐ象の出番になるんだろうね、象がちらちらステージを見ていたりしてさー。なるほどなぁ。俺はね、句切れなしだと読んだんだ。景を簡単にいうと、飼育員の人から「今日の夜の象番、任せてもよいかな?」みたいに言われてるんだと取ったの。そこで、象の檻には月光が射し込んでいる様子を作者が思い浮かべたんじゃないかなぁと。虚構の句だと思うけれどね。(萩)象の夜番ですか!確かにそうですね!月光の冷たい感じと檻の冷たい感じがよくマッチしていると思います。象の番を任された(頼まれた?)飼育員の感情なども見えてきそうですね。(柳)要素としては、月の光と象しかなくてさ、でもなんだか時間の流れがそこだけ他と違うような空間じゃない?檻のなかで生きて、檻の中で象は死ぬ。つまりそこは、象の過ごす一生の場所であり、時間なんだろうね。そこに月の光が射し込むのは一種の労りみたいな優しさがあってさ。飼育員の感情ってさ、具体的にはどんな感じかな?(萩)「うわー面倒くさい」とか、そういう感情ではなくて、うまく言えないですけど、その象のお父さんになったような気持ちで、お世話をしたり見守っていたりしているという飼育員の心情が見えてくると思います。確かに優しいですね。(柳)はぎーなら「うわーめんどくさい」って言いそうだけどな。(笑)お父さんか、なるほどねぇ。俺は自然の神秘とか、永遠とか、そういう類のものに触れる畏敬の念と、抑えきれない好奇心みたいなものを感じだな。これさ、象番になるとは言ってないよね。まだ打診されただけでさ。それに、これは想像だけど実際には象番にならなかっただろうね。それだけに作者の心に結んだこの景における月光って、作者の象に向ける眼差しなのかも。(萩)畏敬と好奇心ですか...。確かに月光という神秘的な季語が感情を浮かび上がらせていますね。なんでしょう。好奇心はあるけどやっぱり触れられなかった、ということでしょうか。(柳)いや、触れたいけど触れられないっていうもどかしいのニュアンスじゃなくて。なんていうのかなー。例えば、動物園に遊びに行ったとして、そこで象の飼育員さんと仲良くなったとする。日も暮れてきて、暗くなり帰ろうとしたら、飼育員さんが「このまま今日の夜の象番やってみないかい?」って冗談でいうわけ。もちろん、そんなわけにはいかないから、「あははご冗談をー」みたいな。そしてふと、越えちゃいけないラインみたいのが見える。こんなニュアンス。伝わるかなーー。(笑)(萩)ああ!そういうことですか!(柳)うん、まあ俺の鑑賞だから、どれが正しいってこともないけどね。ところで、さっきのインコの句も象番の句も、取り合わせの句だよね。天文季語ってさ、季語自体にポエジーがあるからさ、使うだけで俳句がそれっぽく見えちゃうと思わない?困ったら月冴ゆるとか、星流るとかさ。そう考えると、天文季語ってどうやって使うべきかな?(萩)難しいですね。確かに全部それっぽくなってしまうのは否めないですね。僕は天文季語は、季語で、その景を包みたいときに使うべきなのかな、と思います。例えば雑居ビル長方形に星月夜これは僕の句です。あまりいい例とは言えませんが、何か表したいものがあって、それを壮大に何かが包んでいる。そういう自分には到底創造できない大きなものが周囲を優しく包んでくれていると同時に広がっている。そういう物を表す力が天文の季語にはあると思います。なので、割と壮大な景、もしくは逆にその壮大なものを自分の空間に切り取る。閉じ込める。といった使い方が好ましいのでは?と思います。(柳)なるほど。じゃあ「星月夜」を「取り合わせ」で使うことに限定して話をしてみよっか。はぎーが言う内容は「星月夜が表す状況」と取り合わせる内容が合致するなら、容認されるってことかな。つまり、満点の星空を提示する必要があるときに使われるべきじゃないかなってことだよねー。それなら、「星月夜」と「天の川」ってどうやって使い分ける?(萩)鬼畜な質問ですねー(笑)。星月夜は星空全体というイメージがあるので漠然と広がっている感じです。天の川は、広いんですけどどちらかというと地平線、地形に消えていくところに目線がいくイメージですね。星月夜は「全体」で天の川は「全体の中で一筋に目線を置く」という感じでしょうか。答えになっているかわかりませんが...。(柳)うんうん、そうだね。季語が表す景での区別はそうなると思うな。答えになってるよ。大丈夫。俺は、季語にはそれが表す状況以外にも含んでいるものがあると思うんだ。例えば古い時代から、天の川って織姫と彦星の逸話があるから「恋愛」の象徴みたいに使われてきたと思う。だからきっと、星月夜よりも天の川のほうが、人間の本質的な営みに関わるようなものには合うと思うんだよね。よわいものばかり生まれて天の川(岸野桃子)『星果てる光Ⅱ』よりこの句は星月夜じゃだめだよね。だから季語の表す状況だけを考えて書くことは、雰囲気俳句になっちゃう一つの要因になるんだと思うな。ただ、天の川を恋に絡ませて詠むのは手垢がついているから、よほどうまく詠まないと難しいよね。季語から、歴史や和歌で読み込まれてきた情緒を取り除いて、ひとつの物として詠む、というのがひとつのスタイルだし最近のスタンダートだと思う。芭蕉の荒海や佐渡に横たふ天の川なんていうのもそんな部類だよね。でも、季語がどう詠まれてきて、どう詠むべきかっていうのは考えるに越したことはない……んじゃないかな、と思います。(萩)勉強になります。そうですね。季語の表す状況だけではなく、そこから滲み出る感情や感覚も大事にしないとダメですね。僕は今まで状況を大事にして俳句を作ってきた傾向があるので、後の句会などで季語や表現の効果などに気づかされることが多いです。これからは感覚的な面にも意識を傾けて作句していきたいと思います。(柳)お、そんなことを言ってくれるなんて。嬉しいなぁ。(笑)きっと、俺らの俳句デビューは俳句甲子園だったことが影響しているんじゃないかなぁと思ってるんだ。俳句甲子園はまず景の説明や解釈をするじゃない。だからきっと俳句における意味を偏重するくせみたいなものがついたのかな、なんて俺も最近気づいてさ。俳句は意味だけじゃなくて、文体やリズム、口承性とか、色んな側面があることに気づけたらもっと面白くなるかもね。(萩)僕もそう思います。自分は特に俳句のレベルを喋りで補っていかないといけないので(大会の話)、さらに多角的に俳句を鑑賞出来るようになれたらいいなと思っています。日常の中の句会などで作者のちょっとした遊び心や、作者も気付かなかったような句の魅力などを引き出していけるようになりたいです。(柳)そんなことないよ、はぎー句作うまくなってきてるから。俳句甲子園はディベート大会じゃなくて、俳句+「質疑応答」だからね。話せることに越したことはないけれど。きっと、鑑賞や作句能力、話す力、どれもがそれぞれ独立したものじゃなくて、全部おんなじところから派生していくものだと思うんだよね。だから一つを伸ばすとか思う必要はなくて、どの分野であれ積極的俳句に関われば関わるほど、全体として底上げされるんじゃないかな。ということで、毎週の句会がんばろうね。(萩)ハイ、クカイガンバラセテイタダキマス...。(柳)じゃあ今度からは句会五分前に作句する姿を見なくなるわけだな……!期待してる。ということでだいぶ話したので、この辺りで終わりましょう。今日はありがとうー!(萩)善処します...。すごくためになりました!ありがとうございました!その数日後に行われた句会では萩原はしっかりと事前投句しました。成長ですね。 2015-12-05T21:42:00+09:00 部内対談企画です。今回は一年生の萩原海と二年生の柳元佑太です。これから少しずつこのような企画をブログに載せていきたいと思いますので、お時間があれば是非のぞいてみてください。(柳)天文部も兼部している萩原との対談ということで、天体というテーマで鑑賞会をしたいと思います。はぎー、まずは好きな句を教えてください!(萩)新月や昨日インコの死んだこと(第18回俳句甲子園公式作品集より)今年の俳句甲子園で済美平成が敗者復活で出した句です。(柳)うんうん、これは作者の実感がすごく溢れた句だね。このことを詠むのはすごく大変というか、一種の昇華みたいな感じで。はぎーの考えるこの句の魅力ってどんなものかな?(萩)そうですね。作者のインコへの愛がしみじみと伝わってきます。でも、あまり感情が文面に出過ぎていないところ、新月が代わりに作者の思いを代弁しているところがこの句の魅力だと思います。(柳)うん、「ーなこと」みたいな風に突き放して詠んでるから、余計に痛々しいというか。作者が感傷的にならないように句にしようとしているのが伝わって、さらに句に悲しさが滲んでいる感じがあるよね。心象的な季語の使い方をしている感じだ。俺もこの月の使い方は面白い(といったら不謹慎だね)なと思ったよ。この季語のこの句における効果をもう少し教えてほしいな。(萩)そうですね。新月という神秘的な響きのする季語が「死」という一種の生命の神秘というところに共鳴しているところや、これは実際に済美平成さんが敗者復活で言っていたことなんですが、新月はまた再び満月に向かって満ちていきますが、死んだインコはもう戻らないという再生するものと再生しないものの対比も生み出しているのではないかと思います(柳)うんうん、そうだね。新月ってさ、なにも見えない闇に「月」を見たもので、終わりでもあるけど、始まりでもあるんだよね。満ちていき、また欠けていく。生命の循環の象徴みたいで。済美平成さんが言った通り、そういう対比もあるかもしれないね。ちょっとこの季語って付きすぎじゃなぁい?って思ったけれど、平明な言葉の中七下五の冷静さでバランスが取れてるのかもしれないね。意味だけじゃなくて、詠み方を気にしたのが成功の要因かもね。(萩)柳本先輩はどんな句を選んだんですか?(柳)部長の名前間違ったから減点な。(笑)まったくもうー!!俺はとっても悲しいぞう。ということで、象の句です。月光の象番にならぬかといふ飯島晴子(『春の蔵』より)この句を鑑賞したいなぁ。はぎー、さきに鑑賞してくれるかな?(萩)漢字間違ってました...。すみません柳元先輩...。サーカスの句でしょうか?月光に照らされながら象が出番を待っているという句だと僕は思いました。象の大きな背中が月光に照らされている様子がはっきりと浮かんできます。(柳)大丈夫だよー。なるほど、月光の象/番にならぬかといふと読んだのか。それは面白いな。ピエロも一輪車乗りも出番を待っているなかで象も出番を待っているって、童話の世界みたいだね。それでもうすぐ象の出番になるんだろうね、象がちらちらステージを見ていたりしてさー。なるほどなぁ。俺はね、句切れなしだと読んだんだ。景を簡単にいうと、飼育員の人から「今日の夜の象番、任せてもよいかな?」みたいに言われてるんだと取ったの。そこで、象の檻には月光が射し込んでいる様子を作者が思い浮かべたんじゃないかなぁと。虚構の句だと思うけれどね。(萩)象の夜番ですか!確かにそうですね!月光の冷たい感じと檻の冷たい感じがよくマッチしていると思います。象の番を任された(頼まれた?)飼育員の感情なども見えてきそうですね。(柳)要素としては、月の光と象しかなくてさ、でもなんだか時間の流れがそこだけ他と違うような空間じゃない?檻のなかで生きて、檻の中で象は死ぬ。つまりそこは、象の過ごす一生の場所であり、時間なんだろうね。そこに月の光が射し込むのは一種の労りみたいな優しさがあってさ。飼育員の感情ってさ、具体的にはどんな感じかな?(萩)「うわー面倒くさい」とか、そういう感情ではなくて、うまく言えないですけど、その象のお父さんになったような気持ちで、お世話をしたり見守っていたりしているという飼育員の心情が見えてくると思います。確かに優しいですね。(柳)はぎーなら「うわーめんどくさい」って言いそうだけどな。(笑)お父さんか、なるほどねぇ。俺は自然の神秘とか、永遠とか、そういう類のものに触れる畏敬の念と、抑えきれない好奇心みたいなものを感じだな。これさ、象番になるとは言ってないよね。まだ打診されただけでさ。それに、これは想像だけど実際には象番にならなかっただろうね。それだけに作者の心に結んだこの景における月光って、作者の象に向ける眼差しなのかも。(萩)畏敬と好奇心ですか...。確かに月光という神秘的な季語が感情を浮かび上がらせていますね。なんでしょう。好奇心はあるけどやっぱり触れられなかった、ということでしょうか。(柳)いや、触れたいけど触れられないっていうもどかしいのニュアンスじゃなくて。なんていうのかなー。例えば、動物園に遊びに行ったとして、そこで象の飼育員さんと仲良くなったとする。日も暮れてきて、暗くなり帰ろうとしたら、飼育員さんが「このまま今日の夜の象番やってみないかい?」って冗談でいうわけ。もちろん、そんなわけにはいかないから、「あははご冗談をー」みたいな。そしてふと、越えちゃいけないラインみたいのが見える。こんなニュアンス。伝わるかなーー。(笑)(萩)ああ!そういうことですか!(柳)うん、まあ俺の鑑賞だから、どれが正しいってこともないけどね。ところで、さっきのインコの句も象番の句も、取り合わせの句だよね。天文季語ってさ、季語自体にポエジーがあるからさ、使うだけで俳句がそれっぽく見えちゃうと思わない?困ったら月冴ゆるとか、星流るとかさ。そう考えると、天文季語ってどうやって使うべきかな?(萩)難しいですね。確かに全部それっぽくなってしまうのは否めないですね。僕は天文季語は、季語で、その景を包みたいときに使うべきなのかな、と思います。例えば雑居ビル長方形に星月夜これは僕の句です。あまりいい例とは言えませんが、何か表したいものがあって、それを壮大に何かが包んでいる。そういう自分には到底創造できない大きなものが周囲を優しく包んでくれていると同時に広がっている。そういう物を表す力が天文の季語にはあると思います。なので、割と壮大な景、もしくは逆にその壮大なものを自分の空間に切り取る。閉じ込める。といった使い方が好ましいのでは?と思います。(柳)なるほど。じゃあ「星月夜」を「取り合わせ」で使うことに限定して話をしてみよっか。はぎーが言う内容は「星月夜が表す状況」と取り合わせる内容が合致するなら、容認されるってことかな。つまり、満点の星空を提示する必要があるときに使われるべきじゃないかなってことだよねー。それなら、「星月夜」と「天の川」ってどうやって使い分ける?(萩)鬼畜な質問ですねー(笑)。星月夜は星空全体というイメージがあるので漠然と広がっている感じです。天の川は、広いんですけどどちらかというと地平線、地形に消えていくところに目線がいくイメージですね。星月夜は「全体」で天の川は「全体の中で一筋に目線を置く」という感じでしょうか。答えになっているかわかりませんが...。(柳)うんうん、そうだね。季語が表す景での区別はそうなると思うな。答えになってるよ。大丈夫。俺は、季語にはそれが表す状況以外にも含んでいるものがあると思うんだ。例えば古い時代から、天の川って織姫と彦星の逸話があるから「恋愛」の象徴みたいに使われてきたと思う。だからきっと、星月夜よりも天の川のほうが、人間の本質的な営みに関わるようなものには合うと思うんだよね。よわいものばかり生まれて天の川(岸野桃子)『星果てる光Ⅱ』よりこの句は星月夜じゃだめだよね。だから季語の表す状況だけを考えて書くことは、雰囲気俳句になっちゃう一つの要因になるんだと思うな。ただ、天の川を恋に絡ませて詠むのは手垢がついているから、よほどうまく詠まないと難しいよね。季語から、歴史や和歌で読み込まれてきた情緒を取り除いて、ひとつの物として詠む、というのがひとつのスタイルだし最近のスタンダートだと思う。芭蕉の荒海や佐渡に横たふ天の川なんていうのもそんな部類だよね。でも、季語がどう詠まれてきて、どう詠むべきかっていうのは考えるに越したことはない……んじゃないかな、と思います。(萩)勉強になります。そうですね。季語の表す状況だけではなく、そこから滲み出る感情や感覚も大事にしないとダメですね。僕は今まで状況を大事にして俳句を作ってきた傾向があるので、後の句会などで季語や表現の効果などに気づかされることが多いです。これからは感覚的な面にも意識を傾けて作句していきたいと思います。(柳)お、そんなことを言ってくれるなんて。嬉しいなぁ。(笑)きっと、俺らの俳句デビューは俳句甲子園だったことが影響しているんじゃないかなぁと思ってるんだ。俳句甲子園はまず景の説明や解釈をするじゃない。だからきっと俳句における意味を偏重するくせみたいなものがついたのかな、なんて俺も最近気づいてさ。俳句は意味だけじゃなくて、文体やリズム、口承性とか、色んな側面があることに気づけたらもっと面白くなるかもね。(萩)僕もそう思います。自分は特に俳句のレベルを喋りで補っていかないといけないので(大会の話)、さらに多角的に俳句を鑑賞出来るようになれたらいいなと思っています。日常の中の句会などで作者のちょっとした遊び心や、作者も気付かなかったような句の魅力などを引き出していけるようになりたいです。(柳)そんなことないよ、はぎー句作うまくなってきてるから。俳句甲子園はディベート大会じゃなくて、俳句+「質疑応答」だからね。話せることに越したことはないけれど。きっと、鑑賞や作句能力、話す力、どれもがそれぞれ独立したものじゃなくて、全部おんなじところから派生していくものだと思うんだよね。だから一つを伸ばすとか思う必要はなくて、どの分野であれ積極的俳句に関われば関わるほど、全体として底上げされるんじゃないかな。ということで、毎週の句会がんばろうね。(萩)ハイ、クカイガンバラセテイタダキマス...。(柳)じゃあ今度からは句会五分前に作句する姿を見なくなるわけだな……!期待してる。ということでだいぶ話したので、この辺りで終わりましょう。今日はありがとうー!(萩)善処します...。すごくためになりました!ありがとうございました!その数日後に行われた句会では萩原はしっかりと事前投句しました。成長ですね。 「僕もしくは私と俳句」 http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1098728 広島高校二年生、吉川創揮くんとの対談です。テーマは「影響を受けた俳句」。同学年の男子どうし、非常に盛り上がりました。二人とも話したいことがたくさんあり、脱線につぐ脱線。なんと15000字を超えるボリュームとなっております。なお、対談はメールで行われたため、読みにくいところがあるかと思います。ご了承ください。(柳元、以下「柳」)旭川東高校二年生、柳元佑太です。吉川くん、よろしくねー!楽しんでいきましょうー!(吉川、以下「吉」)おはよー!!b( ̄ロ ̄)d広島高校二年吉川創揮です。こちらこそ、よろしくー!!宛名が吉川よしこな事に笑いを隠せません……(編者注:吉川創揮くんは広島高校で女々しさ故によしこと呼ばれているらしい)中1から、よしこなのでよしこ歴は5年目ですねまぁ、それはさておき、お話しましょうか?(柳)あははー。ごめんねー!(編者注:柳元はこのとき、ほぼ初対面の吉川創揮くんに対して、宛先を「吉川よしこ」として送った)今回は自分に影響を与えた句とか、思い出の句を鑑賞しようっていう感じだよね。では吉川くん、そのような句はありますか?(ワクワク)(吉)いやいや。ダイジョブですよー。ただ、改めて吉川よし子って書くと「よし」の繰り返しが妙にダサくて面白いな、と思って。俳句を始めてまだ2年経ってないぐらいだけど、自分に影響を与えてくれた句はもう、そりゃたくさんありますね。すごい悩みましたが、とりあえず一つ。私が一番最初に「俳句すげぇ!!」ってなった句です。私の原点ですね。水の地球すこしはなれて春の月正木ゆう子(『静かな水』より)ちなみに俳句甲子園で正木先生にサインしてもらった句です(*゜▽゜)ノ先に柳元君の鑑賞を聞いてもよいかな?(柳)よしこってなんだか愛情を感じて良いあだ名じゃない。僕もそうよんじゃおうかな。おー!!!正木ゆう子先生の代表句ですね。スケールが大きい句だけど、それだけじゃないよね。まず、上五にドキリです。水の地球だなんて。作者はきっと宇宙に意識を飛ばす能力があるのかな、中七までは宇宙にいて、ガガーリンのようにこの星を眺めていると思うのです。でも、僕は下五の春の月は地球から眺めていると思うんです。春の月、と言われると、水分の多い春の夜空に浮かぶものを想像するからなのかな。ここだけ現実の匂いがする。最初はずっと宇宙から地球と月を俯瞰しているのかなぁと思ったし、意味を考えるとそれが正解な気もするけれど。(正解はないけれど、ね)中七が優しくて、惹かれます。僕の解釈はだいぶ好き勝手なんだけど、よしこくん(笑)はどうかな?(吉)よしこでもいいですけよ(笑)ただ、実際会った時に呼ぶと周りの目が痛いと思います……鑑賞、すごく共感します。そう、宇宙に意識が飛んでるんですよ!!やっぱり俳句と言えば古池や蛙飛びこむ水の音松尾芭蕉という細かい物を詠む(細やかな句も勿論好きですよ)という固定観念があった当時の私は脳天貫かれましたよ。たった十七音で宇宙っていう人間の手の届かない物を表現するなんて本当に驚きでした。ただ、私の句の解釈はすこし違って。論理的には多分柳元君の解釈が正しいと思うのだけれど。(上五中七は宇宙視点で下五が地球視点)これは私の感覚的な解釈ね。上五の「水の地球」これ字余りだから、中七にスムーズに繋がらなくて、「水の地球」がまず、はっきりイメージに浮かんでくる。そう、ガガーリンの言った青い地球。で、中七。ここは、柳元君と同じく優しさを感じるのだけれど。あんまり意味がない、ゆとりのあるフレーズだよね。そのゆとりが宇宙の茫洋とした空間をイメージさせて、やわらかく下五に着地する。下五の「春の月」で視点は地球から少し引いて、宇宙の中に地球と月が並ぶイメージに。勿論、宇宙空間においては月に春も夏も違いはないけれど、「春の月」とすることで、宇宙全体が瑞々しい空間のように広がっていく。ってカンジで。私の場合視点はずっと宇宙からで、視野はどんどん広がってきますな。まぁ解釈は人それぞれなわけだけれど。でも、見たこともない景色をこんなにもはっきりイメージさせる十七音の力を知って俳句に惹かれていったね。懐かしい。(柳)やったぁ!よしこ!(失礼)よしこ!(失礼)そうだね、字余りが効いているというのはとても共感できる。でもあんまり主張してこない字余りっていうのかな、いや、してるけど。すごく大景なのだけれど、静かなイメージのまま、すっと広がってくれる上五だと思いました。上五も下五も強めだからね。中七がゆったりとしていて読みやすいっていうのもその通りだと思う。ゆるやかで。リラックスだね。二つならんだ地球と月って、改めてみるとすごく素敵。冷んやりとした宇宙に、青い星と、春の月。そう考えると中七は効いてないようで、きちんと効いているね。この句はきちんと僕たちに映像(動画という意味ではなく、静止画も含めての)を見せてくれる。僕も17音で出来ることなんて、と思っていたけれど、違ったなぁと思う。17音っていう定型は俳句における武器なんだろうね。破調も含めて。この句で呈示される景はきっと散文で伝えると興ざめかもしれない。でも、それは俳句っていう形式だからこそ、こんなにも広がり瑞々しいのかも。うーん。(笑)めっちゃ楽しいなぁ、どうしよう。よしこの鑑賞を聞いてもっと好きになりました。(吉)くそぅ。呼び返すあだ名がないぞ(笑)中七がより地球と月の存在感を際立たせてくれるよね。意外にこの句の肝は中七なのかもね。散文では伝えれないよね、この景色。そう十七音っていう短さは制約じゃなくて武器なんだよね。すごく思う。私の拙い鑑賞、伝わったようで何より。私も柳元君の鑑賞でこの句への理解が深まったよ!!正木ゆう子先生、おすすめですよー!!彼女自身の感覚に基づく句のはずなのに、不思議と納得のいく句が多いです。月光を感じてからだ開く駅正木ゆう子(『静かな水』より)とかね。まだ色々紹介したいけど。まぁ、私の好きな句の話はこれまでに(していいのかな?)柳元君の選ぶ句を聞きたいな!!(柳)まあ僕は強いていえばやなぎーとかやなぎぃとか呼ばれてるかな?笑正木ゆう子先生の句、素敵だねー。感覚的な句は独りよがりになりがちだけれど、そのような句で共感できるのはやっぱり正木先生の句に実感があるからだね。きっと、身体の細胞とか心臓とか、耳や目とかそういうレベルでの実感を覚えるんだろうな。月光を感じるからだなんて、僕には使えないよー。素敵。そうだね、おいおい触れていきましょう!またお願いします!雪解けて地面呼吸を始めけり木村杏香(旭川東文芸部誌『炎』より)正木ゆう子先生の句のあとなのですが、部活の先輩の句です。僕の好きな句なので許してね。俳句のハの字も知らないときに、初めて出会った句で。俳句の良し悪しなんてわからなくて、そのときは全くわからなかったけれど、なぜだかずっと心に残っている、印象深い句です。広島に住んでいると実感は少ないかもしれないけれど、どうだろう?(吉)じゃ、やなぎーって呼ぼっかな。正木ゆう子先生素敵だよー。サインしてもらった時もすごく丁寧に対応していただいたし、句も人柄も素敵だよ。お兄さんの正木浩一さんも、もう亡くなってらっしゃるけど素敵な句を詠まれてます。木村さんの句ですね!!あの素っ裸の!!めちゃくちゃ印象に残ってます。広島でも年に二、三回は雪が降るので、北海道民ほどじゃないけどこの句の気持ち分かりますよ。生き物でもない地面に命を感じるというか。雪が解けた後の地面ってやわらかで、日が差して暖かそう。そんな地面は冬眠している蛙が隠れていたり、これから芽吹く種がじっと眠っていたりと色んな命を包んで、育むっていうイメージが強く浮かんできて、「呼吸」っていう言葉と合ってると思った。呼吸って内と外の出し入れだから、春になりかけた空気を地面が吸い込んで命が育っていくように思えるかな。ただ、春が来たっていう季語じゃなくて、雪が解けた、だからこそ、水の循環とか水の恵みだとかそういう自然の息吹をすごく感じて気持ちがよかったです。好きだな。こういうの。俳句知らなくてもそりゃ惹かれてしまいますよ。ただ、時々しか雪が降らない広島よりも、ずっと雪が降り積もってる北海道の方がこの句の気持ちをもっと理解できるんだと思うなー。羨ましい。その気持ち理解したいぞ!!(柳)どうぞー!!そうなのか、旦那さんも俳人の方だったのか。田中裕明さんと森賀まりさん、神野紗希さんと高柳克広さんみたいに、俳人同士の結婚って憧れるよね。デートで吟行とか、結婚式の二次会は句会、みたいな。笑そうなの、素っ裸の木村さんの句なのです。実は、雪解けって結構汚いんだ。春先になると、融雪剤っていう雪を溶かすための黒い砂みたいなものが巻かれるし、地面がぬかるんで雪も泥々になってしまって。でも、そういう雪の感じって、ああ、呼吸をしていたんたんだなぁと思って。それから春先のどろどろが楽しみになりました。コンクリートと土の道の違いって、息をしているかどうかなんだね。それになんといったって、春の優しい季節感が満載だよね。地面が呼吸を始めるから、冬眠していた生き物も動き出すし、木は芽吹きはじめる。春が唄いだしたみたいで、この句はとっても好きなんだ。北海道に吟行においでー!来年の俳句甲子園も、優勝すれば航空券だろうからね。(ぼくたちが勝って広島に吟行にいく予定だけど。笑)俳句は住んでいる地域によって、詠む内容や解釈も変わるから、色々なところに行ってみたいね。(吉)正木浩一さんはお兄さんだぞー(笑)確かに俳人同士の結婚っていいなーと思う。俳句甲子園だったら高柳先生と紗希さんが並んだときお似合い過ぎて眩しかった。デート吟行って私は楽しいけど、デートとしてそれ、相手は喜んでくるかな?(笑)デートなのに、「後十分で句を三句ずつ見せ合おうね」とか言ってたらビックリしちゃうわ。あぁ、確かに言われてみれば春先の土はどろどろでぐにゃぐにゃだわ。自分もあのカンジ好きよ。一歩一歩歩くたびに確かに地面を踏みしめてる感覚があるし、足跡がよく残るのがなんとなく面白いし。自分も今年、雪が解けるたびにこの句を思い出すだろうな。雪解けとか春が来るっていう事がこの句を読んだおかげでより楽しみになってきた。春が唄いだした、っていう気持ち分かるよ。春の始まりだと思えば土のどろどろも一見汚いけど愛おしくなっちゃうわ。こういう風に俳句に触れる事で現実の世界が深まるっていうのは自分にはよくあるんだよね。自然も句を通してどんどん好きになってくし、牛とか馬とか鹿とかかわうそとか動物もどんどん好きになってく。そういうところも、私が俳句に惹かれてく理由なのかも。北海道、行きたーい!!小さい時行ったけどもうラベンダー畑しか記憶に残ってなくて(笑)かまくら作りたい。かまくらの中で餅食べたい。あ、でもスキーは結構です。風土が違う場所で俳句詠むの楽しいだろなー。北海道の空気を食べにいきたい。広島に来るのは大歓迎だけど、自腹で来てください(笑)準優勝で満足してください(笑)ただ、広島は何もないぞ……。政令指定都市だけどドーム球場ないし。俳句甲子園の俳句見る限りでも、結構地域の影響受けるよね。北海道は空蝉が見れないって聞いて本当にカルチャーショックだったもん。蝉の抜け殻をポケットに入れて持って帰ろうとしたら、ポケットの中でばらばらに砕けて母親に呆れられる、っていう経験は小学生なら誰もがするものだと思ってたから。私達、今年の兼題「蝉」を詠む時、蝉が二三匹しか鳴かないからもっと鳴けーってお祈りしてたんだけど、北海道じゃ一匹たりとも鳴かないわけじゃん。詠むのも大変だっただろうけど、相手の句の解釈も大変だっただろうね。逆にやなぎーの優秀賞句とか、向日葵の句は北海道的(?)伸びやかさがあって好きだったよ。(柳)わぁーーこういうところがあるから僕はだめだね。ごめんね。そうか、兄妹で俳句をされるんだ。素敵な家族だね。高柳克広さんと神野紗希さんは眩しい、紛れもなく光源だったね。憧れる。まあ句は一人で作るからね。吟行は成立しても、デートは成立しないかも。笑今年の俳句甲子園の開会式で西村和子先生もおっしゃっていたけど、何年、何十年も先になっても思い出せる句と出会えたら本当に嬉しいよね。散文ではできないことだし、口承性のある俳句ならではだよね。口承性のあるっていう俳句だと、びわ食べて君とつるりんしたいなあ坪内稔典(「船団」ホームページ「e船団」http://sendan.kaisya.co.jp/index3.htmlより)ってのを思い出す。好き好みは分かれるけど、もう俺、この句を忘れられない。枇杷食べるたびに君とつるりんしたくなる。よしこの言うとおり、俳句をやることで自然に対する姿勢とかはとても変わったと思う。木とかは影に注目しちゃうし、石があったらひっくり返しちゃうし。動物も大好きになった。わ、ラベンダー!僕の出身地は富良野っていうところなんだけど、たぶんその周辺じゃないかな??なんだか嬉しいな。いつか一緒に吟行しようね。スキーは僕得意だから、スキー吟行しようね♡広島がなにもないだなんて。北海道は景色は綺麗だけれど、広島みたいに歴史は深い土地じゃないよ。牡蠣も美味しいだろうし。堀下先輩も「尾道に住みたいなぁ」って言ってたよ。僕たち北海道民からすれば、歴史のある町は憧れる。そうだね、たしかに蝉とかはあんまりいないね。今年はNHKの取材に来ていただけたのだけど、蝉がいなくてディレクターさんががっかりしていたよ。まあでも、地域差があるのはしょうがない。北海道は北海道で雪とかの冬の季語に強いし。鑑賞が難しいのは確かにあって、だから今年はまず景の確認を真っ先にしていたんだ。去年、先輩方が兼題「柿」のときに、柿がならない地域には景が分からない句と当たり、大変だったらしくて。わ、覚えててくれたんだ!ありがとう!こういうのが嫌味なく詠めるのは北海道の強みだと思うな。よし、次の句にいってもよいかな。よしこ、お願いできる?(吉)まぁ、私の場合デートする相手はいないので(この話にコメントしなくていいからね!!)西村先生の話はすごく覚えてる。恥ずかしい話、感動して半泣きの状態だった(笑)実際、これからもずっと忘れないであろう句とたくさん出会えて幸せだった。やなぎーの句も、ずっと覚えてると思う。稔典のその句は初めて見た。この口からポンと出てきたカンジ良いよね。俳句って一般の人が思ってるような小難しい句ばっかりじゃなくて、こういう句もあるから止められない。自分も脳内が今この句で埋め尽くされてる。ただ、やなぎー、「君とつるりんしたくなる」はやっぱり散文のワンフレーズになると危険な気配を感じるよ(笑)韻文の力、大事だね(笑)たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ坪内稔典(『ぽぽのあたり』より)三月の甘納豆のうふふふふ坪内稔典(『落花落日』より)とか読むと今日も日本は平和だなーと思えて大好き。すごく分かる。分かるよ。木があったら抱きたくなるし、雨が降ればすこし浴びたくなる。石は裏返す度にダンゴムシごめんよ、って思ってる。吟行したいぞ。私を北海道に連れていって♡スキーは肌が焼けそうだから遠慮しよっかな……。別にスポーツが苦手とかそういうわけじゃないけど、ね。うん。まぁ、確かに歴史はある街だね。広島もおいでよー。一緒に探検しよ。自分あんまり広島詳しくないから。俳句甲子園、冬の季語も出してあげて……。柿もないんだねー。別世界だわ。今の時期、丁度電車の窓から外見たら柿はどこにでもあるし、どこも田舎だね。それは北海道の強みだけじゃなくて、それを言葉にできるやなぎーにも強みがあるよ!!やなぎーの句は話し出したら長くなっちゃうからまたなんか機会あれば話させてね。じゃあ、本題に戻りましょうか。花の上に押し寄せてゐる夜空かな村上鞆彦(『遅日の岸』より)正木ゆう子先生の句は私の原点の句だったんですけど、私はあの句に囚われすぎていたのか、壮大な物事や、誰も思いついた事のないフレーズを詠むことに固執してた時期があったんですね。そんな私の目を覚ましてくれた句です。やなぎー。鑑賞お願いします!!(柳)うんうん、西村和子先生のお話はめっちゃよかった。あのお話聞けただけでも俳句甲子園いった価値あったよ。人に覚えてもらえる句って、本当に作者冥利に尽きるね。めっちゃ嬉しいです。古くて申し訳ないけど、よしこのさびしさは鳴ればよいのに蜆汁吉川創揮(『星果てる光Ⅱ』より)これ、大好きなので、忘れません。木村さんが吉川くんうまいなぁっていうから僕悔しくてさ。笑稔典の俳句は、ナンセンスに見えてクスッと笑えて、それでいいじゃないかっていうそんな感じだよね。僕はこの作り方はしないけど、とても好き。季語の問題は俳句甲子園に文句言っても仕方ないし、類想にとらわれないアドバンテージだと思って頑張ります。しょうがないものね。わ、これ素敵な句だね。恥ずかしながら初めて見る句です。この句も僕は十分大きな句だと思うけれど、とても優しい句だね。迷うのだけれど、日が沈んで夜空が桜のうえにくる、という時間の移り変わりではなく、感覚的に夜空が桜のうえにある状態を、夜空が押し寄せていると捉えたものだと読みました。夜空がメインではあるけれど、しっかり桜も描かれていると感じたのはきっと上六だからかな。押し寄せている、というフレーズにしずかに浜にうちくる波をイメージしました。桜のうえに、波のごと夜空が静かに押し寄せているんだ、という作者の主観が優しい。春の夜空は水分が多いから、そんな風に感じたのかもしれないな。僕も先輩にやなぎぃは句柄が大きいと言われていました。壮大な句が好きだったし、天文季語ばっかり使ってたし。色々考えることがあり、ようやくそこは抜け出せたかな、なんて思ってるけれど。みんな通る道なのかもね。(吉)うわーありがとう。句と話はズレるけど、さびしさは音にするなら、おなかが空腹で鳴る音だと自分は思ってます(笑)あの気の抜けた音がなんとなく自分はさびしいんだよね。俳句甲子園には出せないけど、北海道民の冬の句、楽しみにしてるよー!!鑑賞はやなぎーに全く同じです。一言でまとめたらこの句に失礼だけど、綺麗だよね。夜桜の景色がくっきり浮かび上がるし、桜を包む空気の様子まで見えてくる。上六のゆったりとしたリズムも気持ちよくていいよね。この句で自分が驚いたのは、この句が言ってることって失礼な話「夜桜」って季語に含まれてる気がした、ってこと。夜桜って言葉を言えばきっと誰もがこの句のような景色を思い浮かべると思うんだよね。だから景色自体にオリジナリティーとかは多分ない。正木先生の句とは違ってね。でも、オリジナリティーがないから悪い句とは微塵も思えなかったし、むしろ夜桜という皆のイメージする景色をたった十七音で切り取れたって事に感動した。大胆な言葉、奇抜なフレーズ、誰も見たことのない景色……。そんなものがなくても単純でさりげない言葉でそこにある景色を詠むだけで俳句は成り立つのだなぁ、って。(こんなこと芭蕉の古池やを読めば分かる事なんだろうけど、当時の私はそんなことすら分かってなくて苦笑)この句を読んでから、周りの物事にも目を向けて句を詠むようになったかな。言葉だけ大胆で中身は空虚な句は少なくなった(と信じたい)まぁ、「押し寄せてゐる」は少し捻ったフレーズなのかもしれないけど、一句全体を眺めた時に目につかないさりげなさがあって良いなと思いましたね。このフレーズから生まれる波のイメージが夜桜の儚い美しさを引き立ててるし。天文季語ばかり使うってのはすごく分かる。私だけじゃなくて、広島高校全体が天体季語が好きすぎる。星にはロマンがあるから仕方が無いのかもしれないけど。(柳)そうだね、確かにこの景には夜桜があるよね。もう少しだけ言うと、句形からしても明らかのように僕は「夜桜」というより「夜桜のうえにある夜空」の句だと思うのです。同じ景があって、それを100人が詠んで100人が同じ俳句とならないみたいに、夜桜を詠むにも色々な攻め方があるんだろうね。景を自らの手で作りあげるような句もあるだろうし、夜桜の持っている隠された本質の一部を捉えるみたいなものもあるだろうし。俳句甲子園の質疑応答は「景」によるものが多いけれど、それは句の一部であって全てじゃないんだろうと思います。「景」や「題材」にオリジナリティがなくても唯一無二のものはあるだろうし。まだ僕は手探り状態で全然わからないのだけれど、このあたりを勉強したいと思ってます。天文季語は季語自体すごくポエジーだから。(笑)でも青春詠だと思えば、そういう時期なんだと思うし。ことごとく未踏なりけり冬の星高柳克広(『未踏』より)くらい詠めればよいけれどね。なんでもないことを詠んでなんでもないことが詩になるっていうのは本当に俳句のすごいところだよね。でも、たとえば、鶏頭の十四五本もありぬべし正岡子規って俺、分からないんだよね。よしこはどうかな?この句?ここまでの徹底した写生をされると、僕はどうもとっつきづらいのだけれど。(吉)確かに「夜桜のうえにある夜空」の句だね。その視点のずらし方が上手いポイントのひとつなのかも。そう、「景」や「題材」にオリジナリティーがなくても私にとって唯一無二なのね、この句。私が上手く言えなかったことを言ってくれてありがとう。自分もあまり理解してないし、言葉が追いつかないね。自分も学ばないと。俳句甲子園の質疑は難しいよね。自分も景をなぞるだけのような質問しかできなくて、相手の句の魅力的な部分に迫ることができなかった。句会とかで選入れた句の感想を言うときもだけど。未踏の青春感はいいよねー!!でも、自分はこんな力強くも、脆くて健全な青春を自分はしてないから(笑)こんな句詠めない。未踏は天文的季語に限らず、蝶とか海鳥とか色んな少年性を表現するモチーフがあって面白いよね。俳句っていう形式が偉大だよね。あをぞらをしづかにながす冬木かな村上鞆彦(『遅日の岸』より)なんかも、青空を背に木が立ってるだけなのに、作品として完成されてる。自分も正直な話鶏頭の句には惹かれないかな。子規の人生とかそういうものに思いを馳せれば惹かれていくのかもしれないけど。ただ、作者の人生を知識と持ってないと楽しめないっていうのは俳句の一作品としてどうなのか疑問ではあるかな。鶏頭は七、八本でもこの句は変わらないって言った人もいるらしいけど、同意かな。でも、子規の目に十四、五本映ったのなら事実として十四、五本でかまわないとは思う。これは自分の勝手な考えだけど、鶏頭っていう一つ一つの主張が激しい花を十四、五本もまとめて詠んだのは面白い点だとは思う。自分が写生句で好きな句っていうのは全部、自分が生きてて視界に入れていても気にも留めなかったことを言ってる句かな。チューリップ花びら外れかけてをり波多野爽波冬空へ出てはつきりと蚊のかたち岸本尚毅(『鶏頭』より)たしかにチューリップは散りそう、じゃなくて外れそうな花びらのつきかたをしてるし、蚊も青空をバックにするとはっきり認識される。こういう、言われてみれば確かに!!と思える写生句は好きだな。(柳)僕も言葉が追いつかないことがとてもつらい。もっとも、僕は知識も追いついていないけれど。恥ずかしながら、僕『未踏』持ってなくて、なんとも言えません。買おうにも、もう在庫もなくて。読みたいのだけれど、まだ叶わずにいます。海鳥の句は、歳時記にサインしてもらいました!一生の宝物です。あをぞらをしづかにながす冬木かなこれめっちゃいいです。好きな句リストに追加しておきます。素敵な句だね。あおぞらが流れるなんて、もうたまらないなぁ。冬木がそれとなく、すごく効いてるね。しっかり定着させている。背景知識に左右されてしまう俳句は難しいよね。でも、きっと俳句ってそういう側面も確かにあって、そういうものだったのかも。虚子あたりのころから、ひとつの句が媒体を介して全国に広がるってことになって、わけわからなくなったのかな。でも、ひとつの芸術として成り立つには背景知識から独立してもひとつの作品として成り立つことが必要だと、僕も思います。それと、鶏頭についても同意します。爽波のチューリップみたいに、ただそこに何があるんだって句よりは、言葉にすることで新しい見方を提示してくれるほうが好きです。でも、これは僕がまだ読みが浅いからなのかもしれないなぁと思います。いやぁ、話してる密度が濃くてくらくらしてきちゃうな。笑だいぶ脱線してしまったけれど、次の句にすすんでも良いかな?さへづりのだんだん吾を容れにけり石田郷子(『木の名前』より)石田郷子さんの作風がとても好きで、俳句を真剣にやるようになってから影響を受けました。石田郷子ラインなんていう少しネガティヴな捉え方もあるけれど、単純に読者として共感できて、俳句っていいなぁと思わせてくれます。鑑賞お願いできますか?(吉)『未踏』はスピカなら買えると思うよー。サインもしてもらえるから自分はスピカで買った。ちなみに揚羽追ふこころ揚羽と行つたきりって句をサインしてもらった。未踏で一番好きな句ではないけど、すごく句の気持ちに共感できて好き。海鳥の句もいいよね。眩しい。村上鞆彦さんの句いいでしょ?今年第1句集だしたし、新選21にも100句出してるので是非是非他の句も見てね。どこでもある普通の景色を綺麗に切り取れてるよね。俳句の歴史とか勉強しないとなぁ。過去の俳人をもっと知りたい。そうそう写生はハッとする何かがないと響いてきにくい、自分も。でも、地味だけどたてかけてあたりものなき破魔矢かな高浜虚子が好きだったりするから自分の写生句に対する好みは自分でも分からないや。自分の鑑賞能力が足りてないからかも、というのは同意。私もこんな難しげな話をするとは思ってなかったから頭が……。楽しいけどね!!毎回、ついつい脱線しちゃう。石田郷子さんか。この句含め三、四句しか知らないや、気になってはいるけど。森の中かな。自分は囀りが聞こえると気になって近づいちゃうけど、近づきすぎると鳥って逃げちゃうんだよね。でも大人しくしているとまた鳥達は囀りはじめる。そうやって高まっていく囀りを聞いていると、自分が鳥達に受け入れられたような、森という風景の一部になったようなそういう感覚がする、ってことだと思う。この句、囀りという実体のないものについて詠んでいるけど、春の光を受けて揺れる木々だとか、木漏れ日とかが囀りの賑やかさ、眩しい声から見えてくる気がします。具体的な景を示さないからこそ、春の光の感覚を捉えているような気もするね。だんだんっていう措辞も囀りを聞いてるときの森に溶けてゆくような感覚に忠実だし、容れにけりはさり気なく、やわらか。このひらがなの余白の多さからも光が見えてくる気がする。十七音っていう形式に無理させず、等身大の感覚をさりげなく詠めてるから、読んだら深呼吸したくなる気持ちよさだね、この句。石田郷子ラインは、「文学的意識」っていうのかな、何かを俳句で表現しよう、掴もうという確固たる信念がない、見たいなイメージがあるのね。あんまり知らないのだけど。俳句という形式が停滞していると言われている今の状況を打破してくれる可能性は石田郷子ラインにはないのだろうけど、それは別に自分はかまわないと思うんだよね。等身大に、自分と世界の関わりを詠んでいくっていう姿勢は俳句の中であってもいいと思う。自分もそういう句好きだし。ただ「文学的意識」のようなものがあったほうが、より切実で、誰にも掴むことができなかった句が詠めるのだと思うな。ちなみに、石田郷子ラインと称される中では津川絵理子先生が好きです。切り口のざくざく増えて韮にほふ(『はじまりの樹』より)とかね。石田郷子ラインについては勉強不足だな。(柳)あれ?そうなのか!見てみるね。高柳先生はこの頃を振り返って、もう「ことごとく」のような句は作れない、と仰ってた。(のをどこかで読みました。)作風は意図の有無を問わず変わるものだし、それで良いのだろうね。ああ、新選21に出てたのか。もやもやの正体が分かりました。見てみる、きっと僕も好きな作家さんだと思います。鑑賞の能力を付けることもそうだし、作句するにおいても歴史を学ぶ必要があることに最近ようやく気づけました。今の旭川東は正直まったくこのような勉強会をしないので、その必要性を感じています。でも自主的に学ばないと面白くないし、難しいところだよね。石田郷子さんの句を読んでいると、何かに包まれている気になります。それは主観を通した優しい自然であり、光であり、母性といったら少し違うけれど。些細なことでも、優しい気持ちになれます。石田郷子ラインについては僕もほとんどわからなくて、知ったかぶりみたいなところがある。(笑)中原道夫先生は「嫌なところがない癒し系だけれど…」みたいなニュアンスで仰ってたよね。あれは文体や詠み方の問題なのかな。個人としてより世代として捉えたときの問題だよね。そのような問題提起を見ると自分の詠み方とかを考えざるを得なくなる。アイデンティティとかね。僕にはまだ難しくて、とりあえずは句が緩くからないようにするので精一杯だけど。句のイメージはよしこの言ったとおりです。囀りのみを捉えるゆえに周りまでをも想像できるんだと思います。言葉による制限がないところは好きなだけ想像できるから、この句はだんだんと自分の周りが、ひいては自分さへも深い緑になるような感じです。僕の思っていること以上のことを正確に言葉にしてくれて、僕が言うまでもなくなっちゃった。素敵な鑑賞をありがとう!僕の中では囀りって凸のイメージなのです。溢れ出してくるもので、零れるもの。青本瑞季さんの、囀りやみづの器として湖底青本瑞季(『星果てる光Ⅱ』より)とか。この句に僕は、器である湖底に、深く注ぐような囀りを思いました。これは囀りが凸、湖底が凹だよね。そういう意味で石田郷子さんの句の囀りは、自分を受け入れるという意味で凹。これが不思議な感覚だった。囀りに侵食されていくような。容れるというのも、器をイメージさせる。うちの高校も別に勉強会はしてないよ。やると俳句が勉強になって、俳句を詠むことが宿題になりそうで、なんとなく怖い。勉強するなら私と一緒にしない?(具体的に何するかとか思いつかないけど)石田郷子さん、少し調べてみたけど句の言葉がシンプルでゆとりがあって心地よいね。作者自身のこころの伸びやかさが句に表れてるんだろうな。私はチマチマとした人間だからこのおおらかさ、優しさにずっと浸りたくなる。やなぎーが惹かれるの、分かります。あぁー確かに、中原道夫先生がそう言ってたの、見たわ。改めて調べると彼女たちは俳句に過大な負担をかけない。何かを表現しようとして俳句を利用するのではなく、俳句形式に触れることによって、心がおのずと開かれていく。(週刊俳句より、http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/04/blog-post_14.html)(編者注:この対談を読むだけでは石田郷子ラインに対する誤解が生まれるので是非お読みください)と小川軽舟先生の言葉が引用されてたけど、そういう風に俳句へのスタンスが違うだろうね。自分は人間としてもアイデンティティがないので当然、句にもアイデンティティがないんだよね。そこは気にしてる。具体的にどうすることもできてないけど。いえいえ。やなぎーの素敵な鑑賞に負けないように頑張った(笑)森の静けさに体が溶けていくそのここち、分かる分かる。その凸と凹の捉え方おもしろいね。瑞季先輩の句も、石田郷子さんの句も、どちらも光を連想させる囀りだけど働きが違うのか。瑞季先輩の囀りは光の線をイメージするけど、石田郷子さんの囀りは光のある空間をイメージするわ。他の句と合わせて読むとおもしろいな。星果てる光読んでくれてありがとー。タイトルから天文季語が好きすぎる気質が表れてるけどね(笑)木村さんに公式ブログでお願いされたけれど、できるのは年明けになります。もうちょっと待ってね。石田郷子さんに影響を受けたって言ったけど、それはゆとりがあるフレーズだったり、句の伸びやかさだったりから影響を受けたのかな?なんか私ばっかり自分語りをした気がするので(私が勝手にね笑)、やなぎーの句に対する姿勢をすこし教えてもらいたいな。というか、どうやってやなぎーは俳句に出会ったの?私は中学の頃に小説を書こうとして文芸部に入部したんだけど、松山に行きたいという不純な理由で高1になって俳句を始めた。やなぎーも高1からだよね?多分。突然、話を雑に振って申し訳ない(笑)(柳)そうなんだよね。俳句は強制されるものではないし、苦痛になんて感じてしまったらそれこそ悲しい。僕の先輩は、そういうことがあってあんまり下級生に俳句作れとか、読め、勉強しろなんて言わなかったんだと僕は勝手に思ってるんだ。え、ほんと?一緒に勉強したいです、嬉しい!お互いの句の合評とかも出来たら楽しいね!形式に負担をかけない、か。なるほど、確かにそうだ。僕も俳句は言いたいことを言う主張に使うものではないという点は大きく共感します。アイデンティティは僕はとりあえず棚上げしようかな。(笑)詠みたいものを詠んでいって、それがいつか見つかればよいな。甘えるわけじゃないけれど、僕まだ俳句始めて二年経ってないし。(逃げの姿勢)よしこが言う、囀りの「線」と「空間」の違い、なるほどだ。青本瑞季さんのは、コップから液体を液体に半永久的に注ぐイメージ、石田郷子さんのはゆるやかに膨張する空間だね。石田郷子さんには、影響を受けたというか、単純に好きだったんだ。句集を一冊読んだだけだったけれど。それで、自分でドラマ性のある大景を組み立てるような作風は、稚拙だったなぁとようやく思えて。(作風が変わってるかどうかは別としてだけど。笑)僕はとっても素敵なタイトルだと思うよ、『星果てる光』なんて。忙しい時期なのにありがとう!楽しみにしてます!俳句との出会い方かぁ。僕は中学では野球少年(もちろん坊主)で、高校でも野球をやる予定だったけど、受験期に伸びた髪を切りたくなくて。それで、本を読むのが好きで、少しだけ小説を少し書いていたから、ふらりと文芸部に入りました。そして、一ヶ月くらいして、みんな俳句やってるんだぁ、やるかぁくらいで俳句を始めたよ。俳句なんて全然わからなくて、今もわかりません。そして、月日は流れ、ゆるーい意識のまま今年の俳句甲子園を迎えてしまい、先輩2人に引っ張られる形で準優勝して。そこで僕は意識が変わりました。俳句の(俳句甲子園の、ではなく)楽しさ、深さ、色々な考えに気づけたのと、来年もこの場に立ちたいと切実に思えて。だから、恥ずかしながら実はエンジンがかかったのはつい最近なんだ。やっぱり、俳句甲子園の存在は本当に、本当に大きかったな。傾倒できる俳句に出会えて、友達も増えて。だからこうやってよしこと対談も出来ているし。よしこも、俳句甲子園の存在はやっぱり大きかったかな?(吉)部員以外に句を見てもらうの新鮮だから、やってみたいね。あぁごめん、自分の引用と話の仕方が悪かったから勘違いを起こしてるみたい。ここでいう小川軽舟先生の「何かを表現しようとして俳句を利用する」っていうのは、自分の意見を伝えるために俳句を利用するって事じゃなくて、三橋鷹女が俳句で何を詠みたいか問われて「孤独」と答えたように、そういう何かしらのテーマを表現するために俳句を利用するって事だと思う。分かりにくくてごめんよ。いつも言葉足らずで。でも、自分も何らかの主張に俳句を使うのは好きじゃないよ。新聞とかで時々見かける時事俳句的なものとかね。自分も棚上げ状態(笑)まぁ、でもアイデンティティって自分で意識するものじゃなくて滲みでてくる物だと思うから、やなぎーの姿勢が正しいのかも。それは決して逃げじゃないと思うよ。「木の名前」を読んだのかな?自分も読んでみようかな。こういう心に癒しを与えてくれる句集ほしいです。第三句集も最近出たようなのでそっちも気になっちゃうな。自分も俳人の方の句集読むたびにこういう句を読みたい!って思うけど肝心の自分の句に変化はあまり……(笑)なんだかんだ、大きな事を言いたがる癖は抜けてない気がする、自分。最初の頃はドラマ性を持った句を詠みたがってしまうよね。十七音に情報が収まらなくてお粗末なドラマができることが多かったなぁ(笑)よくよく考えたら少し暗いタイトルだけどね(笑)星、死んじゃってる。いやいや、忙しいなんてそんな。テスト期間中で忙しいのに深夜一時にメールを返してくれるやなぎーの方がよっぽど大変だよ。無理しないでね!!え、野球部で坊主だったの(;゚ロ゚)ナン!(;ロ゚)゚デス!!(;ロ)゚゚トー!!!どうりで私とは違う爽やかな雰囲気があるわけだ。納得。でも、一回坊主にしたのに、髪ツンツンになってないのね、羨ましいぞ。私の髪、小さい頃に坊主にしてから完全防水使用の硬さだから(笑)まぁ、そんな事はどうでもよい。俳句甲子園の存在は大きすぎるものがあるね。まず、俳句甲子園がなかったら、俳句の面白さに気づかずに人生を終えてただろうから、俳句甲子園に感謝してる。自分のエンジンがかかったのは去年の俳句甲子園だろうな。Bチームだった私と曽我部、竹村、荒谷で自費で応援に松山に行ったのね。で、開成高校だとか、広島が敗者復活で二位だったとか色んなことに刺激を受けて、自分もがんばろうと思った。俳句甲子園を、じゃなくて俳句を。まぁ、そのエンジンは頻繁に切れてるのだけど(笑)でも、今年、見る側じゃなくて選手側として参加できて本当によかった。だってフェアウェルパーティー楽しすぎじゃない。色んな人と話せるし、たくさん句集にサインしてもらえたし。こういう風に終わったあとも交流を持てる友達ができるしね。俳句甲子園というイベントより俳句が好きだけど、俳句甲子園は俳句への原動力となってるかな、自分には。やなぎーは高3でも出場するのね。自分は来年でるかまだ決めてないや。(うちの高校三年の部活は制限されてるらしいし)でも、準決勝まで進んで、真っ暗なステージから照明を当てられて浮かび上がる演出やってみたい(笑)あれ、見てる側からしたらすごく、かっこよかった。強者感すごかった。(柳)いやいや、僕は時間の使い方が下手くそなだけなので、大変なんてことはないよ!(テストなんて知らない)あ、ごめんごめん!主張って言い方がまずかったね。テーマを表現するってこと自体に目的は感じなくて、物を詠むことで、類似性としてのテーマが出てくる、確かにそんな感じ。時事俳句は、ジャンルとしてはありなのかもしれないけれど、五七五でやる必要はないような気がする。もちろん、それが成功している人(渡邊白泉とか)もいると思うけどね。ある程度耐久性がないとだめなんじゃなかな、と人の話を聞いて思い始めてます。石田郷子さんの句集は『木の名前』を読みました。第三句集、僕も気になってます。ネット通販苦手なのだけれど、『未踏』といい、挑戦せねばならぬ時がきたようだ。笑そうか、広島は高三は参加しないケースが多いのか。勉強大変な時期だもんな、夏休みを喰われるもの。岸野さんとかも今年参加されてなかったものね。俳句を大学で続けることを考えると、その方が良いのかも、なんて思ったり。難しい判断だね。やっぱり俳句甲子園は俳句を始める大きなきっかけがね。俳句甲子園がなければ絶対俳句をやらなかったと僕も思う。ほんとに感謝だ。僕は去年の俳句甲子園は地方予選すらなぜか出なくて、(出ればよかったなぁと思ってる)ちょっと悔やんでいます。作品集を読んだだけだけれど、去年の俳句甲子園はとてもレベルが高かったね。予選の開成と広島は、まず句からして事実上の決勝と読んでもおかしくないぐらいだったし。それは刺激受けるね。僕も選手として参加して、今年こんなに良い思いをしてしまって(あんな素敵な演出とかもしてもらえて)、頑張らざるを得ないです。僕も俳句も、俳句甲子園も大好きです。来年よしこと会えたらよいな、なんて軽々しく言えないけれど、まあお互い無事大学生になれたら、一緒に吟行しましょう!(そろそろまとめようか!笑こんなに楽しいとは考えてなかった!脱線いっぱいしてごめんね!)(吉)そうそう、時事を五七五で詠むメリットってあんまりないよね。情報量が圧倒的に少なくなるから。うちの学校は「卒業研究」って言って、高校卒業の条件としてちょっとした論文を書かなきゃいけないんだけど、時事俳句の意義について書こうと思ってます。ただ、やなぎーの話聞いてると、この研究予想以上にハードな気がしてきた。がんばります(笑)ネット通販は一度手を出しちゃうと、財布の紐がゆるくなるから気をつけてね(笑)私、一ヶ月で一万円、俳句関連の本で飛んだことあるから(笑)去年全国大会に出てた、青山先輩も岸野先輩も受験勉強で忙しいからね。(青山先輩は応援に来てくれましたが)むしろ、高三も出た青本姉妹は特例です(笑)しかも、二人とも東大行っちゃうから尚更特例。私も今、その事に絶賛悩み中です。あぁ、確かにやなぎーの名前、去年の作品集で見かけなかったなぁ。今年初めてなのに、舞台上でも落ち着いてディベートしてたから尊敬するわ。去年の広島は最強の布陣だったからね。自分が試合する時よりも開成と先輩の試合を見てるほうが緊張したし興奮してた。応援しにきただけなのに泣いちゃったしね(笑)俳句甲子園はどうか分からないけど、俳句は一緒にがんばろうね!!吟行もいつかしよー!!そろそろ終わりなのでまとめのようなことを。一応、今回「自分が影響を受けた句を語り合う」がテーマだったんだけど、まぁ、見事に脱線に次ぐ脱線です(笑)しかも会話は一万五千字越え!!予想以上に長くなりました。やなぎーとは一回顔を合わせただけだし、会話もほぼしたことなかったけれど、今回の対談、本当に楽しかった!!お誘いただきありがとうございました。私のメール人生(そんな長くないけど)で一番、返信が待ち遠しいメールでした。とは言っても、待つ時間なんてあまり感じないくらい、やなぎーの返信は早かったけど(笑)ただ、これだけ話してもまだ私は物足りていないので(笑)是非、何かあればお呼びください。いや、何もなくても駆けつけます!!(柳)話したいことが色々なところにあって、欲張って色々な聞いてしまいました。それに対して丁寧に答えてくれてありがとう!鑑賞も、すごく考えてくれたことや、よしこの人柄が伝わってきて、心がジャガイモのようにほかほかになりました。(それはホクホクだった)よしことは俳句甲子園のフェアウェルパーティで、ほんの少しだけ話せたんだよね。あのとき話せなかったら、こうやってこんな楽しい話をできてなかったかもしれないと考えると、つくづく人との出会いって素敵だなって思います。俳句は縁を作ってくれるね。僕はほんとに薄っぺらい知識で精一杯話していたんだけれど、もっと頑張らねばと刺激を受けました。こういうのは恐れ多いけれど、僕はよしこのことライバルだと思ってるし、まずは追いつけ、そして追い越せで、切磋琢磨していけたらよいなと思ってます。僕もほんとに楽しかった、すごく、満たされました。好きなことを好きなだけ話せる相手ってそうそういないもの。もっと話したいことたくさんあるので、定期的にやろうよ。(笑)味をしめてしまったぞ。よしこの卒業研究の成功(少し気が早いけれど)を祈ってるよ。今回は忙しいなか、ありがとうございました! 2015-11-11T10:39:00+09:00 広島高校二年生、吉川創揮くんとの対談です。テーマは「影響を受けた俳句」。同学年の男子どうし、非常に盛り上がりました。二人とも話したいことがたくさんあり、脱線につぐ脱線。なんと15000字を超えるボリュームとなっております。なお、対談はメールで行われたため、読みにくいところがあるかと思います。ご了承ください。(柳元、以下「柳」)旭川東高校二年生、柳元佑太です。吉川くん、よろしくねー!楽しんでいきましょうー!(吉川、以下「吉」)おはよー!!b( ̄ロ ̄)d広島高校二年吉川創揮です。こちらこそ、よろしくー!!宛名が吉川よしこな事に笑いを隠せません……(編者注:吉川創揮くんは広島高校で女々しさ故によしこと呼ばれているらしい)中1から、よしこなのでよしこ歴は5年目ですねまぁ、それはさておき、お話しましょうか?(柳)あははー。ごめんねー!(編者注:柳元はこのとき、ほぼ初対面の吉川創揮くんに対して、宛先を「吉川よしこ」として送った)今回は自分に影響を与えた句とか、思い出の句を鑑賞しようっていう感じだよね。では吉川くん、そのような句はありますか?(ワクワク)(吉)いやいや。ダイジョブですよー。ただ、改めて吉川よし子って書くと「よし」の繰り返しが妙にダサくて面白いな、と思って。俳句を始めてまだ2年経ってないぐらいだけど、自分に影響を与えてくれた句はもう、そりゃたくさんありますね。すごい悩みましたが、とりあえず一つ。私が一番最初に「俳句すげぇ!!」ってなった句です。私の原点ですね。水の地球すこしはなれて春の月正木ゆう子(『静かな水』より)ちなみに俳句甲子園で正木先生にサインしてもらった句です(*゜▽゜)ノ先に柳元君の鑑賞を聞いてもよいかな?(柳)よしこってなんだか愛情を感じて良いあだ名じゃない。僕もそうよんじゃおうかな。おー!!!正木ゆう子先生の代表句ですね。スケールが大きい句だけど、それだけじゃないよね。まず、上五にドキリです。水の地球だなんて。作者はきっと宇宙に意識を飛ばす能力があるのかな、中七までは宇宙にいて、ガガーリンのようにこの星を眺めていると思うのです。でも、僕は下五の春の月は地球から眺めていると思うんです。春の月、と言われると、水分の多い春の夜空に浮かぶものを想像するからなのかな。ここだけ現実の匂いがする。最初はずっと宇宙から地球と月を俯瞰しているのかなぁと思ったし、意味を考えるとそれが正解な気もするけれど。(正解はないけれど、ね)中七が優しくて、惹かれます。僕の解釈はだいぶ好き勝手なんだけど、よしこくん(笑)はどうかな?(吉)よしこでもいいですけよ(笑)ただ、実際会った時に呼ぶと周りの目が痛いと思います……鑑賞、すごく共感します。そう、宇宙に意識が飛んでるんですよ!!やっぱり俳句と言えば古池や蛙飛びこむ水の音松尾芭蕉という細かい物を詠む(細やかな句も勿論好きですよ)という固定観念があった当時の私は脳天貫かれましたよ。たった十七音で宇宙っていう人間の手の届かない物を表現するなんて本当に驚きでした。ただ、私の句の解釈はすこし違って。論理的には多分柳元君の解釈が正しいと思うのだけれど。(上五中七は宇宙視点で下五が地球視点)これは私の感覚的な解釈ね。上五の「水の地球」これ字余りだから、中七にスムーズに繋がらなくて、「水の地球」がまず、はっきりイメージに浮かんでくる。そう、ガガーリンの言った青い地球。で、中七。ここは、柳元君と同じく優しさを感じるのだけれど。あんまり意味がない、ゆとりのあるフレーズだよね。そのゆとりが宇宙の茫洋とした空間をイメージさせて、やわらかく下五に着地する。下五の「春の月」で視点は地球から少し引いて、宇宙の中に地球と月が並ぶイメージに。勿論、宇宙空間においては月に春も夏も違いはないけれど、「春の月」とすることで、宇宙全体が瑞々しい空間のように広がっていく。ってカンジで。私の場合視点はずっと宇宙からで、視野はどんどん広がってきますな。まぁ解釈は人それぞれなわけだけれど。でも、見たこともない景色をこんなにもはっきりイメージさせる十七音の力を知って俳句に惹かれていったね。懐かしい。(柳)やったぁ!よしこ!(失礼)よしこ!(失礼)そうだね、字余りが効いているというのはとても共感できる。でもあんまり主張してこない字余りっていうのかな、いや、してるけど。すごく大景なのだけれど、静かなイメージのまま、すっと広がってくれる上五だと思いました。上五も下五も強めだからね。中七がゆったりとしていて読みやすいっていうのもその通りだと思う。ゆるやかで。リラックスだね。二つならんだ地球と月って、改めてみるとすごく素敵。冷んやりとした宇宙に、青い星と、春の月。そう考えると中七は効いてないようで、きちんと効いているね。この句はきちんと僕たちに映像(動画という意味ではなく、静止画も含めての)を見せてくれる。僕も17音で出来ることなんて、と思っていたけれど、違ったなぁと思う。17音っていう定型は俳句における武器なんだろうね。破調も含めて。この句で呈示される景はきっと散文で伝えると興ざめかもしれない。でも、それは俳句っていう形式だからこそ、こんなにも広がり瑞々しいのかも。うーん。(笑)めっちゃ楽しいなぁ、どうしよう。よしこの鑑賞を聞いてもっと好きになりました。(吉)くそぅ。呼び返すあだ名がないぞ(笑)中七がより地球と月の存在感を際立たせてくれるよね。意外にこの句の肝は中七なのかもね。散文では伝えれないよね、この景色。そう十七音っていう短さは制約じゃなくて武器なんだよね。すごく思う。私の拙い鑑賞、伝わったようで何より。私も柳元君の鑑賞でこの句への理解が深まったよ!!正木ゆう子先生、おすすめですよー!!彼女自身の感覚に基づく句のはずなのに、不思議と納得のいく句が多いです。月光を感じてからだ開く駅正木ゆう子(『静かな水』より)とかね。まだ色々紹介したいけど。まぁ、私の好きな句の話はこれまでに(していいのかな?)柳元君の選ぶ句を聞きたいな!!(柳)まあ僕は強いていえばやなぎーとかやなぎぃとか呼ばれてるかな?笑正木ゆう子先生の句、素敵だねー。感覚的な句は独りよがりになりがちだけれど、そのような句で共感できるのはやっぱり正木先生の句に実感があるからだね。きっと、身体の細胞とか心臓とか、耳や目とかそういうレベルでの実感を覚えるんだろうな。月光を感じるからだなんて、僕には使えないよー。素敵。そうだね、おいおい触れていきましょう!またお願いします!雪解けて地面呼吸を始めけり木村杏香(旭川東文芸部誌『炎』より)正木ゆう子先生の句のあとなのですが、部活の先輩の句です。僕の好きな句なので許してね。俳句のハの字も知らないときに、初めて出会った句で。俳句の良し悪しなんてわからなくて、そのときは全くわからなかったけれど、なぜだかずっと心に残っている、印象深い句です。広島に住んでいると実感は少ないかもしれないけれど、どうだろう?(吉)じゃ、やなぎーって呼ぼっかな。正木ゆう子先生素敵だよー。サインしてもらった時もすごく丁寧に対応していただいたし、句も人柄も素敵だよ。お兄さんの正木浩一さんも、もう亡くなってらっしゃるけど素敵な句を詠まれてます。木村さんの句ですね!!あの素っ裸の!!めちゃくちゃ印象に残ってます。広島でも年に二、三回は雪が降るので、北海道民ほどじゃないけどこの句の気持ち分かりますよ。生き物でもない地面に命を感じるというか。雪が解けた後の地面ってやわらかで、日が差して暖かそう。そんな地面は冬眠している蛙が隠れていたり、これから芽吹く種がじっと眠っていたりと色んな命を包んで、育むっていうイメージが強く浮かんできて、「呼吸」っていう言葉と合ってると思った。呼吸って内と外の出し入れだから、春になりかけた空気を地面が吸い込んで命が育っていくように思えるかな。ただ、春が来たっていう季語じゃなくて、雪が解けた、だからこそ、水の循環とか水の恵みだとかそういう自然の息吹をすごく感じて気持ちがよかったです。好きだな。こういうの。俳句知らなくてもそりゃ惹かれてしまいますよ。ただ、時々しか雪が降らない広島よりも、ずっと雪が降り積もってる北海道の方がこの句の気持ちをもっと理解できるんだと思うなー。羨ましい。その気持ち理解したいぞ!!(柳)どうぞー!!そうなのか、旦那さんも俳人の方だったのか。田中裕明さんと森賀まりさん、神野紗希さんと高柳克広さんみたいに、俳人同士の結婚って憧れるよね。デートで吟行とか、結婚式の二次会は句会、みたいな。笑そうなの、素っ裸の木村さんの句なのです。実は、雪解けって結構汚いんだ。春先になると、融雪剤っていう雪を溶かすための黒い砂みたいなものが巻かれるし、地面がぬかるんで雪も泥々になってしまって。でも、そういう雪の感じって、ああ、呼吸をしていたんたんだなぁと思って。それから春先のどろどろが楽しみになりました。コンクリートと土の道の違いって、息をしているかどうかなんだね。それになんといったって、春の優しい季節感が満載だよね。地面が呼吸を始めるから、冬眠していた生き物も動き出すし、木は芽吹きはじめる。春が唄いだしたみたいで、この句はとっても好きなんだ。北海道に吟行においでー!来年の俳句甲子園も、優勝すれば航空券だろうからね。(ぼくたちが勝って広島に吟行にいく予定だけど。笑)俳句は住んでいる地域によって、詠む内容や解釈も変わるから、色々なところに行ってみたいね。(吉)正木浩一さんはお兄さんだぞー(笑)確かに俳人同士の結婚っていいなーと思う。俳句甲子園だったら高柳先生と紗希さんが並んだときお似合い過ぎて眩しかった。デート吟行って私は楽しいけど、デートとしてそれ、相手は喜んでくるかな?(笑)デートなのに、「後十分で句を三句ずつ見せ合おうね」とか言ってたらビックリしちゃうわ。あぁ、確かに言われてみれば春先の土はどろどろでぐにゃぐにゃだわ。自分もあのカンジ好きよ。一歩一歩歩くたびに確かに地面を踏みしめてる感覚があるし、足跡がよく残るのがなんとなく面白いし。自分も今年、雪が解けるたびにこの句を思い出すだろうな。雪解けとか春が来るっていう事がこの句を読んだおかげでより楽しみになってきた。春が唄いだした、っていう気持ち分かるよ。春の始まりだと思えば土のどろどろも一見汚いけど愛おしくなっちゃうわ。こういう風に俳句に触れる事で現実の世界が深まるっていうのは自分にはよくあるんだよね。自然も句を通してどんどん好きになってくし、牛とか馬とか鹿とかかわうそとか動物もどんどん好きになってく。そういうところも、私が俳句に惹かれてく理由なのかも。北海道、行きたーい!!小さい時行ったけどもうラベンダー畑しか記憶に残ってなくて(笑)かまくら作りたい。かまくらの中で餅食べたい。あ、でもスキーは結構です。風土が違う場所で俳句詠むの楽しいだろなー。北海道の空気を食べにいきたい。広島に来るのは大歓迎だけど、自腹で来てください(笑)準優勝で満足してください(笑)ただ、広島は何もないぞ……。政令指定都市だけどドーム球場ないし。俳句甲子園の俳句見る限りでも、結構地域の影響受けるよね。北海道は空蝉が見れないって聞いて本当にカルチャーショックだったもん。蝉の抜け殻をポケットに入れて持って帰ろうとしたら、ポケットの中でばらばらに砕けて母親に呆れられる、っていう経験は小学生なら誰もがするものだと思ってたから。私達、今年の兼題「蝉」を詠む時、蝉が二三匹しか鳴かないからもっと鳴けーってお祈りしてたんだけど、北海道じゃ一匹たりとも鳴かないわけじゃん。詠むのも大変だっただろうけど、相手の句の解釈も大変だっただろうね。逆にやなぎーの優秀賞句とか、向日葵の句は北海道的(?)伸びやかさがあって好きだったよ。(柳)わぁーーこういうところがあるから僕はだめだね。ごめんね。そうか、兄妹で俳句をされるんだ。素敵な家族だね。高柳克広さんと神野紗希さんは眩しい、紛れもなく光源だったね。憧れる。まあ句は一人で作るからね。吟行は成立しても、デートは成立しないかも。笑今年の俳句甲子園の開会式で西村和子先生もおっしゃっていたけど、何年、何十年も先になっても思い出せる句と出会えたら本当に嬉しいよね。散文ではできないことだし、口承性のある俳句ならではだよね。口承性のあるっていう俳句だと、びわ食べて君とつるりんしたいなあ坪内稔典(「船団」ホームページ「e船団」http://sendan.kaisya.co.jp/index3.htmlより)ってのを思い出す。好き好みは分かれるけど、もう俺、この句を忘れられない。枇杷食べるたびに君とつるりんしたくなる。よしこの言うとおり、俳句をやることで自然に対する姿勢とかはとても変わったと思う。木とかは影に注目しちゃうし、石があったらひっくり返しちゃうし。動物も大好きになった。わ、ラベンダー!僕の出身地は富良野っていうところなんだけど、たぶんその周辺じゃないかな??なんだか嬉しいな。いつか一緒に吟行しようね。スキーは僕得意だから、スキー吟行しようね♡広島がなにもないだなんて。北海道は景色は綺麗だけれど、広島みたいに歴史は深い土地じゃないよ。牡蠣も美味しいだろうし。堀下先輩も「尾道に住みたいなぁ」って言ってたよ。僕たち北海道民からすれば、歴史のある町は憧れる。そうだね、たしかに蝉とかはあんまりいないね。今年はNHKの取材に来ていただけたのだけど、蝉がいなくてディレクターさんががっかりしていたよ。まあでも、地域差があるのはしょうがない。北海道は北海道で雪とかの冬の季語に強いし。鑑賞が難しいのは確かにあって、だから今年はまず景の確認を真っ先にしていたんだ。去年、先輩方が兼題「柿」のときに、柿がならない地域には景が分からない句と当たり、大変だったらしくて。わ、覚えててくれたんだ!ありがとう!こういうのが嫌味なく詠めるのは北海道の強みだと思うな。よし、次の句にいってもよいかな。よしこ、お願いできる?(吉)まぁ、私の場合デートする相手はいないので(この話にコメントしなくていいからね!!)西村先生の話はすごく覚えてる。恥ずかしい話、感動して半泣きの状態だった(笑)実際、これからもずっと忘れないであろう句とたくさん出会えて幸せだった。やなぎーの句も、ずっと覚えてると思う。稔典のその句は初めて見た。この口からポンと出てきたカンジ良いよね。俳句って一般の人が思ってるような小難しい句ばっかりじゃなくて、こういう句もあるから止められない。自分も脳内が今この句で埋め尽くされてる。ただ、やなぎー、「君とつるりんしたくなる」はやっぱり散文のワンフレーズになると危険な気配を感じるよ(笑)韻文の力、大事だね(笑)たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ坪内稔典(『ぽぽのあたり』より)三月の甘納豆のうふふふふ坪内稔典(『落花落日』より)とか読むと今日も日本は平和だなーと思えて大好き。すごく分かる。分かるよ。木があったら抱きたくなるし、雨が降ればすこし浴びたくなる。石は裏返す度にダンゴムシごめんよ、って思ってる。吟行したいぞ。私を北海道に連れていって♡スキーは肌が焼けそうだから遠慮しよっかな……。別にスポーツが苦手とかそういうわけじゃないけど、ね。うん。まぁ、確かに歴史はある街だね。広島もおいでよー。一緒に探検しよ。自分あんまり広島詳しくないから。俳句甲子園、冬の季語も出してあげて……。柿もないんだねー。別世界だわ。今の時期、丁度電車の窓から外見たら柿はどこにでもあるし、どこも田舎だね。それは北海道の強みだけじゃなくて、それを言葉にできるやなぎーにも強みがあるよ!!やなぎーの句は話し出したら長くなっちゃうからまたなんか機会あれば話させてね。じゃあ、本題に戻りましょうか。花の上に押し寄せてゐる夜空かな村上鞆彦(『遅日の岸』より)正木ゆう子先生の句は私の原点の句だったんですけど、私はあの句に囚われすぎていたのか、壮大な物事や、誰も思いついた事のないフレーズを詠むことに固執してた時期があったんですね。そんな私の目を覚ましてくれた句です。やなぎー。鑑賞お願いします!!(柳)うんうん、西村和子先生のお話はめっちゃよかった。あのお話聞けただけでも俳句甲子園いった価値あったよ。人に覚えてもらえる句って、本当に作者冥利に尽きるね。めっちゃ嬉しいです。古くて申し訳ないけど、よしこのさびしさは鳴ればよいのに蜆汁吉川創揮(『星果てる光Ⅱ』より)これ、大好きなので、忘れません。木村さんが吉川くんうまいなぁっていうから僕悔しくてさ。笑稔典の俳句は、ナンセンスに見えてクスッと笑えて、それでいいじゃないかっていうそんな感じだよね。僕はこの作り方はしないけど、とても好き。季語の問題は俳句甲子園に文句言っても仕方ないし、類想にとらわれないアドバンテージだと思って頑張ります。しょうがないものね。わ、これ素敵な句だね。恥ずかしながら初めて見る句です。この句も僕は十分大きな句だと思うけれど、とても優しい句だね。迷うのだけれど、日が沈んで夜空が桜のうえにくる、という時間の移り変わりではなく、感覚的に夜空が桜のうえにある状態を、夜空が押し寄せていると捉えたものだと読みました。夜空がメインではあるけれど、しっかり桜も描かれていると感じたのはきっと上六だからかな。押し寄せている、というフレーズにしずかに浜にうちくる波をイメージしました。桜のうえに、波のごと夜空が静かに押し寄せているんだ、という作者の主観が優しい。春の夜空は水分が多いから、そんな風に感じたのかもしれないな。僕も先輩にやなぎぃは句柄が大きいと言われていました。壮大な句が好きだったし、天文季語ばっかり使ってたし。色々考えることがあり、ようやくそこは抜け出せたかな、なんて思ってるけれど。みんな通る道なのかもね。(吉)うわーありがとう。句と話はズレるけど、さびしさは音にするなら、おなかが空腹で鳴る音だと自分は思ってます(笑)あの気の抜けた音がなんとなく自分はさびしいんだよね。俳句甲子園には出せないけど、北海道民の冬の句、楽しみにしてるよー!!鑑賞はやなぎーに全く同じです。一言でまとめたらこの句に失礼だけど、綺麗だよね。夜桜の景色がくっきり浮かび上がるし、桜を包む空気の様子まで見えてくる。上六のゆったりとしたリズムも気持ちよくていいよね。この句で自分が驚いたのは、この句が言ってることって失礼な話「夜桜」って季語に含まれてる気がした、ってこと。夜桜って言葉を言えばきっと誰もがこの句のような景色を思い浮かべると思うんだよね。だから景色自体にオリジナリティーとかは多分ない。正木先生の句とは違ってね。でも、オリジナリティーがないから悪い句とは微塵も思えなかったし、むしろ夜桜という皆のイメージする景色をたった十七音で切り取れたって事に感動した。大胆な言葉、奇抜なフレーズ、誰も見たことのない景色……。そんなものがなくても単純でさりげない言葉でそこにある景色を詠むだけで俳句は成り立つのだなぁ、って。(こんなこと芭蕉の古池やを読めば分かる事なんだろうけど、当時の私はそんなことすら分かってなくて苦笑)この句を読んでから、周りの物事にも目を向けて句を詠むようになったかな。言葉だけ大胆で中身は空虚な句は少なくなった(と信じたい)まぁ、「押し寄せてゐる」は少し捻ったフレーズなのかもしれないけど、一句全体を眺めた時に目につかないさりげなさがあって良いなと思いましたね。このフレーズから生まれる波のイメージが夜桜の儚い美しさを引き立ててるし。天文季語ばかり使うってのはすごく分かる。私だけじゃなくて、広島高校全体が天体季語が好きすぎる。星にはロマンがあるから仕方が無いのかもしれないけど。(柳)そうだね、確かにこの景には夜桜があるよね。もう少しだけ言うと、句形からしても明らかのように僕は「夜桜」というより「夜桜のうえにある夜空」の句だと思うのです。同じ景があって、それを100人が詠んで100人が同じ俳句とならないみたいに、夜桜を詠むにも色々な攻め方があるんだろうね。景を自らの手で作りあげるような句もあるだろうし、夜桜の持っている隠された本質の一部を捉えるみたいなものもあるだろうし。俳句甲子園の質疑応答は「景」によるものが多いけれど、それは句の一部であって全てじゃないんだろうと思います。「景」や「題材」にオリジナリティがなくても唯一無二のものはあるだろうし。まだ僕は手探り状態で全然わからないのだけれど、このあたりを勉強したいと思ってます。天文季語は季語自体すごくポエジーだから。(笑)でも青春詠だと思えば、そういう時期なんだと思うし。ことごとく未踏なりけり冬の星高柳克広(『未踏』より)くらい詠めればよいけれどね。なんでもないことを詠んでなんでもないことが詩になるっていうのは本当に俳句のすごいところだよね。でも、たとえば、鶏頭の十四五本もありぬべし正岡子規って俺、分からないんだよね。よしこはどうかな?この句?ここまでの徹底した写生をされると、僕はどうもとっつきづらいのだけれど。(吉)確かに「夜桜のうえにある夜空」の句だね。その視点のずらし方が上手いポイントのひとつなのかも。そう、「景」や「題材」にオリジナリティーがなくても私にとって唯一無二なのね、この句。私が上手く言えなかったことを言ってくれてありがとう。自分もあまり理解してないし、言葉が追いつかないね。自分も学ばないと。俳句甲子園の質疑は難しいよね。自分も景をなぞるだけのような質問しかできなくて、相手の句の魅力的な部分に迫ることができなかった。句会とかで選入れた句の感想を言うときもだけど。未踏の青春感はいいよねー!!でも、自分はこんな力強くも、脆くて健全な青春を自分はしてないから(笑)こんな句詠めない。未踏は天文的季語に限らず、蝶とか海鳥とか色んな少年性を表現するモチーフがあって面白いよね。俳句っていう形式が偉大だよね。あをぞらをしづかにながす冬木かな村上鞆彦(『遅日の岸』より)なんかも、青空を背に木が立ってるだけなのに、作品として完成されてる。自分も正直な話鶏頭の句には惹かれないかな。子規の人生とかそういうものに思いを馳せれば惹かれていくのかもしれないけど。ただ、作者の人生を知識と持ってないと楽しめないっていうのは俳句の一作品としてどうなのか疑問ではあるかな。鶏頭は七、八本でもこの句は変わらないって言った人もいるらしいけど、同意かな。でも、子規の目に十四、五本映ったのなら事実として十四、五本でかまわないとは思う。これは自分の勝手な考えだけど、鶏頭っていう一つ一つの主張が激しい花を十四、五本もまとめて詠んだのは面白い点だとは思う。自分が写生句で好きな句っていうのは全部、自分が生きてて視界に入れていても気にも留めなかったことを言ってる句かな。チューリップ花びら外れかけてをり波多野爽波冬空へ出てはつきりと蚊のかたち岸本尚毅(『鶏頭』より)たしかにチューリップは散りそう、じゃなくて外れそうな花びらのつきかたをしてるし、蚊も青空をバックにするとはっきり認識される。こういう、言われてみれば確かに!!と思える写生句は好きだな。(柳)僕も言葉が追いつかないことがとてもつらい。もっとも、僕は知識も追いついていないけれど。恥ずかしながら、僕『未踏』持ってなくて、なんとも言えません。買おうにも、もう在庫もなくて。読みたいのだけれど、まだ叶わずにいます。海鳥の句は、歳時記にサインしてもらいました!一生の宝物です。あをぞらをしづかにながす冬木かなこれめっちゃいいです。好きな句リストに追加しておきます。素敵な句だね。あおぞらが流れるなんて、もうたまらないなぁ。冬木がそれとなく、すごく効いてるね。しっかり定着させている。背景知識に左右されてしまう俳句は難しいよね。でも、きっと俳句ってそういう側面も確かにあって、そういうものだったのかも。虚子あたりのころから、ひとつの句が媒体を介して全国に広がるってことになって、わけわからなくなったのかな。でも、ひとつの芸術として成り立つには背景知識から独立してもひとつの作品として成り立つことが必要だと、僕も思います。それと、鶏頭についても同意します。爽波のチューリップみたいに、ただそこに何があるんだって句よりは、言葉にすることで新しい見方を提示してくれるほうが好きです。でも、これは僕がまだ読みが浅いからなのかもしれないなぁと思います。いやぁ、話してる密度が濃くてくらくらしてきちゃうな。笑だいぶ脱線してしまったけれど、次の句にすすんでも良いかな?さへづりのだんだん吾を容れにけり石田郷子(『木の名前』より)石田郷子さんの作風がとても好きで、俳句を真剣にやるようになってから影響を受けました。石田郷子ラインなんていう少しネガティヴな捉え方もあるけれど、単純に読者として共感できて、俳句っていいなぁと思わせてくれます。鑑賞お願いできますか?(吉)『未踏』はスピカなら買えると思うよー。サインもしてもらえるから自分はスピカで買った。ちなみに揚羽追ふこころ揚羽と行つたきりって句をサインしてもらった。未踏で一番好きな句ではないけど、すごく句の気持ちに共感できて好き。海鳥の句もいいよね。眩しい。村上鞆彦さんの句いいでしょ?今年第1句集だしたし、新選21にも100句出してるので是非是非他の句も見てね。どこでもある普通の景色を綺麗に切り取れてるよね。俳句の歴史とか勉強しないとなぁ。過去の俳人をもっと知りたい。そうそう写生はハッとする何かがないと響いてきにくい、自分も。でも、地味だけどたてかけてあたりものなき破魔矢かな高浜虚子が好きだったりするから自分の写生句に対する好みは自分でも分からないや。自分の鑑賞能力が足りてないからかも、というのは同意。私もこんな難しげな話をするとは思ってなかったから頭が……。楽しいけどね!!毎回、ついつい脱線しちゃう。石田郷子さんか。この句含め三、四句しか知らないや、気になってはいるけど。森の中かな。自分は囀りが聞こえると気になって近づいちゃうけど、近づきすぎると鳥って逃げちゃうんだよね。でも大人しくしているとまた鳥達は囀りはじめる。そうやって高まっていく囀りを聞いていると、自分が鳥達に受け入れられたような、森という風景の一部になったようなそういう感覚がする、ってことだと思う。この句、囀りという実体のないものについて詠んでいるけど、春の光を受けて揺れる木々だとか、木漏れ日とかが囀りの賑やかさ、眩しい声から見えてくる気がします。具体的な景を示さないからこそ、春の光の感覚を捉えているような気もするね。だんだんっていう措辞も囀りを聞いてるときの森に溶けてゆくような感覚に忠実だし、容れにけりはさり気なく、やわらか。このひらがなの余白の多さからも光が見えてくる気がする。十七音っていう形式に無理させず、等身大の感覚をさりげなく詠めてるから、読んだら深呼吸したくなる気持ちよさだね、この句。石田郷子ラインは、「文学的意識」っていうのかな、何かを俳句で表現しよう、掴もうという確固たる信念がない、見たいなイメージがあるのね。あんまり知らないのだけど。俳句という形式が停滞していると言われている今の状況を打破してくれる可能性は石田郷子ラインにはないのだろうけど、それは別に自分はかまわないと思うんだよね。等身大に、自分と世界の関わりを詠んでいくっていう姿勢は俳句の中であってもいいと思う。自分もそういう句好きだし。ただ「文学的意識」のようなものがあったほうが、より切実で、誰にも掴むことができなかった句が詠めるのだと思うな。ちなみに、石田郷子ラインと称される中では津川絵理子先生が好きです。切り口のざくざく増えて韮にほふ(『はじまりの樹』より)とかね。石田郷子ラインについては勉強不足だな。(柳)あれ?そうなのか!見てみるね。高柳先生はこの頃を振り返って、もう「ことごとく」のような句は作れない、と仰ってた。(のをどこかで読みました。)作風は意図の有無を問わず変わるものだし、それで良いのだろうね。ああ、新選21に出てたのか。もやもやの正体が分かりました。見てみる、きっと僕も好きな作家さんだと思います。鑑賞の能力を付けることもそうだし、作句するにおいても歴史を学ぶ必要があることに最近ようやく気づけました。今の旭川東は正直まったくこのような勉強会をしないので、その必要性を感じています。でも自主的に学ばないと面白くないし、難しいところだよね。石田郷子さんの句を読んでいると、何かに包まれている気になります。それは主観を通した優しい自然であり、光であり、母性といったら少し違うけれど。些細なことでも、優しい気持ちになれます。石田郷子ラインについては僕もほとんどわからなくて、知ったかぶりみたいなところがある。(笑)中原道夫先生は「嫌なところがない癒し系だけれど…」みたいなニュアンスで仰ってたよね。あれは文体や詠み方の問題なのかな。個人としてより世代として捉えたときの問題だよね。そのような問題提起を見ると自分の詠み方とかを考えざるを得なくなる。アイデンティティとかね。僕にはまだ難しくて、とりあえずは句が緩くからないようにするので精一杯だけど。句のイメージはよしこの言ったとおりです。囀りのみを捉えるゆえに周りまでをも想像できるんだと思います。言葉による制限がないところは好きなだけ想像できるから、この句はだんだんと自分の周りが、ひいては自分さへも深い緑になるような感じです。僕の思っていること以上のことを正確に言葉にしてくれて、僕が言うまでもなくなっちゃった。素敵な鑑賞をありがとう!僕の中では囀りって凸のイメージなのです。溢れ出してくるもので、零れるもの。青本瑞季さんの、囀りやみづの器として湖底青本瑞季(『星果てる光Ⅱ』より)とか。この句に僕は、器である湖底に、深く注ぐような囀りを思いました。これは囀りが凸、湖底が凹だよね。そういう意味で石田郷子さんの句の囀りは、自分を受け入れるという意味で凹。これが不思議な感覚だった。囀りに侵食されていくような。容れるというのも、器をイメージさせる。うちの高校も別に勉強会はしてないよ。やると俳句が勉強になって、俳句を詠むことが宿題になりそうで、なんとなく怖い。勉強するなら私と一緒にしない?(具体的に何するかとか思いつかないけど)石田郷子さん、少し調べてみたけど句の言葉がシンプルでゆとりがあって心地よいね。作者自身のこころの伸びやかさが句に表れてるんだろうな。私はチマチマとした人間だからこのおおらかさ、優しさにずっと浸りたくなる。やなぎーが惹かれるの、分かります。あぁー確かに、中原道夫先生がそう言ってたの、見たわ。改めて調べると彼女たちは俳句に過大な負担をかけない。何かを表現しようとして俳句を利用するのではなく、俳句形式に触れることによって、心がおのずと開かれていく。(週刊俳句より、http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/04/blog-post_14.html)(編者注:この対談を読むだけでは石田郷子ラインに対する誤解が生まれるので是非お読みください)と小川軽舟先生の言葉が引用されてたけど、そういう風に俳句へのスタンスが違うだろうね。自分は人間としてもアイデンティティがないので当然、句にもアイデンティティがないんだよね。そこは気にしてる。具体的にどうすることもできてないけど。いえいえ。やなぎーの素敵な鑑賞に負けないように頑張った(笑)森の静けさに体が溶けていくそのここち、分かる分かる。その凸と凹の捉え方おもしろいね。瑞季先輩の句も、石田郷子さんの句も、どちらも光を連想させる囀りだけど働きが違うのか。瑞季先輩の囀りは光の線をイメージするけど、石田郷子さんの囀りは光のある空間をイメージするわ。他の句と合わせて読むとおもしろいな。星果てる光読んでくれてありがとー。タイトルから天文季語が好きすぎる気質が表れてるけどね(笑)木村さんに公式ブログでお願いされたけれど、できるのは年明けになります。もうちょっと待ってね。石田郷子さんに影響を受けたって言ったけど、それはゆとりがあるフレーズだったり、句の伸びやかさだったりから影響を受けたのかな?なんか私ばっかり自分語りをした気がするので(私が勝手にね笑)、やなぎーの句に対する姿勢をすこし教えてもらいたいな。というか、どうやってやなぎーは俳句に出会ったの?私は中学の頃に小説を書こうとして文芸部に入部したんだけど、松山に行きたいという不純な理由で高1になって俳句を始めた。やなぎーも高1からだよね?多分。突然、話を雑に振って申し訳ない(笑)(柳)そうなんだよね。俳句は強制されるものではないし、苦痛になんて感じてしまったらそれこそ悲しい。僕の先輩は、そういうことがあってあんまり下級生に俳句作れとか、読め、勉強しろなんて言わなかったんだと僕は勝手に思ってるんだ。え、ほんと?一緒に勉強したいです、嬉しい!お互いの句の合評とかも出来たら楽しいね!形式に負担をかけない、か。なるほど、確かにそうだ。僕も俳句は言いたいことを言う主張に使うものではないという点は大きく共感します。アイデンティティは僕はとりあえず棚上げしようかな。(笑)詠みたいものを詠んでいって、それがいつか見つかればよいな。甘えるわけじゃないけれど、僕まだ俳句始めて二年経ってないし。(逃げの姿勢)よしこが言う、囀りの「線」と「空間」の違い、なるほどだ。青本瑞季さんのは、コップから液体を液体に半永久的に注ぐイメージ、石田郷子さんのはゆるやかに膨張する空間だね。石田郷子さんには、影響を受けたというか、単純に好きだったんだ。句集を一冊読んだだけだったけれど。それで、自分でドラマ性のある大景を組み立てるような作風は、稚拙だったなぁとようやく思えて。(作風が変わってるかどうかは別としてだけど。笑)僕はとっても素敵なタイトルだと思うよ、『星果てる光』なんて。忙しい時期なのにありがとう!楽しみにしてます!俳句との出会い方かぁ。僕は中学では野球少年(もちろん坊主)で、高校でも野球をやる予定だったけど、受験期に伸びた髪を切りたくなくて。それで、本を読むのが好きで、少しだけ小説を少し書いていたから、ふらりと文芸部に入りました。そして、一ヶ月くらいして、みんな俳句やってるんだぁ、やるかぁくらいで俳句を始めたよ。俳句なんて全然わからなくて、今もわかりません。そして、月日は流れ、ゆるーい意識のまま今年の俳句甲子園を迎えてしまい、先輩2人に引っ張られる形で準優勝して。そこで僕は意識が変わりました。俳句の(俳句甲子園の、ではなく)楽しさ、深さ、色々な考えに気づけたのと、来年もこの場に立ちたいと切実に思えて。だから、恥ずかしながら実はエンジンがかかったのはつい最近なんだ。やっぱり、俳句甲子園の存在は本当に、本当に大きかったな。傾倒できる俳句に出会えて、友達も増えて。だからこうやってよしこと対談も出来ているし。よしこも、俳句甲子園の存在はやっぱり大きかったかな?(吉)部員以外に句を見てもらうの新鮮だから、やってみたいね。あぁごめん、自分の引用と話の仕方が悪かったから勘違いを起こしてるみたい。ここでいう小川軽舟先生の「何かを表現しようとして俳句を利用する」っていうのは、自分の意見を伝えるために俳句を利用するって事じゃなくて、三橋鷹女が俳句で何を詠みたいか問われて「孤独」と答えたように、そういう何かしらのテーマを表現するために俳句を利用するって事だと思う。分かりにくくてごめんよ。いつも言葉足らずで。でも、自分も何らかの主張に俳句を使うのは好きじゃないよ。新聞とかで時々見かける時事俳句的なものとかね。自分も棚上げ状態(笑)まぁ、でもアイデンティティって自分で意識するものじゃなくて滲みでてくる物だと思うから、やなぎーの姿勢が正しいのかも。それは決して逃げじゃないと思うよ。「木の名前」を読んだのかな?自分も読んでみようかな。こういう心に癒しを与えてくれる句集ほしいです。第三句集も最近出たようなのでそっちも気になっちゃうな。自分も俳人の方の句集読むたびにこういう句を読みたい!って思うけど肝心の自分の句に変化はあまり……(笑)なんだかんだ、大きな事を言いたがる癖は抜けてない気がする、自分。最初の頃はドラマ性を持った句を詠みたがってしまうよね。十七音に情報が収まらなくてお粗末なドラマができることが多かったなぁ(笑)よくよく考えたら少し暗いタイトルだけどね(笑)星、死んじゃってる。いやいや、忙しいなんてそんな。テスト期間中で忙しいのに深夜一時にメールを返してくれるやなぎーの方がよっぽど大変だよ。無理しないでね!!え、野球部で坊主だったの(;゚ロ゚)ナン!(;ロ゚)゚デス!!(;ロ)゚゚トー!!!どうりで私とは違う爽やかな雰囲気があるわけだ。納得。でも、一回坊主にしたのに、髪ツンツンになってないのね、羨ましいぞ。私の髪、小さい頃に坊主にしてから完全防水使用の硬さだから(笑)まぁ、そんな事はどうでもよい。俳句甲子園の存在は大きすぎるものがあるね。まず、俳句甲子園がなかったら、俳句の面白さに気づかずに人生を終えてただろうから、俳句甲子園に感謝してる。自分のエンジンがかかったのは去年の俳句甲子園だろうな。Bチームだった私と曽我部、竹村、荒谷で自費で応援に松山に行ったのね。で、開成高校だとか、広島が敗者復活で二位だったとか色んなことに刺激を受けて、自分もがんばろうと思った。俳句甲子園を、じゃなくて俳句を。まぁ、そのエンジンは頻繁に切れてるのだけど(笑)でも、今年、見る側じゃなくて選手側として参加できて本当によかった。だってフェアウェルパーティー楽しすぎじゃない。色んな人と話せるし、たくさん句集にサインしてもらえたし。こういう風に終わったあとも交流を持てる友達ができるしね。俳句甲子園というイベントより俳句が好きだけど、俳句甲子園は俳句への原動力となってるかな、自分には。やなぎーは高3でも出場するのね。自分は来年でるかまだ決めてないや。(うちの高校三年の部活は制限されてるらしいし)でも、準決勝まで進んで、真っ暗なステージから照明を当てられて浮かび上がる演出やってみたい(笑)あれ、見てる側からしたらすごく、かっこよかった。強者感すごかった。(柳)いやいや、僕は時間の使い方が下手くそなだけなので、大変なんてことはないよ!(テストなんて知らない)あ、ごめんごめん!主張って言い方がまずかったね。テーマを表現するってこと自体に目的は感じなくて、物を詠むことで、類似性としてのテーマが出てくる、確かにそんな感じ。時事俳句は、ジャンルとしてはありなのかもしれないけれど、五七五でやる必要はないような気がする。もちろん、それが成功している人(渡邊白泉とか)もいると思うけどね。ある程度耐久性がないとだめなんじゃなかな、と人の話を聞いて思い始めてます。石田郷子さんの句集は『木の名前』を読みました。第三句集、僕も気になってます。ネット通販苦手なのだけれど、『未踏』といい、挑戦せねばならぬ時がきたようだ。笑そうか、広島は高三は参加しないケースが多いのか。勉強大変な時期だもんな、夏休みを喰われるもの。岸野さんとかも今年参加されてなかったものね。俳句を大学で続けることを考えると、その方が良いのかも、なんて思ったり。難しい判断だね。やっぱり俳句甲子園は俳句を始める大きなきっかけがね。俳句甲子園がなければ絶対俳句をやらなかったと僕も思う。ほんとに感謝だ。僕は去年の俳句甲子園は地方予選すらなぜか出なくて、(出ればよかったなぁと思ってる)ちょっと悔やんでいます。作品集を読んだだけだけれど、去年の俳句甲子園はとてもレベルが高かったね。予選の開成と広島は、まず句からして事実上の決勝と読んでもおかしくないぐらいだったし。それは刺激受けるね。僕も選手として参加して、今年こんなに良い思いをしてしまって(あんな素敵な演出とかもしてもらえて)、頑張らざるを得ないです。僕も俳句も、俳句甲子園も大好きです。来年よしこと会えたらよいな、なんて軽々しく言えないけれど、まあお互い無事大学生になれたら、一緒に吟行しましょう!(そろそろまとめようか!笑こんなに楽しいとは考えてなかった!脱線いっぱいしてごめんね!)(吉)そうそう、時事を五七五で詠むメリットってあんまりないよね。情報量が圧倒的に少なくなるから。うちの学校は「卒業研究」って言って、高校卒業の条件としてちょっとした論文を書かなきゃいけないんだけど、時事俳句の意義について書こうと思ってます。ただ、やなぎーの話聞いてると、この研究予想以上にハードな気がしてきた。がんばります(笑)ネット通販は一度手を出しちゃうと、財布の紐がゆるくなるから気をつけてね(笑)私、一ヶ月で一万円、俳句関連の本で飛んだことあるから(笑)去年全国大会に出てた、青山先輩も岸野先輩も受験勉強で忙しいからね。(青山先輩は応援に来てくれましたが)むしろ、高三も出た青本姉妹は特例です(笑)しかも、二人とも東大行っちゃうから尚更特例。私も今、その事に絶賛悩み中です。あぁ、確かにやなぎーの名前、去年の作品集で見かけなかったなぁ。今年初めてなのに、舞台上でも落ち着いてディベートしてたから尊敬するわ。去年の広島は最強の布陣だったからね。自分が試合する時よりも開成と先輩の試合を見てるほうが緊張したし興奮してた。応援しにきただけなのに泣いちゃったしね(笑)俳句甲子園はどうか分からないけど、俳句は一緒にがんばろうね!!吟行もいつかしよー!!そろそろ終わりなのでまとめのようなことを。一応、今回「自分が影響を受けた句を語り合う」がテーマだったんだけど、まぁ、見事に脱線に次ぐ脱線です(笑)しかも会話は一万五千字越え!!予想以上に長くなりました。やなぎーとは一回顔を合わせただけだし、会話もほぼしたことなかったけれど、今回の対談、本当に楽しかった!!お誘いただきありがとうございました。私のメール人生(そんな長くないけど)で一番、返信が待ち遠しいメールでした。とは言っても、待つ時間なんてあまり感じないくらい、やなぎーの返信は早かったけど(笑)ただ、これだけ話してもまだ私は物足りていないので(笑)是非、何かあればお呼びください。いや、何もなくても駆けつけます!!(柳)話したいことが色々なところにあって、欲張って色々な聞いてしまいました。それに対して丁寧に答えてくれてありがとう!鑑賞も、すごく考えてくれたことや、よしこの人柄が伝わってきて、心がジャガイモのようにほかほかになりました。(それはホクホクだった)よしことは俳句甲子園のフェアウェルパーティで、ほんの少しだけ話せたんだよね。あのとき話せなかったら、こうやってこんな楽しい話をできてなかったかもしれないと考えると、つくづく人との出会いって素敵だなって思います。俳句は縁を作ってくれるね。僕はほんとに薄っぺらい知識で精一杯話していたんだけれど、もっと頑張らねばと刺激を受けました。こういうのは恐れ多いけれど、僕はよしこのことライバルだと思ってるし、まずは追いつけ、そして追い越せで、切磋琢磨していけたらよいなと思ってます。僕もほんとに楽しかった、すごく、満たされました。好きなことを好きなだけ話せる相手ってそうそういないもの。もっと話したいことたくさんあるので、定期的にやろうよ。(笑)味をしめてしまったぞ。よしこの卒業研究の成功(少し気が早いけれど)を祈ってるよ。今回は忙しいなか、ありがとうございました! 三年生文芸部完全引退! http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1090413 こんにちは、三年部長のありあです。ここではペンネームで名乗るらしいんですよね…。久しぶりにこの名前を使います。そして久しぶりの雑記投稿。前の記事は読んでいただけたでしょうか?ここからはちょっとくだけた感じでいきたいと思います(^^)/私たち三年生六人は今日で文芸部を完全引退します。なぜ完全と強調するかというと、実は例年は7月の学校祭の部誌販売をもって部活動引退となるんですが、俳句甲子園の全国大会があったり、今回の文化賞表彰式があったりとして、部室での日常的な創作活動はしていなかったのですが、半ば片足をつっこむような形で文芸部にとどまっていたのです。先日想真唯愛ちゃんがHPに書いていたように、先日形式的な引退式は済ませていました。しかし、なかなか全員集まることはできなく、今回もそうであったのですが、久しぶりに部員で(しかも正装で!)集まることができ、晴天にも恵まれ、秋晴の気持ちのよい日となりました。そして、新体制の紹介をさせていただくと、新部長は二年生のこんがらがるー君となります。数年ぶりの男子部長となるのでは?と思います。好きなものは俳句と山と彼女。ぜひ可愛がってやってください。次に旭川東高校文芸部公式SNSの管理人は二年生の紫隈亮介さんとなります。副部長も兼任、今日は素敵な声で詩の朗読をしてくれました。三年生が引退すると部員数がぐっと減って、少人数の活動となり、なかなか至らない点があるかもしれませんが、二年生の二人は私の何倍もしっかりしているので、大丈夫だろうと期待しています(^^)私的な話をすると、私の三年間はめまぐるしい三年間であったなぁ、と思います。私の上級生の皆さんが公式SNS、メール句会、伝説の(笑)部誌「泉」の発行、俳句甲子園作品集HP企画、とさまざまな活動を残してくださりました。私が上級生のときには全国俳句甲子園準優勝、旭川市文化奨励賞というおそれ多い賞をいただくこともできました。結果を出すことや誰かに評価されることだけが文芸の価値だとは、部員全員みじんも思っていません。ですがそのいただいたものに恥じることのないよう、周りの支えを実感し感謝する場だと考えてこれからも活動してほしいと思います。そして、これからの活動の鍵は今までに生まれた活動を改めて見直し、それらを大切にしていくことにあるのかな、と残していく部員に対して思います。もちろん私は新しいことをどんどんしていく「攻め」の旭東文芸も大好きですが(笑)このあいだ二つ上の先輩に会ったとき、「おまえが引退なんて爆笑だよなぁ」と言われました。その「爆笑」をするぐらい、時間は速く流れていたのだなぁ、と思います。そしてその時間のなかには大きな活動だけではなく、部員との交流がありました。仲間と文芸への追求をはかり、たくさん笑いたくさん悩んできました。ときにはその悩みの先にどうしても我慢や対立を生むこともありました。……なんて、くだけた雑談というよりはちょっと感傷的な文になってしましましたね…。とにかく、後輩のみなさん、私たちにずっとついてきてくれてありがとう。またあなたたちの瑞々しい作品が見たいです。文芸部のこれからを期待しています。そして、文芸関係者の皆様、私たちを支えてくださっている皆様、これからも旭川東高校文芸部をよろしくお願いします。P.S.後輩へ:追い出し会の「ハイジンソウル」のカラオケ期待してるよ~!(公式ツイッター参照、素晴らしい作詞力です)2015.11ありあ/木村杏香 2015-11-03T19:32:00+09:00 こんにちは、三年部長のありあです。ここではペンネームで名乗るらしいんですよね…。久しぶりにこの名前を使います。そして久しぶりの雑記投稿。前の記事は読んでいただけたでしょうか?ここからはちょっとくだけた感じでいきたいと思います(^^)/私たち三年生六人は今日で文芸部を完全引退します。なぜ完全と強調するかというと、実は例年は7月の学校祭の部誌販売をもって部活動引退となるんですが、俳句甲子園の全国大会があったり、今回の文化賞表彰式があったりとして、部室での日常的な創作活動はしていなかったのですが、半ば片足をつっこむような形で文芸部にとどまっていたのです。先日想真唯愛ちゃんがHPに書いていたように、先日形式的な引退式は済ませていました。しかし、なかなか全員集まることはできなく、今回もそうであったのですが、久しぶりに部員で(しかも正装で!)集まることができ、晴天にも恵まれ、秋晴の気持ちのよい日となりました。そして、新体制の紹介をさせていただくと、新部長は二年生のこんがらがるー君となります。数年ぶりの男子部長となるのでは?と思います。好きなものは俳句と山と彼女。ぜひ可愛がってやってください。次に旭川東高校文芸部公式SNSの管理人は二年生の紫隈亮介さんとなります。副部長も兼任、今日は素敵な声で詩の朗読をしてくれました。三年生が引退すると部員数がぐっと減って、少人数の活動となり、なかなか至らない点があるかもしれませんが、二年生の二人は私の何倍もしっかりしているので、大丈夫だろうと期待しています(^^)私的な話をすると、私の三年間はめまぐるしい三年間であったなぁ、と思います。私の上級生の皆さんが公式SNS、メール句会、伝説の(笑)部誌「泉」の発行、俳句甲子園作品集HP企画、とさまざまな活動を残してくださりました。私が上級生のときには全国俳句甲子園準優勝、旭川市文化奨励賞というおそれ多い賞をいただくこともできました。結果を出すことや誰かに評価されることだけが文芸の価値だとは、部員全員みじんも思っていません。ですがそのいただいたものに恥じることのないよう、周りの支えを実感し感謝する場だと考えてこれからも活動してほしいと思います。そして、これからの活動の鍵は今までに生まれた活動を改めて見直し、それらを大切にしていくことにあるのかな、と残していく部員に対して思います。もちろん私は新しいことをどんどんしていく「攻め」の旭東文芸も大好きですが(笑)このあいだ二つ上の先輩に会ったとき、「おまえが引退なんて爆笑だよなぁ」と言われました。その「爆笑」をするぐらい、時間は速く流れていたのだなぁ、と思います。そしてその時間のなかには大きな活動だけではなく、部員との交流がありました。仲間と文芸への追求をはかり、たくさん笑いたくさん悩んできました。ときにはその悩みの先にどうしても我慢や対立を生むこともありました。……なんて、くだけた雑談というよりはちょっと感傷的な文になってしましましたね…。とにかく、後輩のみなさん、私たちにずっとついてきてくれてありがとう。またあなたたちの瑞々しい作品が見たいです。文芸部のこれからを期待しています。そして、文芸関係者の皆様、私たちを支えてくださっている皆様、これからも旭川東高校文芸部をよろしくお願いします。P.S.後輩へ:追い出し会の「ハイジンソウル」のカラオケ期待してるよ~!(公式ツイッター参照、素晴らしい作詞力です)2015.11ありあ/木村杏香 平成27年度旭川市文化奨励賞受賞の報告 http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/1090370 今年度の旭川市文化奨励賞を我が旭川東高校文芸部が受賞したことをここに報告させていただきます。そして今日はその表彰式が旭川市クリスタルホールにて行われました。表彰式の場では挨拶、作品発表の場が設けられました。旭川市文化賞は、旭川市の文化の向上のため、永年にわたり輝かしい業績をあげられた個人又は団体への「文化賞」と「文化功労賞」、今後の活動が期待される個人又は団体への「文化奨励賞」の三つで構成されており、私たちは文化奨励賞をいただいてきました。旭川東高校としては昭和38年以来二度目の文化奨励賞受賞となります(昭和38年度は書道部)。昭和40年度には作家の三浦綾子さんが文化賞を受賞した名誉ある賞です。まずは月並みな言葉ですが、部員全員が喜んでいます。受賞の理由は、長きに渡る部の功績と卒業してもなお文芸に携わり、地元の文芸を支え続ける卒業生の皆様の活躍とのことです。この受賞は文芸部OBOGの方々が残していった伝統や功績のうえに成り立っているものです。現役生の成果だけでは得られることのできないものであるということを忘れぬよう、私たちも常に文芸魂と北海道魂を忘れず、これからも頑張ります。このたびはこのような素晴らしい賞をありがとうございました。これからもこの受賞に恥じぬよう、感謝と縁の力を忘れず、そして自身の表現の追求を目指していきます。報告とお礼をホームページにて失礼いたします。2015.11.3平成27年度文芸部部長木村杏香※画像は表彰式で配布された作品発表の冊子です。 2015-11-03T18:21:00+09:00 今年度の旭川市文化奨励賞を我が旭川東高校文芸部が受賞したことをここに報告させていただきます。そして今日はその表彰式が旭川市クリスタルホールにて行われました。表彰式の場では挨拶、作品発表の場が設けられました。旭川市文化賞は、旭川市の文化の向上のため、永年にわたり輝かしい業績をあげられた個人又は団体への「文化賞」と「文化功労賞」、今後の活動が期待される個人又は団体への「文化奨励賞」の三つで構成されており、私たちは文化奨励賞をいただいてきました。旭川東高校としては昭和38年以来二度目の文化奨励賞受賞となります(昭和38年度は書道部)。昭和40年度には作家の三浦綾子さんが文化賞を受賞した名誉ある賞です。まずは月並みな言葉ですが、部員全員が喜んでいます。受賞の理由は、長きに渡る部の功績と卒業してもなお文芸に携わり、地元の文芸を支え続ける卒業生の皆様の活躍とのことです。この受賞は文芸部OBOGの方々が残していった伝統や功績のうえに成り立っているものです。現役生の成果だけでは得られることのできないものであるということを忘れぬよう、私たちも常に文芸魂と北海道魂を忘れず、これからも頑張ります。このたびはこのような素晴らしい賞をありがとうございました。これからもこの受賞に恥じぬよう、感謝と縁の力を忘れず、そして自身の表現の追求を目指していきます。報告とお礼をホームページにて失礼いたします。2015.11.3平成27年度文芸部部長木村杏香※画像は表彰式で配布された作品発表の冊子です。