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【鑑賞文】旭川東A・俳句批評鑑賞文(仙台白百合学園/西村葉月)パートワン

鑑賞文交換第3弾です。仙台白百合学園3年生の西村さんにお願いしました。嬉しいことにたくさん書いていただいたので、分割して掲載いたします。つづきは後日。



第16回俳句甲子園公式作品集を読む!(目次)へ

〈旭川東A・俳句批評鑑賞文〉仙台白百合学園・西村葉月

夏の海おほきな旗の揚がる音 堀下翔
旗は、大漁旗だろうか。旗が翻る音、旗の色彩の鮮やかさ、そして広がる夏の海。「おほきな」とわざわざ入れたところにも、どこまでも広がっていく希望や光あふれる夏の季感がとても感じられる。

一雨の来さうな感じゼリー食ふ 堀下翔
個人的にこの句が好きだ。この感覚はとてもわかる。ゼリーの少しくもったような半透明の輝きは、これから雨を連れてきそうな空模様ととても響きあう。そして、一雨来そうだな、と思ってはいるが、そのことを気に病んでおらず、むしろ静かな気持ちでゼリーをすくって食べている様子が感じられる。時雨、五月雨など、古来より様々な名前で雨を区別し、風情のあるもののとして雨を愛してきた日本人の精神が確かに生きている句だと思う。

白蓮や題箋揮毫たのまるる 堀下翔
書道が好きな作者らしい句。題箋、つまり題字は書物や作品の顔ともいうべき重要なところ。その揮毫をたのまれる。喜びと誇らしさ、そして緊張。ひきうけるではなく、たのまるるとあるところに、彼に題箋揮毫を依頼した他の「誰か」の存在が見える。ぴりっとした緊張感がこのたのまるるから確かに感じられる。そして、白蓮の効果。心を無にして筆を持ち、題箋を書くことは、どことなく神聖な儀式のようなものを連想させる。朝明けの仄かな光にぼんやりと浮かび上がる白蓮の姿は、心地良く張り詰めた緊張感の中で題箋揮毫に取り組む作者の姿をうつしているかのようだ。

紙芝居終はりて百日紅残る 堀下翔
紙芝居をみている間は、物語の世界に引き込まれ、現実の世界を離れて酔うことができる。しかしそれだけに、紙芝居の終わるときはさびしい。今まで紙芝居を聞いていた子供たちも散り散りにいなくなる。先ほどまで物語があったところには、真っ赤な百日紅だけが所在無げに咲いている。あえて紙芝居が「終わった」ところに視点を向けたところが好きだ。

全身に静脈這うや夏の海 池原早衣子
静脈は全身に通っている。そんな当たり前が、生きているということが、夏の海の輝きやいきいきとした力強さに触れて改めて素晴らしく感じられる。静脈と冬を取り合わせた句はたくさんあるが、静脈と夏という取り合わせが斬新。動脈では当たり前になってしまうところを、静脈のしずかな息遣いを持ってきて、夏の海と取り合わせたところが素晴らしい。

目も口も大きなる子や夕焼雲 池原早衣子
小さな子供は顔のパーツのひとつひとつが大きく、輝いていてとても印象的だ。目と口、一番思いを伝える場所が大きく印象的であることから、若々しい生命の輝きを感じられる。夕焼雲を背に、母親の手に引かれて帰る子供の様子が浮かぶ。

団栗のラテン語のごとく転がりぬ 池原早衣子
ラテン語のごとく、というのが少々わかりづらい。英語やフランス語ではなぜだめなのか。ディベートに頼る句ともいえるかもしれない。



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