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【小説】くらげ/ひねもす

 ちょうどよく日の差す窓際の席で、しかも昼ごはんを食べたあとなら、まどろんでもそれは仕方のないことだと思う。そのときたぶん幸せな夢を見ていた私は、かれんちゃんという女の子から何かを渡されて飛び起きた。というのも、その渡し方が無言のまま蝿叩きでもするかのようだったのである。夢の内容も消え失せて、わけもわからぬままに受けとったそれは、記入済みのプロフィールだった。きっともう返ってはこないのだろうと、今まで忘れていたものだ。ずいぶん前に渡したそれが皺くちゃになって、けれども確かに私の元へ返ってきたということは、かれんちゃんが部屋を掃除したときにでも発見されたにちがいない。なんて運のいい紙きれ!
 そこまで考えるあいだにかれんちゃんとプロフィールを交互に見た。かれんちゃんは、いつだってこの世の終わりを伝える使者みたいな面持ちでいる。今日もやっぱりそうであることを確認し、ありがとうと言いながら手元の紙に目を通した。相手を動物にたとえたら何かという欄に連なった三つのまるっこい字に視線がとまり、首を傾げる。
「くらげ?」
 かれんちゃんの眉間にぐっと皺が寄った。しかしそんな谷も、グランドキャニオンに比べればどうということはない。答えを待っていたら、かれんちゃんはふうと息をついた。
「あんたと話してると重力がなくなるから」
 そう言い捨てて、かれんちゃんはなぜか不機嫌そうに去っていった。私は、私をよく知る人物にこの意味を聞かねばなるまいと思いながら、チャイムの音を聞いていた。


「お母さん、どうして私はくらげなの」
 夕ごはんの最中に思い出してたずねた。母はあと少しで口に入るところだったハンバーガーを落っことして、私をじっと見つめた。きっと、そのひたいの裏では様々な思いが錯綜しているのだろうなぁ。想像しながらフライドポテトをつまむ。私が三回咀嚼した頃に、母はバラバラになったハンバーグとバンズを元どおりに挟みなおして、机を綺麗に拭きながら言った。
「お母さんは、人間よ」
「うん」
「お父さんも人間だったわ」
 だのにどうしてあんたがくらげなの、と、頭のてっぺんからつま先を見る勢いで黒目が上下した。母は、答えどころか隔世遺伝という言葉さえ知らなかった。


「それで、俺に聞くのか」
「うん」
「難しい質問だ」
 ふみと君という男の子の家まで行って、これまでのいきさつを説明してから訊ねた。このひとは考える姿が賢そうなので、ちゃんとした答えを出してくれるような気がした。
「誰に言われたんだ、そんなこと」
「かれんちゃん」
「かれんちゃんってことは、その子はやっぱり、可憐なのか」
 私が黙ってにこにこすると、ふうん、と言ってそれからまた何か考え込んだ。かれんちゃんという情報が何の役に立つのか分からない。
「重力がなくなるって言われたんだろ」
「そう」
「それは悪口なのか」
 私はああ、と納得したようなふりをしてから、馬鹿みたいにまっしろになってしまった脳みそを使ってこたえた。
「ちょっとわからない」
「皮肉なのか」
「私はかれんちゃんじゃないんだよ」
「知ってるよ」
 そんなことは知ってる。とくり返してぶつぶつ言い始めた。考えるときに、ひとりごとを言うくせがあるのを知っている。テストのとき大丈夫なのかと前に聞いたら、テストのときは大丈夫だと言うから、そうかテストのときは大丈夫なんだと言って、以来その話をしたことがない。
 ふみと君が下がってきていた眼鏡を中指で上げた。きっとそれもくせ。
「うん、でも、わかる気がする」
「なにが」
「お前がくらげってことが」
 まじめな顔で言うから、私って案外、くらげだったのかしらと納得しそうになるけれど、こうして陸で息を吸って吐いて、両親が人間である以上、私も人間にちがいないと思い直す。
「つまり、それは比喩的な意味だね」
「お前、比喩的な意味なんて分かるの」
「馬鹿にしているね」
「うん。いや、それでお前、ちょっとこうやってみろ」
 立ちあがったふみと君は背中をちょっと丸めて、手をだらりと重力に逆らわない格好にした。私もならってやってみると、ふみと君が左右にゆらりゆらりと酔いそうな揺れ方をするので、なんだか面白くなって、私も真似しながら室内を歩きまわった。二人でしばらくそれを続けていたら、だんだん客観的に物事を見ることができるようになったのでやめた。
「それで、つまり、お前はこういう感じなんだ」
「なんとなくわかった気がするよ」
「本当?」
「うん、つまり、プログラム規定説みたいな感じなんだ」
「なんだっけ」
 私も適当に言ったから笑ってごまかした。ふみと君がなるほど、と言った。なんにも説明していないのに。
「核心が消えるんだ。なんていうか、ブラックホールに呑まれるみたいに」
「おおきな話だ」
「うん、そうだ。おおきな話だ」
「かれんちゃんすごいな」
「そうだな。かれんちゃんとかいう子には、才能があるんだな」
 うんうん頷いてから、なんの?と聞いたら、さあ、と言われた。ふみと君も結構、てきとうなことを言うのだ。
「じゃあ私は、ふみと君よりおおきい人間なんだ」
「それはちょっとちがう」
「えっ」
「だってお前、それはさ。ちがうだろ?」
 聞いているのはこちらだから、聞かれてもわからない。ふみと君は同じような内容をもごもご喋っている。地方に住んでいるおじいちゃんが入れ歯を取りだしたところを思い出した。でもふみと君はおじいちゃんという年でもない。なんだか不思議だなあと思った。そこで、比喩的な意味を理解した。
「ちがうっていうのはちがうけど」
「じゃあ、ちがわないんだ」
 ふみと君はけらけら笑ってから顔を引き締めて言った。
「いいか、ひとのおおきさっていうのは一つのことじゃはかれないし、比べるものでもないんだ」
 私はぽかんと口を開けてふみと君を見た。時間が止まっている。
「今なにか、かっこいいようなことを言ったね?」
「そう、かっこいいことを言った」
「おお、かっこいいな、ふみと君」
「それほどでもないさ」
 ははは、と笑ってから、例のごとくブラックホールに呑まれてしまったらしく、私たちはたぶん別々のことを考えていた。くらげはおおきいものだ。
「ふみと君は時計みたい」
 そう言ったら、ふみと君はちらりと私の頭のてっぺんを見た。どこか、近くでカチカチいう音がしている。
「それはまた、ずいぶん無機質だなぁ」
「いつも正しく動いてるんだけど、ときどき止まる」
「……それってさっきの話か」
「どうかなあ」
 私は意識して眉を上げた。本当は片方だけを上げようとしたのだけれど、上手くいかなかったみたいでふみと君は苦笑していた。扉の向こうから夕ごはんの時間を告げる声が聞こえてくる。
「母さんにも聞いたらいいよ、くらげのこと」
 私は首を振って笑った。
「もういいよ」
 ふみと君が、なにかかっこいいことを言ったふみと君を見ていた私みたいな顔で、なんで、と聞く。
「だって、私は人間だもの」
 妙にふみと君の表情が消えたかと思うと、そんなことは知ってるよ、と頭を殴られた。でも不気味なくらいやわらかい殴り方で、全然痛くなかった。びっくりしたけれど、ふみと君は特に何でもなさそうに部屋を出た。扉の向こうには私の好きな食べ物がいっぱい用意されていて、ふみと君のお母さんはとってもにこにこして待っていた。いっぱい食べてね、と言った。私は突然鼻の奥が痛くなった。さっきの拳がずいぶんな時間差で効いてきたんだろうと思った。ふみと君の方を向いて、やるな、と言ったら、まあな、と言われたのでまたびっくりした。すでに私にはくらげの毒が回っているのかもしれない。
 夢中で食べる私の隣で、冷凍でも市販のものでもないハンバーグがぼとりと落っこちた。それと一緒に、私の目から何の前触れもなく一匹のくらげが落っこちて、木製のテーブルに吸いこまれていった。そこでようやくはっとした。目頭はもう死んでいた。



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