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【対談】堀下×玲奈(土佐高)「新しい俳句」

対談第6回。俳句甲子園のテレビ特集にも出演されていた宮崎さんにご登場願いました。お相手は堀下。いったい青鞋、重信を目標にして句作する高校生俳人が彼女のほかにいるでしょうか。



第16回俳句甲子園公式作品集を読む!(目次)へ


堀「こんにちは! 他校対談第3弾! 今回は土佐高校2年、宮崎玲奈さんに来ていただきました。よろしくー(⌒▽⌒) 今日はどんなテーマで話そうか?? 一言でお願いします」

宮「よろしくー(^O^) んー、一言で言うとー『新しい俳句とは?』かな』

堀「あたらしいはいく。じゃーレナさんの思う新しい俳句はどんなのか、ひとつ教えてー」

宮「んー、新しい俳句。今年の俳句甲子園の句で言うと『泣くための静寂トマトゼリー噛む』(森優希乃さん/ 松山東A)とかかな」

堀「おー森さん。おれ、森さんの句大好き。この句、感情が強く出てるよね。俳句甲子園の句はあんまり感情を押し出さないのが多いけど、この句はまず泣きたいんだ! って主張する」

宮「そう。俳句甲子園の作品集を見てみると、やはりどうにも情景句が多い気がするんだよね。高浜虚子が、客観写生を唱えたりと、現代の俳句界で最もメジャーな俳句の作り方だとされているからかなぁ。そういう中での、この森さんの句は象徴的な心情句。トマトゼリーという季語の斡旋も効いてるし」

堀「水があふれるようなトマトゼリーと、涙。そして『噛む』がいい。ゼリーはふつう噛まないんじゃないか。喉に落とす感じ。噛む、もまた感情の強さを出す表現よね。感情を出す句が、レナさんの思う新しい俳句?」

宮「んー、皆、虚子の客観写生に固執しすぎている気がするんだ。虚子はホトトギスという結社の経営の為にこの理論を制定しただけで、彼の作品の中にも客観写生で詠まれていないものだってある」

堀「それはそうやね。虚子を読むとバカバカしいのもあるしなんだかよく分からないのもある」

宮「そんな俳句界に求められる新しさって例えば感情句であったり、阿部青鞋の『かたつむりいびきを立ててねむりけり』のようなイメージによる季語の使い方。俳句を一面でしか捉えてないのはモッタイナイんじゃないかって思う」

堀「青鞋は新興俳句の人やね。なるほど、レナさんの目指すところが見えた気がする。作品集見たら宮崎レナの句は異彩を放っていた(笑) 『内部犯行説の団栗散らばりて』『ゼリーにはペパーミントの正論を』とか。……おれ、虚子の散文はほとんど読んでないから、虚子自身が直接言った客観写生がどういうことか、よく分からないんだけど、虚子の客観写生は自然だけが対象だったの? 人間も写生してよかったの?」

宮「客観写生は、事物を客観的に描写することによって、そのうしろに主観を滲ませるほうがいいという考え方。虚子の唱えた客観写生は花鳥風詠のための技法であり、花鳥風詠が実作の方針だったらしい。その対象である自然には人間も含まれていて、人間も自然の一部とみなすよ。有名な『春風や闘志いだきて丘に立つ』は虚子の主観写生の具体的な例だね。私もきちんと身につけておくべき技法として、客観写生も取り入れるべきだとは思うけど、俳句って人に非ざる文学と書くじゃない? だとしたら、表面的ではあるけど、俳句の本質って、さっき挙げた青鞋の句や昭和の新鋭的な俳人高柳重信なんかにあるんじゃないかって。私たちが現在捉えるべき俳句の本質は、昭和の俳句史なんかでも、メジャーだとは言われなかった新鋭的な彼らが捉えていたのではないか、と」

堀「オッケー、だいたいわかった。ただピンとこないのは『俳句の本質』ってところ。客観写生にはなくて、青鞋や重信のほうにはある『俳句の本質』って、なあに」

宮「色々ゴチャゴチャしてしまったorz 重信や青鞋の俳句って、『人に非ざる』と書くから、ある意味笑いの文学に通ずるとこがあるんじゃないかって思う。『かたつむりいびきを立ててねむりけり』。この季語の使い方面白いでしょ? 皆が共感出来るような、実際に見た実感などをそのままストレートに表現するのも一つだけど、人に非ざる文学なんだったら、皆がしないようなものの見方を詠むのもいいよね。ってことだ」

堀「ふーむ、面白さ。俳句甲子園でそれを真剣に追ってる人はほとんどいないよね」

宮「たしかに、あまりいないのかもしれないね。例えば、開成さんとかは私とは真逆の『実感を大切にする』ということに重きを置いているものね」

堀「どうしてレナさんは俳句をそういうふうに考えるようになったの?」

宮「んー、なんでだろう。高柳重信や阿部青鞋、御中虫がこんな俳句の読み方もあるんだよって示してくれて、それに感動を覚えたからかな。単純に、皆が同じ方向を向いている中で、違う方向を見つけて、こっちにも面白い見方はあるよって示したい、と」

堀「なるほどー、青鞋、重信、御中虫へのリスペクトか。うーむ、たとえばさ、旭川東も御中虫ファンのチームだけど、じゃあおれたちも御中虫を目指して甲子園に行こう、とはならなかった。それは『誰かに影響されない』という意味合いじゃなくて、『御中虫だから目指さない』ということ。理由はたぶん、勝てない(かもしれない、未知数である)からだよね。『結果より過程と滝に言へるのか』(御中虫)にはたして審査員は旗をあげてくれるのだろうか、って。だから正直、レナさんは俳句甲子園では、異端児(⌒▽⌒)  俳句観の話を聞いていたら肝心の鑑賞を忘れていました(笑) ではそんな青鞋的な俳句を目指す高校生俳人が見た今年の俳句甲子園、ということで鑑賞をやってきましょー。ここまで聞いてきたところで森さんの俳句に戻ると、レナさんがこの句をいいと思うのは、季語としてのトマトゼリーの、実物以上の存在感、ということかな」

宮「そうだねー。俳句甲子園の兼題の中でもゼリーって本当に難しいと思った季語で、ゼリーという物自体を一物仕立てで詠むよりも取り合わせとして読んだ方が成功しやすいと思った。なかでも、取り合わせの俳句で成功例を挙げると森さんの句だと思う。カケル君が言ったように、ゼリーの瑞々しさと噛むという行為があいまって、作者の感情を助長している」

堀「ゼリーは例句がなくてなくて……(^-^) 作品集を見ると、みんな困ったようで、恋心にからめたり、空模様にからめたり、と、発想も似通ってしまう部分がたくさんあった。森さんのような思春期のあぶなっかしさにぶつけたのだってたくさんあった。その中でこの句がいいと思えるのは、ひとつには静寂に注目したところもあるのかな、と思うんだ」

宮「静寂に注目したとは?」

堀「他の句はわりと『ゼリーだね! ふるふるだね! 思春期だね!』で、ゼリーだけ提示しておしまい、みたいな。この句の空間には、ゼリーのまわりにでっかい静けさがある。この静寂が空気をさらに透明にしてるから、映えるんじゃないかって」

宮「カケル君が言いたいことすごくわかる。この句他の句とちがうんだよね。静寂があってゼリーという季語が生きてる、みたいな。ゼリーという物を通して作者の思いが反映されている」

堀「思いを全面に押し出すのはすごくむつかしいけれど、できないわけではない。それを示してくれる句でした。他の句ではどれが気になる?」

宮「がらっと感じは変わって『親指を血はよく流れ天の川』(吉井一希さん/灘)。さっきは私からだったのでカケル君からどうぞ」

堀「灘! 灘の初登場は衝撃だった。そしていきなりこの句で賞を取った。最初はさ、えーなんか血と川は近いんじゃないのって思ったんだけど、違うんだな。見上げてるんだ。もう、ちっちゃい光がうわわわわわーってたくさん。見てたらさ、もう無心なんだ。無心で見上げてるから体の感覚はない。で、ふっと気づいたら、親指が脈打ってんのね。今まで星にばっかり気を取られてたぶん、この脈動が妙に気になる。この血は、ぶわーって、天の川へと向かっていくのかも。天の川を見てると、体の中のものがぜんぶ吸い上げらちゃいそうな気がする。天の川を見る感覚を体を使ってうまく表した句だと思った(⌒▽⌒)」

堀「私もだいたい同じ感じ。上五、中七の親指を血はよく流れのフレーズからは当たり前のことではあるが、改めて自分の体を血が流れているんだという生命力に対する実感。加えて、下五に天の川とくる。キラキラと星が幾千と瞬く。美しい季語だと思う。流れているんだ、という繋がりだけで作ったとは言い切れない感じ。天の川という美しい季語であるが故の『親指を血はよく流れ』の意外性。この句は優秀賞に選ばれてるけど、天の川という季語に対しての意外性、今まで、天の川って季語のこんな扱い方見たことないよってので、審査員の先生は選んだのかなーとか色々考えてみたり」

堀「レナさんがこれを取り上げたのはなんで?^_^」

宮「季語の斡旋が新しいと思ったからかなd( ̄  ̄) こんな天の川の使い方は見たことない」

堀「ふうむ。たとえば身体感覚の天の川で言えば『子を負うて肩のかろさや天の川』(竹下しづの女)とかがある。となると、この句の斡旋の新しさはどこだろう」

宮「親指自体に視点があって、血が流れ、脈がどくどくと高鳴っているという詠者の実感。一方、竹下しづの女の句は読者には子を背負った母の姿が想像でき、母の天の川の美しさに魅せられ、背負った子までも軽く感じられるという詠者の実感がある。しづの女の句はどちらかといえば天の川に視点の重きが置かれるが、親指は天の川だけでなく、前のフレーズもズキューンと衝撃的な感じでない?」

堀「なるほど……そーゆうことね^ - ^」

宮「次の句いきますか? 『まだあをき団栗拾ふ理系女子』(佐南谷葉月さん/金沢泉丘)。
この句も新しいよね! 目を引くのが理系女子というフレーズ。写実なんだけど、理系女子ということで、写実の裏で私たちに伝えてくるものがあるよね。理系女子だからこそ青い団栗を拾う。皆が着目しないような所に注目する理系女子みたいな」

堀「これはわかりやすく新しい。ステレオタイプじゃん。ステレオタイプをわざわざ押し出してくるから面白いし新しい」

宮「うんうん。同感!! カケル君は何か気になる句ある?」

堀「おれはねー『皿にゼリー再放送に泣いてをり』(上川拓真さん/開成B)。再放送だけど、自分が見るのは初めて。こんなドラマがあったんだ。もしかしたら、自分が生まれる前のものかも。こんな古いものでも、泣ける。なんかさ、自分の小ささを感じるんだよね」

宮「シンプルだけど、深みがある句と言ったらいいのかな。一見報告のような気もするんだけど、泣くって動作にポイントがあるのだと思う。さっきの森さんの泣くとはまた違うんだけど、この句にも作者の感情を感じるよね。ゼリーという脆い食べ物と詠者の涙腺の緩みの取り合わせ。皿にゼリーとここで一度切れが入ることによって私とゼリーとの二物の距離感が上手く描かれていると思う」

堀「そう、距離感。ただごとなんだよ。皿にゼリーのあることも、再放送も。そんなただごとに泣いてしまって、ちょっとした感覚のズレを読者に与える。距離感が、ちょっと変てこで、だからこそ成り立つ。あとこの句、日常に溶け込んでるのがいいな、と思う。ゼリーに限らず、俳句を詠もうとしたら、絶対、パッと驚くことを言いたくなるんだけど、この句はそうじゃない。日常に徹して、そのなかで異質な雰囲気を立ち上げる」

宮「確かに日常の切り取りやね。その中にある、カケル君が言う異質な雰囲気こそが、この句の深みなんだよなぁ。インパクトがある句ではないんだけど、哀愁があるというか。この作者の句を一通り見てみたんだけど、どの句も作品の中に作者の一部が潜んでいる。例えば『捺印の指に力や秋暑し』(上川拓真さん)。これも作者自身の感覚だよね。ある空間があって、それを見るのがカメラの眼、みたいな作品ではない。さて、一区切りついた感じ?」

堀「せやね。じゃあ最後になんか一言!」

宮「月並みではありますが、今回の対談非常に楽しかったです! やはり俳句は詠む人がいて、鑑賞する人がいて、一つの句に対しても多面的に考察しがいがあるというか。改めて、最短の文学でありながらも、奥深いなぁと。いや、凝縮された文学だからこそ深いのかなぁと思ったり。なかなか俳句自体の本質や全体像を掴むことが出来ないからこそ、私たちは俳句を創造して、俳句を鑑賞して、という作業を繰り返す中で、新しい発見を得て、うわぁーやっぱ俳句ってすげえ、楽しいって思うのかな。何よりカケルくんをはじめ、これからも色々な学校、結社の皆さんと交流する中で、新しい俳句を追求し続けていきたいと思います。今回はありがとう!」

堀「レナさんの言うことはなかなか本格的で、あっ、こんなふうなことを俳句に求めてるひとが俳句甲子園にいるんだ、というのが衝撃でした。うちの部はわりあいに不勉強で、「重信? 誰それ」なんてヤツもいるわけで、いい刺激になればな、と思うよ(^-^) また機会があればお越しください。ありがとうございました」

附記:正直に申し上げると、レナさんの話はなかなかにむつかしくて、ついて行ききれない所もありました。そこで彼女に「わたしの俳句観」をテーマに一文を依頼しています。本企画が終了した後の掲載になると思いますが、原稿をいただき次第掲載するので、そのときには併せてご覧ください。

2013.11.30~12.4 対談はメールで行われた。 編集:堀下



コメント
[2] 小川朱棕 | 2013/12/23 19:15
返信が大変遅れて申し訳ございません。
コメントありがとうございますm(_ _)m強豪校の松山東高の生徒さんがうちのHPを見てくださっているなんて‥‥‥とても嬉しいです。
これからもさまざまな企画を掲載する予定なので、是非、ご覧になってください(*^_^*)
[1] 松山東 男子 | 2013/12/18 21:13
そん俳人をテーマにしちゃうなんて笑
流石です。。。

やっぱり審査員の先生方も、刺激的な俳句を求めてるのかなって思います。普段目にしないような。
だからそういう作句は異端に見えて俳句甲子園においてはスタンダードになりえと思います。
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