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【評論】浜田蝶二郎の歌/開来山人

 万葉から王朝和歌、そして近世を経て現代に至るまで、歌に詠まれた対象というのは、殆んどが四季の巡りであり、その中に在る自然であり、そこに生きる人間の生活だった。多くの歌人は、生きている中で得たワンダーを、それを発生せしめた対象物を詠むという形で、われわれに提示してきたのだ。

 しかし筆者はここに、一人の異質な歌人を紹介する。浜田蝶二郎である。大正八年に神奈川県で生まれ、平成十四年で没するまでに七冊の歌集を出版した。蝶二郎は、『われ』を見つめる歌人だった。幾つか引いてみよう。(以下、すべての短歌の引用は『現代の歌人140』〈小高賢/新書館〉による)

・気 疲 れ し て 眼 を ぱ ち ぱ ち す る わ れ の 癖 あ る ひ は 死 後 も 記 憶 さ れ む か

・や が て 死 ぬ 者 が 死 者 悼 む 無 意 味 こ そ や さ し か り け れ 陽 の 照 る こ の 世

 こんなふうに、蝶二郎は他者を詠まない。この世にただ一人しかいない『われ』に情熱を注いだ。もちろん『われ』を主題とする歌は、蝶二郎のもの以外にも存在する。しかしそれらは〈他者を見ている『われ』〉、極端に言い換えてみるならば〈『われ』が他者を見ているという風景〉を詠んだものではないか。例えば日常性をベースに作歌を行う奥村晃作の『七十二、罪なく佐渡に流されし世阿弥と知りぬわれはそのとし』は、『われ』が流刑となったときの世阿弥と同齢であることに対する驚きが、そのまま『われ』の年齢に対する驚きへと導かれている。ここでは世阿弥という対象によって歌が発生した。つまり、この歌は世阿弥とセットでなければ成立しない。

 ここで先掲の二首を見てみよう。
 一首目、自分の癖を挙げて、それは自分の死後、周囲の記憶に残るだろうかと問う。「されむか」という疑問の形をとっておりながらも、蝶二郎は明らかに「される」という確信を持っている。それは「あるひは」(ひょっとしたら)という控えめな物言いから生じた正反対の効果だ。蝶二郎は「あるひは~か」と言い投げており、一見この問いに無関心であるかのように見える。だが蝶二郎はこの問いをわざわざ歌という形に仕立てて、外界に発信している。『われ』に対する確信を表明したくてたまらない、という思いが見え隠れしている。この場合、初めに登場する「癖」はこの歌の主役ではない。『われ』への確信を表明するための数ある方法の中から「癖の提示」が選択されたに すぎないのだ。

 二首目、この歌の中心は「無意味」の語だ。一見ありふれた老境詠に思えるが、この「無意味」がそのような鑑賞を阻止する。ふつうこの歌の状況になったとき、人はまず「やがて死ぬ者が死者悼む意味は何だろう?」という思案をする。その結果として各々の中での意味の有無が導かれるのではないか。しかし蝶二郎はこの段階を無視していきなり「死者悼む無意味」と断じる。ここに蝶二郎の日常的な『われ』への認識が顕れている。

 蝶二郎の歌は、晩年になるに従い、さらに一般的な歌とは毛色の違ったものとなる。幾つか見てみよう。

・誰 に で も 一 対 揃 ひ ゐ る 公 平  生 年 月 日 ・ 没 年 月 日

・身 体 は 一 つ あ れ ば よ く 岐 れ て る 腕 は 二 本 よ り 多 く は 要 ら な い

 個別の鑑賞はしないが、これらの歌は、顕在化された思考そのものだ。そこに景はない。本来、これらの歌が詠まれる原因となった出来事があるのかもしれないが、それらは決して表面化しないし、その必要はない。蝶二郎は『われ』の追求を優先する。蝶二郎にとって肝要なのは『われ』であって『われ』に示唆を与えてくれた自然や生活の営みではなかった。そのようなものがなくても『われ』への認識は存在し得るのだから。

 少しだけ、短歌との比較として俳句のことを考えてみたい。俳句のメーンとなる概念は瞬間の切り取りだ。古今、子規の『柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺』や草田男の『万緑の中や吾子の歯生え初むる』など、名句と呼ばれるものは数えきれないが、それらは殆んど「わたしは~という瞬間を見た」という基本構造に当てはまる。『われ』の見た景を詠むのが俳句であって、俳句で『われ』そのものを詠むことは基本的にありえない。多くの自己詠は『われという風景』に過ぎないのだ。だから俳句で完全な『われ』を詠もうとすると、しばしば「短歌でやるべきだ」という指摘を受ける。

 では短歌は『われ』を詠むことができるだろうか? 歌人は自然を詠み生活を詠む。岡井隆であろうと馬場あき子であろうと栗木京子であろうと、歌人は景を詠む。俳句と短歌の差異は、その景の動きをとらえるメソッドの差異だ。とすると俳句で『われ』が詠めないならば短歌でも詠めないことになる。俳句側の「短歌でやれ」の謂いは、俳句にはなく短歌には存在する時間軸のゆとりが『われ』を捉え得るという発想に過ぎないのである。

『われ』を詠むことの不可能性。この壁を打ち破るのが、浜田蝶二郎の作歌概念だ。今まで見てきたとおり、蝶二郎の歌は景を拒否する。彼にとって歌とは、純粋化された思念を言語化するという行為なのだ。かつて歌をそのようなものだと完全にとらえた歌人はいなかった。そして蝶二郎の死後十年経ったのちも登場していない。

 あらゆる局面での現代化が進み、人の営みはかつてとは別物になった。かつてというのは、和歌が生まれた時代はもとより、現代短歌が成立した時代をも指す。詳しく述べるのは本筋ではないから避けるが、たとえば堀井憲一郎が「若者殺しの時代」〈講談社現代新書〉で示した、どちらも数十年前に過ぎない七十年代と八十年代の間にある社会構造の差異のようにだ。変化の速さは例を挙げるときりがないし、あるいは誰もが知っていることでもある。都市化の中に於いて自然詠は可能か、などといった問題はひとまず置くとしても、変質した社会を生きる個人に対応できる表現論が必要だ。短歌界には俵万智や穂村弘の登場で新風潮が生まれたが、それは単に既存の物とは異なっているというだけで、求められる表現を生み得るかといえば、必ずしもそうではない。『われ』は外部にある存在ではないのである。
 蝶二郎の最晩年の歌を掲げてこの稿を終わりにしよう。

・わ た し 死 ん で ゐ な く な つ た と 感 じ た ら そ れ は わ た し が ま だ ゐ る こ と だ 

「感じ」るのは他者だからこれは二人称の歌である。にもかかわらず、この他者とは誰かということを、おそらく蝶二郎自身も想定していない。二人称という呼びかけの形でありながら、これは完全に概念的な歌だ。概念とはすなわち『われ』の中にあるもので、ほかのどこにもない。「ほかのどこにもない」ものを詠んだ歌人が、蝶二郎のほかにいただろうか? しかし「ほかのどこにもない」ものこそ、これから詠まれるべきものだ。今までにないものを新しく詠めるというのは健康的なことだと思う。そういう意味で、筆者は浜田蝶二郎の名前を喧伝したいのである。



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